第109話 京の外で、京の匂いを欲しがる者
京の火は、京の中だけで燃えるとは限らない。
むしろ、厄介なのは外へ漏れた時だ。
京にいる者は、京の怖さを知っている。
寺の顔、公家の面目、町の荷、用人の言葉。
それらがどれほど細く、どれほど絡まりやすいかを、少なくとも肌で知っている。
だが、京の外にいる者は違う。
京という名を、重い札のように見る。
朝廷に近い顔へ触れた。
公家筋へ通じる口を持つ。
明智殿が動いた場を知っている。
そういう匂いだけで、自分の立場が一段上がると考える者がいる。
与助という狐が次に戻る場所は、おそらくそこだった。
京の外で、京の匂いを欲しがる者。
龍之介は、朝からそのことを考えていた。
◇
青山七郎右衛門には、昨日のうちに細い道を与えてある。
武家方の中ほどで生まれる小さな不安を拾う。
ただし、解かせない。
用人へ勝手に走らせない。
与助のような話売りから聞いたことは、まず龍之介へ戻す。
それだけだ。
大きな役ではない。
だが、青山にとっては意味がある。
置いていかれていない、という感覚を与えるには十分だった。
そして、その道を与えたことで、与助の足場が一つ減った。
九郎兵衛は、小さな役を得た。
喜平は、与助を通す怖さを知った。
青山は、正しい道で見える範囲を与えられた。
ならば与助は、次の餌場を探す。
「三上殿」
影鷹が障子のそばに立った。
「動いたか」
「はい」
「どこだ」
「京の外へ向かう口です」
やはり、と龍之介は思った。
「安土か」
「いえ。まだ安土へは届きませぬ」
「なら、坂本か」
「そこにも直接ではございません」
影鷹は、わずかに言葉を選んだ。
「近江へ戻る使いの中に、京での話を欲しがる者がございます」
「誰の筋だ」
「表向きは、雑賀でも毛利でもございません。織田家中の小さな取次に近い顔です」
「名は」
「沢井源四郎」
「知らぬ名だな」
「知られぬ程度の者にございます」
知られぬ程度。
だが、そういう者こそ火を運ぶことがある。
「沢井は、何を欲しがっている」
「京で明智殿がどう動き、羽柴殿の糸がどう残り、三上殿が何を見ているか」
「……私までか」
「はい」
龍之介は小さく息を吐いた。
京の中で自分の名が動くのは、まだ分かる。
だが京の外へ向かう口でまで名が出始めるとなると、話が一段変わる。
自分は、もう京の見分役ではない。
織田家中の者たちからも、京の火を扱う顔として見られ始めている。
それは、嬉しいことではなかった。
「沢井は誰へ戻る」
「そこまではまだ」
「与助は沢井に会ったのか」
「直接ではございません」
「また手前か」
「はい。沢井に近い小者へ、京の細かな品の流れを見せております」
龍之介は、思わず苦い顔をした。
与助は、徹底して直接奥へ行かない。
九郎兵衛にも、喜平にも、青山にも、そして沢井にも。
必ず手前へ置く。
だからこそ、自分の手を汚さずに匂いだけを残せる。
「狐というより、煙だな」
龍之介が言うと、影鷹が首を傾げた。
「狐ではなくなりますか」
「いや、狐が煙をまとい始めた」
「面倒にございますな」
「まったくだ」
◇
沢井源四郎は、その日のうちに京を出るわけではなかった。
近江へ戻る使いの一団が整うのは、早くても翌朝。
戦国の移動は、思いついたからすぐ走るというものではない。
馬も人も、荷も口上も、道中の泊まりも要る。
とくに京から近江へ戻るなら、ただ早馬一騎というわけにもいかない。
持ち帰る文や口上の重さに応じて、形を整える必要がある。
つまり、こちらには半日ほどの猶予がある。
龍之介は、その時間を使うことにした。
まず、青山を呼んだ。
青山は昨夜より少しだけ顔が落ち着いていた。
役を与えられた者の顔だ。
大きな自信ではない。
ただ、自分が完全に外へ置かれているわけではないという、細い安心がある。
「青山殿」
「はい」
「沢井源四郎を知っているか」
青山の表情が変わった。
「名は」
「どういう男だ」
「働き者です」
「その言い方は、最近よく聞くな」
龍之介が苦笑すると、青山は少し困った顔をした。
「実際、働く男です。ただ、大きな才というより、細かな顔を覚えるのが早い」
「野心は」
「ございます」
青山は、そこは迷わなかった。
「ただ、表へ大きく出る野心ではありませぬ。誰かの耳へ一番近いところにいたい、という類かと」
「誰の耳だ」
青山は声を落とした。
「いくつかございます。近江へ戻れば、坂本筋にも話は流れましょうし、安土へ向かう者にも混じりましょう」
「光秀殿の耳へ届くか」
「直接ではなくとも、届くように見せたい者は出るかと」
厄介だった。
沢井は、光秀や信長へ直接何かを言えるほどの者ではない。
だが“届くかもしれない場所にいる顔”として動ける。
その程度の位置が、与助にとってはちょうどよいのだろう。
「青山殿」
「はい」
「沢井が、京で何を聞きたがっているか拾えるか」
「できます」
「解くな」
「はい」
「止めるな」
「はい」
「ただ拾え」
青山は深く頭を下げた。
「承知しました」
悪くない。
少なくとも今の青山は、こちらの作った細い道を歩いている。
◇
次に、秀吉へ話を流した。
この種の“京の外へ向かう匂い”は、秀吉が最も嫌らしく見る。
秀吉は夕刻前に来た。
わざわざ来る必要はないはずだった。
だが本人が来るということは、やはり彼もこの火の向きに何かを感じているのだろう。
「三上殿」
「羽柴殿」
「狐、外へ向かいましたか」
「まだ穴から顔を出した程度だ」
「それが一番嫌でございます」
秀吉は、座るとすぐに言った。
「外へ出てから追えば、誰の匂いをまとったか分からなくなります」
「沢井を知っているか」
「源四郎なら、名は」
「どう見る」
「軽いです」
「またそれか」
「ですが、軽い者ほど遠くへ運びます」
秀吉は、指先で畳を軽く叩いた。
「重い者は、動けば目立つ。軽い者は、荷に紛れる」
「沢井は、どこへ運ぶ」
「自分の値が上がる場所へ」
「具体的には」
「“京で何が起きているか”を知りたがる家中の中ほどです」
「大物ではなく」
「はい。大物は、しかるべき筋から聞けばよい。困るのは、その少し下です」
龍之介は頷いた。
勝家や丹羽なら、信長や重臣の筋から話を得る。
光秀自身は当事者だ。
秀吉も糸を持っている。
だが、その下にいる者たちは違う。
京で何が動いているのか。
光秀が何をしたのか。
秀吉がどこまで入っているのか。
三上龍之介とは何者なのか。
そういう情報を欲しがる。
そして欲しがる者のところへ、与助の匂いが運ばれる。
「羽柴殿」
「はい」
「止めるか」
「止めませぬ」
「なぜ」
「止めれば、京の外で“止められた話”になります」
即答だった。
「では」
「薄く違う餌を混ぜます」
「嫌な言い方だな」
「三上殿も慣れてきたでしょう」
「慣れたくはない」
秀吉は笑った。
「沢井に、京のすべてを知った気にさせず、しかし何も知らぬわけでもないと思わせる。持ち帰る話の中身を、少し薄めるのです」
「どうやって」
「青山殿を使いましょう」
なるほど、と龍之介は思った。
青山は武家方の中ほどにいる。
沢井もまた、その近くにいる。
ならば青山から“正しいが薄い話”を渡せば、沢井は与助だけに寄らなくなる。
「与助の匂いを、青山の匂いで薄めるか」
「はい」
「最悪の香合わせだな」
「よい例えです」
「褒めていない」
「分かっております」
この男は本当に腹立たしい。
◇
光秀に話を持っていくと、光秀はしばらく黙っていた。
秀吉の案を聞いて、すぐに頷かない。
その慎重さが、むしろ正しい。
「青山を使い、沢井へ薄く正しい話を渡す」
「はい」
「与助の匂いを薄める」
「そのように」
「危ういな」
「はい」
龍之介は正直に認めた。
「青山に役を感じさせすぎれば、また青山が膨らみます」
「そうだ」
「沢井に渡す話が濃すぎれば、京の外で余計な火になります」
「うむ」
「薄すぎれば、沢井は与助へ戻る」
光秀は頷いた。
「なら、渡す話を決めねばならぬ」
「はい」
「何を渡す」
龍之介は用意していた答えを出した。
「光秀殿が京で高い理へ入ったことは、伏せきれませぬ」
「うむ」
「ですが、朝廷に近い火の気配は渡さない」
「当然だ」
「羽柴殿の糸が残っていることも、ぼかします」
「……」
「ただ、京では上の理と下の荷を分けて見ている、とだけ」
光秀は目を細めた。
「おぬしの役は」
「出します」
「なぜ」
「隠せば、かえって与助が売ります」
光秀は少しだけ黙ったあと、頷いた。
「よい」
その一言で決まった。
◇
夜になる前、青山へ短く伝えた。
沢井へ渡すのは、三つだけ。
京では一つの火が静まりつつある。
明智は上の理を見ている。
龍之介は下の荷と京の細い流れを見ている。
それ以上は言わない。
朝廷に近い火の気配も、与助の動きも、秀吉の具体的な糸も渡さない。
青山は、紙に書き取らず、口で繰り返した。
「それだけでよろしいので」
「それだけだ」
「沢井は、もう少し聞きたがるかと」
「聞きたがらせておけ」
「……」
「全部聞いた顔で戻る者ほど、途中で余計なことを足す」
青山は苦笑した。
「それは、耳が痛い」
「痛いなら覚えろ」
「承知しました」
その返しは、少しだけ自然だった。
◇
翌朝に出る使いの一団へ、沢井は混じる。
その前に青山が沢井へ触れる。
与助の匂いは、そこで少し薄まるはずだ。
もちろん、これで終わりではない。
沢井は沢井で、自分の都合よく話を直すだろう。
与助もまた、次の足場を探すだろう。
だが、何もしなければ与助の匂いだけが外へ出た。
それを防いだだけでも、今夜の意味はある。
「……京の火が、外へ出る前に少し薄める」
龍之介が呟くと、影鷹が言った。
「香の調合のようにございますな」
「嫌な香だ」
「ですが、必要にございます」
「まったくだ」
京の夜は、少し冷えていた。
火はまだ高いところで形を持たない。
だが、その周りを走る狐の匂いは、いよいよ京の外へ漏れ始めている。
次は、その匂いがどこで燃えるかを見なければならない。




