第106話 小さな役を与えると、人は本音の方へ寄る
大きな褒美より、小さな役の方が人をよく喋らせることがある。
銭を積まれれば、人は構える。
大仰に持ち上げられれば、自分が試されていると分かる。
だが、ほんの少しだけ役目を与えられると違う。
自分は見込まれたのかもしれない。
この程度なら手が届く。
うまくやればもう半歩進める。
そう思って、つい本音の方へ足が寄る。
秀吉が返してきた手は、まさにそういう類のものだった。
九郎兵衛には小さな役を。
与助には小さな空振りを。
嫌なほどよく出来ている。
龍之介はそう思ったが、思ったところでやることは変わらない。
九郎兵衛を与助から少し剥がし、その足がどちらへ向くかを見る。
それが今日の仕事だった。
◇
朝、宿の奥で主人が持ってきたのは、町の荷の順をめぐる本当に小さな揉め事だった。
「三上様」
「何だ」
「寺へ入る紙の小口で、ひとつだけ順を決めきれずにおります」
龍之介は紙から目を上げた。
「それだけか」
「それだけにございます」
「なら、おぬしがさばけるだろう」
主人は少しだけ困ったように笑った。
「さばけます」
「では何だ」
「九郎兵衛殿に、お任せしてみてはと」
そう来たか、と思う。
主人もまた、こちらの意図をかなり読んでいる。
いや、京で長く人を見てきた者なら、このくらいは読めて当然なのかもしれない。
「紙の小口」
龍之介が言う。
「はい。大きすぎず、小さすぎず」
「失敗しても場は壊れぬ」
「ですが、うまく収めれば“細い流れを見る目はある”とは残ります」
与助が売り込んだ理屈と、ほとんど同じ器だ。
だからこそちょうどよかった。
この役を九郎兵衛へ与えれば、与助から借りた小賢しい理屈ではなく、自分の手で細い流れを扱う側へ少しだけ寄る。
「主殿」
「はい」
「おぬしも嫌な男だな」
「京にございますので」
いつか使ってみたかった返しなのだろう。
主人の顔に、ほんの少しだけ悪戯っぽいものが見えた。
「分かった。九郎兵衛へ回せ」
「承りました」
◇
九郎兵衛は、呼ばれると意外なほど早く来た。
昨日の今日だ。
いくら役を欲しているとはいえ、もう少し様子を見るかとも思ったが、この男はそうしなかった。
それだけ、昨日の言葉が効いたか、あるいは効いたからこそ“自分はまだ引いていない”と示したいのかもしれない。
「三上様」
「座れ」
九郎兵衛は頭を下げ、きちんとした所作で座った。
昨日より、姿勢が少しだけ低い。
だが萎えてはいない。
そこがちょうどよいとも言えるし、やはり危ういとも言える。
「ひとつ」
龍之介は無駄を置かずに言った。
「小さい役がある」
九郎兵衛の目が、ほんのわずかに動いた。
「私に、でございますか」
「そうだ」
「どのような」
「寺へ入る紙の小口だ。順を決めきれずにいる」
「……」
「大きな理ではない。だが放っておけば下に小さな棘が残る」
九郎兵衛は、そこでようやく少しだけ息を吐いた。
拍子抜けしたのか、安堵したのか、その両方かもしれない。
「私でよろしいので」
「よくなければ呼ばぬ」
「……」
「ただし、勘違いはするな」
そこで九郎兵衛の顔が引き締まる。
「これは、おぬしが高い火へ近づくための札ではない」
「はい」
「細い流れを、細いまま収める役だ」
「承知しております」
返事は悪くない。
だが、こういう時の「承知しております」は、たいてい半分しか承知していない。
「九郎兵衛殿」
「はい」
「おぬしは、自分で思う以上にいま見られている」
「……」
「うまくやれば、役が一つ増える。だが、ここで“これを足場にもう一段”と欲を出せば、すぐ見える」
九郎兵衛は、苦笑するように目を伏せた。
「三上様は、まことに怖い」
「怖がらせたいのではない」
「でしょうな」
「怖い橋を渡る時の、板の軋み方を知っているだけだ」
九郎兵衛は、それに答えず深く頭を下げた。
その沈黙は、昨日より少しだけ本物だった。
少なくとも、いまは軽く飛びつくつもりは抑えたらしい。
◇
九郎兵衛が去ったあと、影鷹が言った。
「どう見ました」
「欲はまだある」
「はい」
「だが、役を与えられたことで、少し自分の足元を見るようになった」
「与助から離れますか」
「すぐには離れぬ」
龍之介は首を振った。
「だが、与助の言葉だけでは足りぬと分かる」
「なるほど」
「それで十分だ」
いま必要なのは、九郎兵衛を清廉な男に作り変えることではない。
そんなことはできない。
ただ、自分の手で一度小さな流れを扱わせ、与助の売る“話の匂い”と、現実の荷の重さの違いを思い知らせることだ。
「……やはり、おぬしらしくはない手だな」
龍之介が言うと、影鷹が答えた。
「羽柴殿らしゅうございます」
「嫌な話だ」
「ですが、効きましょう」
それもまた否定できなかった。
◇
与助の方は、予想通り少し動いた。
九郎兵衛へ渡るはずだった小さな話が、思ったより自分を通らずに進み始めた。
それに気づいたのだろう。
夕方前には、与助がまた用人筋の手前に顔を出したという報せが入った。
「早いな」
龍之介が言うと、主人が頷いた。
「餌の匂いが、少し薄くなりましたので」
「それで、次を探したか」
「そのように」
やはり狐だ。
空振りが一つあると、すぐ別の藪へ寄る。
執着ではなく、匂いで動いている。
「どこへ行った」
「今度は寺ではございません」
「ほう」
「公家屋敷へ日々入る細かな品の方へ」
そこもまた、いかにもだ。
高い火そのものには触れぬ。
だが、その周りで“いまこのあたりの流れに通じている顔”を売れる場所へ行く。
そしてそれは、まさに信長が言った
京を使って己を立てようとする者ども
の振る舞いそのものでもあった。
「三上殿」
主人が言う。
「何だ」
「与助は、大きな賭けはまだ打ちません」
「うむ」
「ですが、小さな岸をいくつも渡ろうとしております」
「それで十分に厄介だ」
主人は深く頷いた。
◇
夜、龍之介は光秀へ九郎兵衛の動きと、与助の次の足を返した。
光秀は、短く聞き終えたあとで言った。
「九郎兵衛はどうだ」
「まだ引き返せます」
「与助は」
「引き返す気がありませぬ」
光秀は小さく目を細めた。
「なら」
「はい」
「九郎兵衛は使え」
「……」
「与助は、使う顔ではない」
きっぱりしていた。
そこに感情が入っていないのが、かえって重かった。
九郎兵衛は欲がある。
だが、役を与えれば現実を見る。
与助は違う。
流れそのものを売って、次の岸へ移る。
そういう男は、使えば使うほど形を持ってしまう。
「承知」
龍之介は答えた。
「だが、まだ切るな」
光秀が続けた。
「はい」
「どこへ戻るかを見よ」
「……」
「狐は、最初の穴より、本当に欲しい餌のある穴へ戻る」
その言い方に、龍之介は少しだけ笑った。
「日向守殿まで狐と言われますか」
「おぬしがそう申したのだろう」
その通りだった。
◇
宿の奥へ戻ると、影鷹が壁にもたれもせず立っていた。
「どうなさいました」
「何だ」
「九郎兵衛に小さな役を与え、与助に小さな空振りを与えました」
「うむ」
「つまり、狐は次の岸を探しております」
「そうだ」
「では、次は」
影鷹が少しだけ間を置く。
「狐が戻る本当の穴を探す段にございますな」
龍之介は、しばらく黙ってから頷いた。
「そうなる」
それはつまり、与助の背後を探るということだ。
背後といっても、大きな黒幕がいるとは限らない。
だが少なくとも、この男が“ここなら売れる”と見ている先はある。
それが人か、場か、あるいは空気か。
そこを掴まねばならない。
「……面倒だな」
龍之介が最後にそう漏らすと、影鷹はいつも通り言った。
「今さらでございます」
やはり、それで締まるらしかった。




