第108話 狐が戻った先に、武家の影がある
与助は、すぐには動かなかった。
九郎兵衛という小さな岸を外され、喜平というもう一つの足場にも風を当てられた。
普通なら、そこで一度は身を伏せる。
自分が見られていると悟った者は、すぐ次の動きに出ない。むしろ何もしないことで、相手の目を散らそうとする。
だが、与助は違った。
いや、正確には、動かないふりをしながら動いていた。
その日の午前、京の町はいつもと変わらぬ顔をしていた。寺へ向かう小者、荷を積み替える男、紙と油を抱えた使い、どれも昨日と同じように見える。けれど、昨日とまったく同じ町などない。誰かの足が少し遅くなり、誰かの声が少し低くなり、誰かの目線がわずかに奥へ向く。
そういう違いを拾うのが、いまの龍之介の仕事だった。
「三上殿」
影鷹が戻ってきたのは、昼になる少し前だった。
「与助が動いたか」
「はい」
「どこへ」
「昨日までの筋ではございません」
影鷹はそう言って、わずかに声を落とした。
「武家方です」
龍之介は、手元の紙から顔を上げた。
「九郎兵衛とは別か」
「別にございます」
「誰だ」
「青山七郎右衛門。大身ではございません。ですが京での取次や諸家への挨拶回りに顔を出している者です」
「青山……」
龍之介はその名を知らない。少なくとも、信長や光秀や秀吉のように、歴史の大きな流れに刻まれる名ではない。
だからこそ厄介だった。
歴史に大きく残る名だけが、火を運ぶわけではない。むしろ、こういう中ほどの顔が、見えない火を別の場所へ移すことがある。自分では天下を動かすつもりもなく、ただ一つ上の座へ近づきたい。ほんの少し、重く見られたい。その欲だけで、十分に火は乾く。
「青山は、誰に近い」
龍之介が問うと、影鷹は淡々と答えた。
「丹羽殿の直筋ではございません。柴田殿ほど武の気も強くはない。羽柴殿の者とも違います。ただ、京で顔を出す武家方の者たちへ、浅く広く口を持っております」
「浅く広く、か」
「はい」
与助が戻った穴は、思ったより面倒な形をしていた。
九郎兵衛は現場に近い。
喜平は下働きと屋敷の手前をつなぐ。
だが青山七郎右衛門は、武家方の中ほどにいる。
つまり与助は、町や公家屋敷の手前から、今度は武家方へ戻ったのだ。
「狐の穴は、人ではなく場か」
龍之介が言うと、影鷹が頷いた。
「武家方の中ほど。そこが、与助の戻る穴に近いかと」
◇
青山七郎右衛門の顔を見るのに、時間はかからなかった。
向こうから来たわけではない。
こちらが呼んだわけでもない。
ただ、京の中で武家方の顔が出入りする場所へ行けば、自然と会える程度の男だった。
そういう位置にいる者は、見落とされやすい。だが、用向きの前後には必ずいる。大きな座には入らないが、座の前で誰が来たかを知っている。正式な文は持たないが、誰が誰と会いたがっているかを嗅いでいる。
青山は、見たところ四十手前の男だった。
身なりは悪くない。だが、華美ではない。
顔に武の荒さは少なく、かといって完全な文官の柔らかさもない。
口元に、いつでも笑える余白を残している。必要なら頭を下げ、必要なら少し強く出る。そういう生き方をしてきた顔だった。
「三上様」
青山は龍之介を見ると、驚きすぎない程度に驚いた顔を作った。
上手い。
本当に驚いていないのか、それとも驚きを見せすぎぬよう抑えているのか、少し判断が難しい。だが、そう見せる時点で、京の空気をある程度知っている男だ。
「青山殿か」
「はい。まさか、こちらでお声をいただくとは」
「少し聞きたいことがある」
「私で分かることなら」
青山は軽く頭を下げた。
腰は低い。だが低すぎない。自分を安売りする気もないらしい。
「紀伊屋の与助を知っているな」
龍之介が切り込むと、青山の笑みが一瞬だけ薄くなった。
消えたのではない。
薄くなった。
それで十分だった。
「名は、聞いたことがございます」
「会ったことは」
「京におりますれば、商いの者と顔を合わせることも」
「そういう逃げ方は、あまり好きではない」
龍之介が言うと、青山は少しだけ目を細めた。
不快そうではない。むしろ、こちらの出方を測り直している。
「では、正直に。会いました」
「何を話した」
「細かな流れを」
「またそれか」
龍之介が思わず言うと、青山はわずかに苦笑した。
「その言い方ですと、他でも同じような話をしているようですな」
「している」
「なるほど」
青山は、そこで初めて少しだけ素の顔を見せた。
「三上様は、与助を追っておられる」
「与助そのものではない」
「では」
「与助の話を聞きたがる者を見ている」
青山は黙った。
その沈黙は、九郎兵衛や喜平のものとは違った。
九郎兵衛は、自分の欲を見られて黙った。
喜平は、自分の怖さを言い当てられて黙った。
青山は違う。
青山は、どこまで言えば自分が損をしないかを測って黙っていた。
「青山殿」
「はい」
「おぬしは、与助を使いたいのか」
「使うなどと」
「なら、使われたいのか」
青山の目が、ほんの少しだけ冷えた。
「三上様」
「何だ」
「私は、そこまで軽くはございません」
「そうか」
「はい」
「なら、なぜ与助の話を聞いた」
青山はすぐには答えなかった。
だが今度の沈黙は、前より短い。
「京の中で、何かが動いております」
「うむ」
「明智殿が入り、羽柴殿の名もあちこちで聞こえ、三上様もまた京で重くなられた」
「……」
「その中で、我らのような中ほどの者は、何も知らぬまま後ろに立っていればよいのか。そういう思いはございます」
九郎兵衛とは違う。
青山の欲は、上がりたいという単純なものではない。
置いていかれたくないのだ。
大きな名の者たちが理を動かし、京の火を扱っている。だがその周りで実際に走るのは、自分たちのような中ほどの武家方である。なのに、何も知らされず、ただ命じられた時だけ動けと言われる。それが面白くない。
そういう欲だった。
「置いていかれたくない、か」
龍之介が言うと、青山は苦い顔をした。
「言葉にされると、少々情けなく聞こえますな」
「情けないとは言っていない」
「では」
「危ういとは思う」
青山は目を伏せた。
「そうでしょうな」
分かっている。
分かっていて、なお足を出した。
そこがこの男の怖さでもあり、使い道でもある。
◇
戻ったあと、龍之介はすぐに光秀へ報告した。
光秀は黙って聞いていた。
途中で一度も口を挟まない。最後まで聞き終えてから、短く言った。
「中ほどが動き始めたか」
「はい」
「早いな」
「京ですので」
龍之介がそう返すと、光秀はほんの少しだけ目を細めた。
「おぬしも使うようになったか」
「便利ですので」
そう言ってから、自分でも少しだけ笑ってしまった。
笑ったのは一瞬だけだ。すぐに話は戻る。
「青山は、どう扱う」
光秀が問う。
「九郎兵衛とは違います」
「うむ」
「小さな役を与えれば収まる、という顔ではありません」
「では」
「場から外されることを嫌っている。なら、正しい形で“見えている範囲”を与えた方がよいかと」
光秀は少し考えた。
「つまり、勝手に与助から聞かせるのではなく、こちらから小さく知らせる」
「はい。ただし、高い火そのものには触れさせません」
「……悪くない」
光秀の評価は短い。
だが、この短さにも慣れてきた。
「羽柴にも聞け」
「はい」
「こういう中ほどの者の扱いは、あやつの方が嫌なほど分かる」
「同感です」
光秀は少しだけ苦い顔をした。
◇
秀吉へ話を流すと、返りは意外にも文ではなく本人だった。
夕刻、秀吉はいつも通りの軽い顔で現れたが、座るなり言った。
「三上殿、その青山殿は切ってはなりませぬ」
「そう来るか」
「ええ」
「理由は」
「置いていかれたくない者は、敵に回すと面倒です」
秀吉は茶を一口飲み、さらりと続けた。
「欲がある者は、役で縛れる。怖がる者は、安心で止まる。ですが、置いていかれたくない者は、自分で道を探します」
「まさに与助へ寄った」
「そう」
秀吉は頷いた。
「なら、道をこちらで用意してやればよい」
「どの程度の道だ」
「狭い道で十分です」
「広くすると」
「走ります」
あまりに即答だったので、龍之介は少しだけ笑った。
「おぬし、人の嫌なところをよく知っているな」
「褒められておりますかな」
「半分だけ」
「ありがたいことです」
やはり腹立たしい。
「具体的には」
龍之介が聞くと、秀吉は指を一本立てた。
「青山には、京の武家方の中ほどで出る小さな不安を拾わせる」
「うむ」
「ただし、解かせませぬ」
「拾うだけか」
「はい。拾ったものは三上殿へ上げる。青山殿は“見えている側”に入れたと思う」
「だが、実際の処理は握らせない」
「その通り」
嫌なほど上手い。
青山は置いていかれたくない。なら、見える位置だけは与える。だが解く権限は与えない。そうすれば与助から情報を買う必要が薄くなる。
「与助はどうする」
「与助は、また足場を一つ失います」
「すると」
「次にもう少し上か、もう少し外へ行く」
「外?」
龍之介が聞き返すと、秀吉は笑みを薄くした。
「京の外にいる、京を知りたがる者どもです」
その言葉で、部屋の空気が少し冷えた。
そうか。
与助の穴は京の中だけとは限らない。
京を使って己を立てようとする者は、京の外にもいる。
むしろ、京の外の武家方ほど、京の匂いを欲しがる。
「……そこへ行くか」
龍之介が言うと、秀吉は頷いた。
「いずれ」
その“いずれ”は、近いように聞こえた。
◇
夜、龍之介は青山への処置を決めた。
呼び出して叱るのではない。
役を与えすぎるのでもない。
京で武家方の中ほどに出る小さな不安を拾い、直接龍之介へ上げるよう伝える。
ただし、解決はさせない。
用人へ勝手に走ることも禁じる。
与助のような話売りから聞いたことは、まずこちらへ返す。
そういう細い道を作る。
「三上殿」
影鷹が言った。
「何だ」
「青山は、それで止まるでしょうか」
「完全には止まらぬ」
「では」
「だが、与助から買う理由は減る」
影鷹は頷いた。
「狐の足場が、また一つ減りますな」
「そうだ」
「次は」
影鷹は少しだけ間を置いた。
「京の外、でございますか」
龍之介は障子の向こうを見た。
京の夜は、今日も湿っている。
だが、その湿りの向こうに、京の外へ続く道がある。安土へ、坂本へ、さらにその先へ。
火の匂いは、もう京の中だけに留まっていないのかもしれない。
「……面倒だな」
龍之介が呟くと、影鷹がいつも通り答えた。
「今さらでございます」
その言葉に、龍之介は小さく息を吐いた。
既出の火をなぞっているだけではない。
狐は、京の外へ向かおうとしている。
ならば次は、京の外で京を欲しがる者を見る段になる。




