第25話 光秀、安土へ戻る
光秀が安土へ戻ると聞いた時、龍之介は少しだけ肩の奥が重くなるのを感じた。
本能寺の朝は終わった。
少なくとも、火は上がらず、信長も光秀も生きている。
それだけを見れば、ひとまずの危機は去ったと言ってよいのかもしれない。
だが、それで光秀が“以前通り”に戻れるかといえば、そんなはずがない。
人は、死ぬはずだった朝を生き延びたからといって、そこで元の形に戻れるわけではない。
むしろ、一度は刃へ行こうとした自分を知ってしまった以上、その後の方がよほど厄介だ。
蘭丸が静かな足取りで部屋へ来た時、その顔にはいつもの整った緊張に、少しだけ別の色が混じっていた。
「三上殿」
「何だ」
「日向守殿が、安土へ入られます」
「いまか」
「まもなく」
蘭丸は短く答えた。
そこで、ほんの僅かに言葉を切る。
「……見ておかれた方がよろしいかと」
珍しい物言いだ、と龍之介は思った。
蘭丸は普段、必要以上の助言をしない。
なのに“見ておけ”と言う。
つまり、彼自身も分かっているのだろう。
光秀が戻るということは、ただ一人の重臣が城へ帰る以上の意味を持つ。
「わかった」
龍之介が立ち上がると、蘭丸は先に立った。
◇
安土の城内は、表向きには何も変わらぬ顔をしていた。
兵が立ち、使いが走り、女中が行き交い、奉行筋の者たちが低い声で文をやり取りする。
いつもの安土だ。
それは分かる。
だが、それでもなお、今日の空気は少し違う。
目だ。
人の目が、どこか一方向を意識している。
露骨に見ているわけではない。
むしろ見ていないように振る舞っている。
だが、その“見ていない顔”があまりに揃いすぎていて、かえって分かる。
光秀が戻ってくる。
そのこと自体が、城内の空気へ薄く波を立てているのだ。
蘭丸は大廊下へ出たところで立ち止まった。
「ほどなく」
それだけ言って、自分は脇へ控える。
龍之介もまた少し引いた位置に立った。
遠くから足音がする。
規則正しい。
騒がしくはない。
だが一人の足音ではない。何人かの供がいる。
それでも大所帯ではない。
必要最小限の体裁を保った一行だろう。
やがて、光秀が姿を見せた。
龍之介は、そこで思わず目を細めた。
姿勢は崩れていない。
顔色も悪くはない。
装いにも乱れはない。
明智日向守として安土へ戻るに足る、きちんとした姿だ。
だが、それだけに余計分かる。
重い。
朝、本能寺から去る背にも重さはあった。
だがいまの光秀は、さらに別の重さを背負っている。
“戻ってきた者”の重さだ。
主を討とうとして討たず、首を繋がれ、配下へ顔を作り、そしていままた安土の家中へ戻ってくる。
その一歩一歩が、ただ廊下を歩く足取り以上の意味を持っている。
すれ違う者たちは皆、礼を取る。
誰も無礼はしない。
誰も露骨に顔をしかめない。
だが、そこに以前のような滑らかさはなかった。
ほんの一拍、礼が遅れる。
目が、一瞬だけ測る。
声の温度がわずかに硬い。
そんな小さな違和感がいくつも重なっていた。
光秀も、それを感じていないはずがない。
感じながら、何もなかった顔で歩いている。
その時点で、もう十分に苦しい。
「……」
光秀の目が、遠くから龍之介を見つけた。
その視線は一瞬で逸れなかった。
だが、声をかけるでもなく、立ち止まるでもない。
ただ“そこにいるな”と確かめるような重い目だった。
龍之介もまた、わずかに頭を下げるだけに留めた。
ここで余計な動きを見せるのは違う。
いまの光秀に必要なのは、まずこの城の中を歩き切ることだ。
一行が通り過ぎる。
蘭丸が、視線だけでそれを見送る。
そして、小さく息を吐いた。
「……変わりましたな」
龍之介が言うと、蘭丸は少しだけ眉を寄せた。
「分かりますか」
「分からぬほど鈍くはないつもりだ」
「日向守殿ご自身が、ですか」
「それもある。だが城の方もだ」
蘭丸は答えなかった。
だが否定もしない。
安土は、明智光秀を以前通りの重臣として扱う。
信長がそう決めた以上、表ではそうなる。
だが、表がそうであるからこそ、その下に生じた微細なずれは、かえってよく見える。
「上様のご命令でございます」
やがて蘭丸が言う。
「日向守殿は、変わらずでございます」
「うむ」
「ならば周りも、変わらずでなければならぬ」
「難しいな」
「……難しい、にございます」
珍しく蘭丸の声に苦さが混じった。
彼もまた、あの本能寺の朝を近いところで感じているのだろう。
そして感じているからこそ、“変わらず”を演じる難しさも分かる。
「三上殿」
「何だ」
「日向守殿が呼ぶかもしれませぬ」
「私をか」
「はい」
「なぜそう思う」
蘭丸は少しだけ視線を逸らした。
「……あのような顔の時、人は“何も知らぬ者”より“知っておる者”を呼びたがるものです」
その言い方は、妙に人間味があった。
蘭丸も、ただの近習ではない。
信長の側で、人がどんな時に何を求めるかをよく見ているのだろう。
実際、その予感はすぐに当たった。
◇
日が傾きかけた頃、龍之介のもとへ明智方の供が一人現れた。
装いも態度もきちんとしている。
だが、どこか余計なところまで緊張して見えるのは、いまの主の立場を思えば無理もない。
「三上殿」
「何だ」
「日向守様が、少しだけと」
「……わかった」
龍之介は頷き、供の者に従った。
案内されたのは、安土の中でも光秀にあてがわれた一室だった。
客間に近い。
だが完全にくつろげる空気でもない。
戻ってきたばかりの者に与える、“居場所はあるが安穏ではない”という感じの部屋である。
光秀は一人で座していた。
昼に見た時より、幾分肩の力は抜けている。
だが、それは楽になったという意味ではない。
単に“人前の顔を保つ”ために張っていたものが少しだけ落ちた、というだけだ。
「呼び立ててすまぬな」
光秀が言う。
「構わぬ」
「そうか」
短い会話だ。
だが昼よりは少しだけ柔らかい。
龍之介が座ると、光秀はすぐには本題へ入らなかった。
茶も出ない。
人払いもされている。
つまり、礼や体裁を整える余裕が今はないのだろう。
「……戻ってきた」
やがて光秀がぽつりと言った。
「見れば分かる」
「そうだな」
光秀は、そこでわずかに口元を歪めた。
「我ながら、馬鹿なことを申しておる」
「疲れておられる」
「疲れておる」
はっきり認めた。
「安土の廊を歩くだけで、妙な力が要った」
「だろうな」
「皆、何も知らぬ顔をしておる。だが、知らぬわけがない」
「感じている者はおろう」
「感じておる」
光秀は静かに言う。
「それでも、誰も問わぬ。問えぬ。上様が“何もなかったことにする”と決められた以上、皆、その通りに顔を作る」
その言葉に、龍之介は何も返せなかった。
つらいだろう。
主に刃を向けかけた自分を、誰も知らぬ顔で通してくる。
だが、その“知らぬ顔”の下で、何かを感じていることだけは肌に刺さるほど分かる。
疑われるのとも違う。
赦されるのとも違う。
もっと曖昧で、もっと息苦しい。
「私は、まだ何も片づいておらぬ」
光秀が言う。
「知っている」
「上様の前で腹は割った」
「うむ」
「だが、それで済むほど軽いものではなかったらしい」
「当たり前だ」
龍之介は静かに答えた。
「済まぬまま生きるしかない時もある」
「……またひどいことを言う」
「慰めには向かぬのは承知している」
「承知していて、なお言うか」
「それが今は一番近い」
光秀は、そこで小さく息を吐いた。
そして不意に、少しだけ笑う。
「おぬし、妙に腹が立つな」
「よく言われる」
「私も言う」
そのやり取りに、ほんの一瞬だけ空気が緩む。
だがそれも長くは続かない。
「安土は、思ったより厳しい」
光秀が言う。
「表では変わらず。だが、表で変わらずであるほど、内がきしむ」
「そうだろうな」
「上様は、あえてそうなさった」
「うむ」
「私を殺さず、追わず、腫れ物にもせず、“そのまま働け”と」
そこまで言って、光秀は目を伏せた。
「……ありがたいことだ」
「うむ」
「だが、残酷でもある」
龍之介は静かに頷いた。
それは茶室で信長自身が選んだ道だ。
処断しない。
特別扱いもしない。
そのまま働けと命じる。
政治としては最も強い。
だが人間に対して優しいかといえば、そんなことはない。
むしろ、生きてその苦みを抱え続けろという命でもある。
「三上殿」
光秀がふと、少しだけ声を落とした。
「何だ」
「おぬし、安土でどう見られておる」
唐突な問いだった。
「異物だな」
龍之介は苦笑する。
「上様の気まぐれな客人ではなく、政へ噛ませる異物。勝家殿にも丹羽殿にも、そういう目で見られている」
「……そうか」
「なぜ聞く」
光秀は少し黙ってから答えた。
「私もまた、いま安土で異物に近いからだ」
その一言は、重かった。
たしかにそうだ。
明智光秀は重臣だ。
以前から信長の近くにあり、戦も都も担ってきた。
だが本能寺の朝を経た今、彼は以前と同じ場所に立っているようでいて、もはや完全には同じではない。
家中の中で浮いているわけではない。
だが、薄い膜一枚ぶん、元の位置からずれている。
それは異物と呼ぶには微妙で、しかし以前通りとも言えない立場だ。
「妙なものだな」
光秀が言う。
「長くおった城へ戻ってきて、足の置き場が少し違う気がする」
「……」
「誰も何も言わぬ。だが、皆どこかで“前と同じではない”と感じておる」
龍之介は、その言葉を深く受けた。
それはまさに、光秀という男が今置かれている場所そのものだ。
家中の外へ弾かれたわけではない。
だが内へ完全に馴染むこともできぬ。
その中途半端なずれを抱えたまま、働くしかない。
「日向守殿」
龍之介は言った。
「上様は、たぶんそこも見ておられる」
「だろうな」
「そして見たうえで、あえて“そのまま働け”と言うておられる」
「……」
「それがあの方の試し方だ」
光秀は、そこでほんの少しだけ目を細めた。
「おぬし、上様のことが少しずつ分かってきたようだな」
「ありがたいことか、ありがたくないことか」
「その両方だ」
光秀はきっぱりと言った。
「分かれば分かるほど、離れにくくなる」
それは光秀自身の実感でもあるのだろう。
恐れ、憎み、惜しみ、なお惹かれて近くにいた。
そういう相手なのだ、信長は。
「だが」
光秀が続ける。
「それでも、おぬしが側におるのは、今は悪くないかもしれぬ」
龍之介は少し驚いた。
「ほう」
「私一人では、また見えぬところがある。おぬしのように外から、しかも都と武の両方を妙な目で見る者が、上様のそばに一人おるのは」
「……」
「気に食わぬが、悪くない」
龍之介は思わず少し笑った。
「褒めておられるか」
「半分だけだ」
「十分だ」
光秀はそこで、少しだけ疲れたように背を預けた。
「羽柴が来る前に」
「うむ」
「形だけでも整えておけ」
その声は低かった。
「羽柴殿、か」
「おぬしも聞いておろう」
「少しばかり」
「来るぞ。文だけで済む男ではない」
光秀の目が、わずかに鋭くなる。
「今朝のことを、あれは確信しておらぬ。だが、何かあったとは嗅いでおるはずだ」
「そうだろうな」
「ならば、こちらの形が揃う前に来られるのが一番厄介だ」
その通りだった。
本能寺の朝をどういう朝だったことにするか。
光秀をどう見せるか。
安土と都の流れをどう整理するか。
その形がまだ曖昧なうちに秀吉が踏み込めば、そこを容赦なく抉ってくるだろう。
「日向守殿」
龍之介は言った。
「羽柴殿を怖いと思うか」
光秀は一瞬だけ黙った。
そして、静かに答える。
「怖い」
「そうか」
「武で真っ向から来る者はまだ読みやすい。だがあれは、人の欲も、場の空気も、損得も、すべてを笑って呑み込む」
「……」
「上様とは別の怖さだ」
信長は怪物だ。
だが秀吉は、人間の欲の延長線上で怪物になっている気がする。
光秀の言葉を聞いて、龍之介はそんなことを思った。
「おぬし」
光秀がふと問う。
「会ってみたいと思うか」
龍之介は少しだけ苦笑した。
「正直に言えば、あまり思わぬ」
「そうか」
「だが、避けては通れまいとも思う」
「それでよい」
光秀は言う。
「会いたくて会う相手ではない」
その一言には、実感がこもっていた。
しばし沈黙が落ちる。
窓の外では、安土の夕方が少しずつ濃くなっている。
日が傾き、城の中の気配も昼とは違う深さを帯び始めた。
「戻るか」
光秀が言った。
「これ以上引き止めても、おぬしにも役があろう」
「日向守殿こそ」
「私には私の“何もなかった顔”がある」
その言い方に、龍之介は胸の奥が少しだけ痛んだ。
何もなかった顔。
それは今の光秀にとって、一番重い役目の一つなのかもしれない。
立ち上がり、龍之介は一礼した。
「また」
「ああ」
光秀も小さく頷く。
「次は、もう少しつまらぬ話ができればよいな」
「そう願いたい」
「私もだ」
だが、戦国でそう簡単につまらぬ話ばかりができるはずもない。
互いにそれを分かったうえでの言葉だった。
◇
部屋を出たあと、龍之介はしばらく無言で廊下を歩いた。
光秀は戻ってきた。
だが、戻っただけだ。
何も終わってはいない。
そして何も終わっていないまま、次は秀吉が来る。
本能寺を止める。
その時、自分はもっと単純な絵をどこかで思っていたのかもしれない。
信長が助かる。
光秀が思いとどまる。
それで、大きな悲劇は回避される。
だが現実はもっと粘ついている。
助かった者は苦みを抱えて生き続ける。
止められた者は止められた事実を忘れられない。
周囲の人間も、何も知らぬ顔でそれを抱え込む。
「重いお顔で」
影鷹が、またどこからともなく現れた。
「おぬし、壁の向こうで待っておるな」
「便利でしょう」
「便利すぎて怖い」
「光秀殿でございましたか」
「ああ」
「いかがでした」
龍之介は少しだけ息を吐いた。
「まだ救われてはおらぬ」
「でしょうな」
「だが、生きて片づけるしかないとも分かっている」
「それで十分かと」
「十分か」
「死んで楽になる道を選ばなかったのですから」
影鷹は静かに言った。
「そこから先は、遅くても前へ進みます」
龍之介は、その言葉に小さく頷いた。
「……そうだな」
光秀は生きている。
それだけではない。
生きて、自分のしたことと、しなかったことと、その両方を背負っている。
それはたぶん、死ぬより難しい。
「で」
影鷹が少しだけ声を落とした。
「羽柴殿でございますか」
「日向守殿もそう言った」
「皆、同じところへ行き着きますな」
「そうだ」
龍之介は安土の廊下の先を見た。
静かな城だ。
だがその静けさの下で、次の波がもう近づいている。
信長は再起動した。
光秀は何も終わらぬまま戻った。
そして秀吉は、まだ顔も見せぬうちからこの城へ影を伸ばしている。
「形だけでも整えておけ、か」
龍之介が呟くと、影鷹は頷いた。
「よい忠告かと」
「分かっている」
「では」
「働くしかあるまい」
それしかない。
安土の夕方は、ひどく静かだった。
だがその静けさは、嵐の前のものに近い気がした。




