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第26話 羽柴からの文、笑って読めぬ文

秀吉からの文が届いたのは、光秀が安土へ戻ってきて間もなくのことだった。


 昼の光はまだ高い。

 城中の動きも、忙しさのただ中にある。

 奉行筋は文を抱え、近習は主命を運び、使いの者たちは廊下を小走りに行き交っている。

 その全てが一見いつも通りでありながら、どこか張りつめているのは、本能寺の朝の“後始末”がまだ完全には終わっていないからだろう。


 龍之介は、安土と都の流れの見取り図へ新しい線を書き込んでいた。


 都から安土。

 寺社から都筋。

 奉行衆から近習。

 上意から外へ。

 見れば見るほど、この国の政は紙の上に真っすぐ書けるようなものではないと思い知らされる。

 人の顔があり、理があり、損得があり、しかもその全てが時と場で表情を変える。


 そこへ、蘭丸がやってきた。


 いつも通り、余計な足音はない。

 だが、襖の開け方がほんの少しだけ違う。

 急ぎでありながら、軽くはない用件の時の手つきだ。


「三上殿」


「何だ」


「上様がお呼びにございます」


「何かあったか」


 龍之介がそう問うと、蘭丸は一拍置いてから答えた。


「羽柴殿より文が」


 来たか、と思った。


 思っていたより早いか。

 いや、むしろ秀吉の鼻を考えれば、これでも当然なのかもしれない。


「わかった」


 立ち上がると、蘭丸はそれ以上を言わず先に立つ。

 だがその背から、“軽く考えるな”という気配は十分に伝わってきた。


     ◇


 信長がいたのは、安土の中でもやや開けた一室だった。


 評定ほど堅くはない。

 茶席ほど密でもない。

 だが、話が軽いわけではないと入る前から分かる空気がある。


 部屋にはすでに何人かいた。

 信長。

 丹羽長秀。

 柴田勝家。

 そして脇に控える蘭丸。


 光秀はいない。

 そのこと自体に、龍之介は少しだけ意味を感じた。

 この文を光秀の前で開くのは、今はまだ火が近すぎると見たのだろう。


「来たか、龍之介」


 信長が言う。


「は」


「ちょうどよい。羽柴が笑わせに来た」


 信長の口調は軽い。

 だが、その目は少しも軽くない。


 蘭丸が一通の文を差し出す。

 龍之介は両手で受け取った。


 封は丁寧だ。

 文の仕立ても乱れがない。

 さすが羽柴秀吉、こういうところで雑に見せない。

 雑に見せぬこと自体が、相手へ向けた最初の駆け引きなのだろう。


 ひらく。


 文面は端正だった。

 礼を失わず、忠を欠かず、しかも余計な大仰さもない。

 まず本能寺の朝を受けての信長の無事を慶ぶ。

 そのこと自体は自然だ。

 むしろ当然と言ってよい。


 だが、その自然さの中に、ほんの僅か、爪が隠れていた。


 急ぎ言上の由、都筋の儀はまこと世の移ろい早く、御心労いかばかりかと察し奉る。いずれ仔細を承りたく……


 仔細を承りたく。


 そこだ。


 押しつけがましくはない。

 露骨に探っているとも書いていない。

 だが、“急ぎ言上”という形をすでに文の中へ取り込み、そのうえで“仔細”を欲している。


 つまり、秀吉はもうその器を見ている。

 “都筋の込み入った話”という表向きの形が先に流れていることも、そのうえでまだ奥があることも、両方嗅ぎ取っている。


「……笑えませぬな」


 龍之介がぽつりと言うと、勝家が鼻を鳴らした。


「そうであろう。羽柴め、鼻だけはまことによく利く」


 丹羽は静かに言った。


「文としては綺麗です」


「だから余計に嫌だな」


 勝家が言う。


「何も知りませぬ、ただ上様を案じております、という顔をしながら、しっかり“急ぎ言上”に触れておる」


 信長は、文を読んだ龍之介の顔を見ていた。


「どう読む」


 短い問いだった。


 龍之介は文を見下ろしたまま、少しだけ言葉を選んだ。


「羽柴殿は、まだ何も確信しておられませぬ」


「ほう」


「ですが、“何かがあったことにされている”とは見ておられます」


 信長の口元が、わずかに上がる。


「続けよ」


「本能寺の朝、明智日向守殿が急ぎ参られた。そのこと自体はもうご存じでしょう」


「だろうな」


「そして“都筋の込み入った話”という形も、すでにどこかで拾っておられる」


 龍之介は文の一節を指先で軽く押さえた。


「ですが、ここで仔細を承りたいと書くのは、半ば確かめです」


「何を」


 丹羽が問う。


「こちらが、どこまで説明したがるか」


 龍之介は答える。


「慌てて長く返せば、それだけでこちらが“形を固めるのに苦労している”と見える。逆に短すぎても、“仔細を伏せねばならぬほどのことか”と見る」


 勝家が腕を組む。


「嫌らしい」


「はい。しかも、表向きは一切無礼がない」


 これが厄介なのだ。


 秀吉は、信長の無事を喜ぶ顔を崩さない。

 忠を疑わせる文言も使わない。

 そのうえで、ほんの少しだけこちらの喉元へ針を置く。


 しかも針を置いたことさえ、文面だけなら言い逃れがきく。

 “仔細を承りたい”など、忠臣として当然の望みですと言われれば、それまでなのだから。


「……面倒な男よ」


 信長が、しかしどこか楽しそうに言った。


「はい」


 龍之介は頷いた。


「笑って読めぬ文にございます」


 その言葉に、信長は少しだけ声を立てて笑った。


「よい題だな」


「題ではございませぬが」


「いずれ題にもなろう」


 そういうところだぞ、と思う。

 だがこういう時でも面白がれるのが、この男の強さでもあるのだろう。


「上様」


 丹羽が静かに言う。


「羽柴殿は、まだこちらの形を崩せるところまで来てはおりませぬ」


「うむ」


「ですが、この文は“勘づいております”という札でもあります」


「その通りだ」


 信長は文を受け取り、ひらひらと揺らした。


「羽柴らしい。見えておらぬところへは飛び込まず、まずは音だけ鳴らす」


 勝家が不快そうに言う。


「ならば、黙らせますか」


「どうやってだ」


 信長は即座に返した。


「何の罪で羽柴を黙らせる。忠を尽くし、無事を喜び、仔細を案じる文であるぞ」


 勝家は口を閉ざした。

 そこが秀吉の怖さなのだろう。

 表で筋を外さず、なおかつ腹の中だけで相手を揺らす。

 正面から槍で来る相手ならまだ打ち返せるが、こういう文は打ち返しづらい。


「龍之介」


「は」


「ならば、どう返す」


 そこへ振るか、と内心で思う。

 だがもはや驚くまでもない。

 信長はこういう問いを、気軽な顔で投げてくる。


 龍之介は慎重に答えた。


「長くは返さぬ方がよろしいかと」


「ほう」


「羽柴殿が欲しがっておられるのは、仔細そのものより、こちらの揺れです」


 信長の目が細まる。


「続けよ」


「ここであれこれ言い訳めいたものを足せば、かえって“何かを隠したいのだな”と見られる。ですので、あくまで羽柴殿の忠を喜び、都筋のことは一時の細事にて心配無用、とだけ返すのがよろしいかと」


 丹羽が小さく頷いた。


「それ以上の餌をやらぬわけだな」


「はい。ただし」


「ただし?」


 今度は勝家が問う。


「短く返すだけでは、“やはり何かあったか”とも思われましょう」


「思うでしょうな」


「ならば」


「だからこそ、文の外で別の空気も流すべきかと」


 信長がわずかに口元を動かした。


「空気、とな」


「はい。羽柴殿の耳は文だけではございませぬ。都筋、寺社筋、家中の周辺、あちこちに耳を立てておられる。ならば、そのどこを拾っても“急ぎ言上にて、都筋の細事。大事なし”の形が変わらず出るようにしておく」


 勝家が鼻を鳴らす。


「昨日までの話と同じだな」


「はい。同じですが、相手が羽柴殿となればなおさらです」


「なぜだ」


「文で嘘を見抜くのではなく、文と文の外の齟齬で嗅ぎますから」


 それは龍之介の推測でもある。

 だが、そう外れてはいまいと思う。


 秀吉という男は、ひとつの証拠で判断するより、あちこちの“妙なずれ”をつないで答えを作る類に見える。

 ならば、こちらも文と言葉と噂のあいだに齟齬を作ってはならない。


「上様」


 丹羽が言う。


「都側へ流している器、さらに少し厚くしますか」


「うむ。だが大げさにはするな」


 信長は即答した。


「今さら“本能寺の朝はこうであった”と広く触れ回れば、それ自体が臭う」


「では」


「すでに流れておる空気を揃えよ。羽柴がどこから拾っても同じように見える程度でよい」


「御意」


 蘭丸が短く頭を下げた。


 信長はそこで、再び龍之介を見た。


「おぬし」


「は」


「羽柴は、何を見ておると思う」


 問われて、龍之介は一瞬考えた。


「本能寺の朝に何があったか、だけではなかろうかと」


「ほう」


「もし本当に大事が起こりかけたのなら、それを誰が、どう収めたかも見ておられるはずです」


 信長の口元が、わずかに上がる。


「そこまで読むか」


「読みたくなくとも、そう考えねば怖うございます」


「その通りだ」


 信長は笑う。


「羽柴は、匂いの元を追う男よ。明智だけがあの朝を包めるはずはない。ならば誰かがおる、と考えような」


 その言葉に、龍之介の背筋へ冷たいものが走った。


 秀吉はまだ自分の名を知らぬ。

 顔も知らぬ。

 だが“誰かいる”と感じ始めている可能性は十分にある。


「……会う前から嫌な相手だ」


 思わず本音が漏れる。


 勝家がそれを聞いて鼻を鳴らした。


「だから言うたであろう。あれは腹で斬る」


「いま少し分かってまいりました」


「まだ文一通でこれだ。会えばもっと面倒だぞ」


 それはまるで励ましになっていない。

 だが励ます気もないのだろう。


 丹羽が静かに言う。


「上様」


「何だ」


「いずれ、会わせられますか」


 部屋の空気が少し変わる。


 信長は、それを楽しむように笑った。


「うむ。いずれ呼ぶ」


 やはり来るか。


「羽柴にも、この“異物”を見せてみたい」


 信長はそう言って、龍之介を見た。


「三上龍之介」


「は」


「おぬしと羽柴が向かい合うた時、どちらが先に相手の腹へ手を入れるか。なかなか面白かろう」


「上様は、人の胃に悪いことを面白がりすぎにございます」


 信長は声を立てて笑った。


 勝家は呆れた顔をし、丹羽は静かに目を伏せる。

 蘭丸だけが、いつも通り表情を崩さぬ。

 だが、その目の奥には“やはりそうなりますか”という諦めに似たものがあるように見えた。


「では」


 信長が文をたたきながら言う。


「返すぞ。羽柴へは、仔細などない顔で返す」


「御意」


 蘭丸が受け取る。


「都の器も、もう一度揃えよ。羽柴がどこから嗅いでも、同じ匂いしかしないようにな」


「承知」


「ただし」


 信長の目が細くなる。


「匂いそのものを消そうとはするな。消そうとするほど、あれは深く嗅ぐ」


「……御意」


 たしかにその通りだ。

 匂いがあること自体は、秀吉ももう知っている。

 ならば完全に消すのではなく、どういう匂いかを先に決めてしまう方がいい。


「龍之介」


「は」


「この文、どう感じた」


 それは単なる読解ではなく、もっと個人的な問いに聞こえた。


「まだ顔も知らぬ相手に、もう見られておる気がいたします」


 正直にそう答えると、信長は少しだけ満足そうだった。


「よい」


「は」


「その感覚を忘れるな。羽柴は、こちらが思うより先からこちらを見ておる」


 勝家が低く付け足す。


「しかも笑うたままでな」


 嫌な補足だった。


 だが、その嫌さがまさに本質なのだろう。


     ◇


 話が終わり、部屋を辞したあとも、龍之介の胸の内には秀吉の文が残っていた。


 たった一通だ。

 しかも礼儀正しく、忠を尽くし、何も間違っていない文。


 なのに、ひどく面倒で、ひどく怖い。


 まだ会ってもいない。

 声も知らない。

 顔も知らない。


 それでも、こちらが“何かを抱えている”と向こうはもう感じている。

 その事実だけで、じわりと汗がにじむような圧があった。


「難しい顔で」


 廊下へ出たところで、影鷹が現れた。


「おぬし、本当に良いところで出てくるな」


「三上殿のお顔があまりによく“羽柴は嫌だ”と申しておられましたので」


「そんなに出るか」


「大変よう出ます」


 龍之介は少し苦笑した。


「文一通でここまで気分を悪くされるのですから、実際に会えばもっと面倒でございましょうな」


「やめろ。想像したくない」


「ですが会うことになります」


「それも分かっておる」


 信長が“いずれ呼ぶ”と言った以上、そうなるのだろう。

 そして信長は、たぶん本気でそれを面白がっている。


「影鷹」


「は」


「秀吉という男、やはり恐ろしいか」


 影鷹は少し考えてから答えた。


「恐ろしい、の種類が違います」


「どう違う」


「上様は、大きい」


「うむ」


「羽柴殿は、細かい」


 その一言は、妙に腑に落ちた。


 信長は大きい。

 大きく見て、大きく動き、大きく世界を変えようとする。

 秀吉は、もっと細かいところから入ってくるのだろう。

 人の顔、噂のずれ、言葉の綾、場の空気。

 そういう細部から全体を食っていく。


「なるほどな」


 龍之介は安土の廊下の先を見た。


 城は静かに動いている。

 だがその静かな動きの外、まだ見ぬところで羽柴秀吉という男もまた動いている。


「会いたくないような、会ってみたいような」


 龍之介がぽつりと言うと、影鷹が目を細めた。


「危ういお顔で」


「何がだ」


「そういう相手ほど、たいてい避けられぬものです」


「長く生きると、よく分かる」


「でしょうな」


 安土の窓から入る風は、少しだけ夕方の気配を帯びていた。


 本能寺の朝を越え、光秀が戻り、秀吉の文が届く。

 信長の未来は確実に動き始めている。

 そして自分もまた、その流れから外に立つことはもうできない。


「……会わせてみたい、か」


 信長の言葉を思い出し、龍之介は小さく息を吐いた。


 上様という男は、本当に面倒なことばかり面白がる。


 だが、そういう男を生かしてしまったのは自分でもある。

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