第107話 狐の穴は、人の欲でできている
与助を追うには、足ではなく、匂いを追うしかない。
京の町は狭いようで広い。
表通りから脇へ入り、脇からさらに人の背中を抜ければ、同じ一町の中でもまるで別の顔になる。
寺へ入る小物を扱う顔。
公家屋敷の台所へ油や紙を運ぶ顔。
武家の使いの草履を揃える顔。
どれも小さい。
だが、その小ささの中に人の欲がよく残る。
紀伊屋の与助は、そこを歩いていた。
大きな門は叩かない。
堂々と名乗って、いきなり高い座へ上がろうともしない。
むしろ、そうしないことで自分の値を作っている。
私は大きな話を持ち込む者ではありません。
ただ、細い流れを知っている者です。
そんな顔をして、人の手前に立つ。
だが、その手前をいくつも渡れば、いつか奥へ届く。
龍之介はそれを止めるのではなく、まず行き先を見ようとしていた。
「狐は、どの穴へ戻るか」
朝、宿の奥でそう呟くと、影鷹がいつものように答えた。
「穴が一つとは限りませぬ」
「嫌なことを言う」
「京にございますので」
「それも使うようになったか」
「便利ですので」
龍之介は筆を置き、机の上の書き付けを見下ろした。
九郎兵衛には、小さな役を与えた。
紙の小口を収める仕事だ。
それは昨日のうちに少し動き始めている。
与助は、その流れから少し外された。
するとすぐに、公家屋敷へ日々入る細かな品の方へ足を向けた。
つまり与助は、ひとつの岸へ執着していない。
使える岸を探している。
ならば、見るべきは与助本人だけではない。
与助が足を向けるたびに、誰が少しだけ得をし、誰が少しだけ大きな顔をするのかだ。
「今日は」
龍之介は影鷹へ向き直った。
「与助の後ろではなく、与助が通ったあとを見ろ」
「あと、にございますか」
「そうだ。与助が話を置いたあと、誰の顔が変わるか」
影鷹は静かに頷いた。
「狐そのものではなく、狐が通った草の倒れ方を見る」
「妙な言い方をするな」
「三上殿の例えに合わせました」
「腹立たしいな」
だが、意味は通じていた。
◇
九郎兵衛の小さな役は、昼前には形になり始めていた。
寺へ入る紙の小口。
町側と寺側の言い分が少しずれていたそれを、九郎兵衛は思ったより丁寧に見ていた。
いきなり自分の顔で押し通そうとはしない。
寺の下役から必要な量を聞き、町の番頭へ回せる順を確かめ、それから“いま通す分”と“次に回す分”を分けた。
地味だ。
だが悪くない。
龍之介は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
「欲がないわけではない」
隣で主人が小声で言った。
「見えるか」
「見えます」
主人は穏やかに答えた。
「あの方は、役を得て嬉しゅうございます。ただ、嬉しさで足を踏み外すほどではない」
「なら、まだ使えるな」
「はい」
九郎兵衛は町の番頭へ頭を下げ、寺の下役へも同じように言葉を置いた。
どちらかだけを立てるのではなく、両方に“自分は勝手な顔ではない”と見せようとしている。
その姿には、昨日までの焦りが少し薄い。
与助の売った“細い流れを見る顔”という餌を、自分の手で一度噛んでみて、その硬さを知ったのだろう。
「主殿」
龍之介は主人へ言った。
「この件は、九郎兵衛の手柄にしすぎるな」
「はい」
「だが、無かったことにもするな」
「ほどほどに」
「そうだ」
人は、役を得ると欲が増える。
だが、役を得たのに誰も見ていなければ、別の場所で認められようとする。
九郎兵衛には、ちょうどよい分だけ“見えている”と知らせる必要があった。
「難しゅうございますな」
主人が言う。
「京にいるおぬしがそれを言うのか」
「京でも難しいものは難しゅうございます」
その返しに、龍之介は少し笑った。
◇
与助が次に姿を見せたのは、午後に入ってからだった。
公家屋敷へ納める日用品の筋。
油、紙、紐、香の残り、膳まわりの小物。
どれも大きくはない。
けれど滞ると、不思議と人の顔を曇らせるものばかりだ。
与助はそこで、一人の中年男と話していた。
その男は公家屋敷へ直接仕えているわけではない。
屋敷の台所や下働きと町のあいだをつなぐ、さらに一段手前の顔だった。
名前は、喜平。
いくつかの屋敷へ小物を通す役で、表へ出ることは少ないが、下の不満をかなり聞いているらしい。
影鷹が拾ってきた名を聞き、龍之介は顔をしかめた。
「また手前か」
「はい」
「与助は、奥へ急がぬな」
「そこが厄介にございます」
与助は、いきなり奥へ行かない。
まず手前を集める。
手前にいる者たちの小さな困りを拾い、そこへ少しずつ“与助に言えばどこかへ通る”という感触を残していく。
その積み重ねが、いずれ奥への道になる。
「喜平は何を欲しがっている」
龍之介が問うと、影鷹は少し考えて答えた。
「面倒を減らすこと」
「出世ではなく」
「はい。あれは上へ行きたい顔ではございません。むしろ上から怒られぬよう、下を静かに回したい顔です」
「与助にとっては、よい足場だな」
「はい」
出世欲の強い九郎兵衛とは違う。
喜平は上がりたいのではなく、揉め事を減らしたい。
そういう相手には、与助のような男がよく効く。
“細かいことを内々に整える”という顔を見せれば、喜平はそれを便利に使いたくなる。
「……狐の穴は一つではない、か」
龍之介が呟くと、影鷹は何も言わずに頷いた。
◇
龍之介は喜平へ会うことにした。
与助へ二度続けて触れるのは早い。
だが、与助が足場にしようとしている相手には、早いうちに風を当てておくべきだ。
喜平は、九郎兵衛とはまるで違う男だった。
丸い肩。
少し猫背。
声は低いが、腰は柔らかい。
人に強く出るより、先回りして面倒を潰すことで生きてきた顔だ。
こういう者は、たいてい大きな野心はない。
だが、その分だけ“便利な小道”に弱い。
「三上様が、私に何の御用で」
喜平は本気で困っている顔をした。
「少し聞きたいことがある」
「私に分かることであれば」
「与助と話したな」
喜平は、九郎兵衛よりずっと分かりやすく動揺した。
「あ、いや、その、はい。話したというほどでも」
「何を話した」
「細かな品の流れでございます。近ごろ少し、あちこちで気を遣うことが増えまして」
「与助は、何と言った」
「……早めに声をかけてくだされば、どこへ回すべきものか見ます、と」
「便利だな」
「はい。いえ、その」
喜平は慌てて首を振った。
「まだ、何かを頼んだわけではございません」
「頼みたくはなったか」
喜平は言葉に詰まった。
これもまた、答えだった。
「喜平殿」
「はい」
「おぬしは、面倒を減らしたいだけだろう」
喜平の目が丸くなる。
「……お分かりに」
「顔に出ている」
「そんなに出ますか」
「出ている」
喜平は肩を落とした。
その反応が妙に人間臭く、龍之介は少しだけ気が抜けた。
「面倒が減るなら、与助のような男は便利だ」
「はい」
「だが、便利な小道は、使ううちに本来の道より太くなる」
喜平は黙った。
「おぬしが困るのは、怒られることか」
「はい」
「なら、その場しのぎの小道を増やすな」
「……」
「最初は助かる。だが、後で“なぜ正しい筋を通さなかった”と問われる」
喜平の顔色が少し変わった。
そこは効いたらしい。
この男にとって一番怖いのは、出世の失敗ではない。
後から責められることだ。
ならば、そこへ言葉を置くのがよい。
「では、どうすれば」
「困りごとは、こちらへ出せ」
「三上様へ、ですか」
「全部ではない。だが、与助を通す前に一度、主人へでもよい。見える場所へ置け」
「……それで、ご迷惑では」
「見えぬ方が迷惑だ」
喜平は、しばらくしてから深く頭を下げた。
「分かりました」
九郎兵衛とは違う。
喜平には欲ではなく怖さがある。
ならば、その怖さに道を作ってやればよい。
◇
戻る途中、影鷹が言った。
「喜平は離れますな」
「与助からか」
「はい。少なくとも一度は」
「九郎兵衛は役で離し、喜平は怖さで離す」
「そのようにございます」
「嫌なことをしているな」
「ですが、血は流れておりませぬ」
「そういう問題か」
「戦国にございますので」
それを言われると、龍之介は少し黙るしかなかった。
斬って止めるよりは、ずっとよい。
だが、人の欲や怖さを見て、そこへ手を入れていることに変わりはない。
自分がだんだん、そういう手を当たり前に使うようになっていることが少し怖かった。
◇
夜、光秀へ報告すると、光秀は静かに聞いていた。
「九郎兵衛は役で離れた」
「はい」
「喜平は怖さで離れた」
「おそらく」
「与助は」
「足場を二つ、少し外されました」
光秀は頷いた。
「次は、与助が焦る」
「そう見ます」
「焦れば」
「本当の穴へ戻る」
光秀は少しだけ口元を緩めた。
「狐の話が、ずいぶん続くな」
「始めたのは私ですが、皆が乗りすぎです」
「分かりやすい」
それは否定できなかった。
◇
秀吉からは、遅くに短い伝言が来た。
狐は、餌場を二つ失えば、一度は本当の匂いへ戻ります。
ただし、追いすぎれば穴を変えます。
龍之介はその文を見て、深くため息をついた。
「本当に嫌な男だ」
影鷹が静かに言う。
「今さらでございます」
「だが、次は本当に与助が動くな」
「はい」
「どこへ戻るか」
「そこが見えれば、ようやく狐の穴にございます」
龍之介は文を畳んだ。
小さな狐を追っているだけのはずだった。
だが、その小さな狐がどこへ戻るかで、高い火の周囲に誰がいるかが見えるかもしれない。
京の夜は、また湿っていた。
火はまだ見えない。
だが、草の倒れ方は、少しずつ一つの方向を示し始めていた。




