第105話 餌の匂いに、狐は戻る
秀吉の文は、短かった。
小狐は、尻尾を踏まれぬ限り、自分で穴へ帰ることもある。
ただし、餌の匂いが強ければ別。
龍之介はその一文を、朝になってもう一度読み返した。
腹の立つほど分かりやすい。
そして、分かりやすすぎるほど嫌な文だった。
紀伊屋の与助は、まだ大きな火を持っていない。
斎藤九郎兵衛も、まだ何かを壊したわけではない。
けれど二人はもう、火の近くを歩いている。
止めるには早い。
放っておくには危うい。
まさに、狐の尻尾が藪の中でちらついているような段だった。
「餌か」
龍之介が呟くと、背後で影鷹が言った。
「はい」
「与助にとっての餌は、何だと思う」
「役に立つ顔になること、でしょう」
「九郎兵衛は」
「一段上へ行くこと」
「どちらも、目の前の銭ではないな」
「はい。だから面倒にございます」
影鷹の返しに、龍之介は小さく頷いた。
銭だけで動くなら、まだ扱いやすい。
利を足せば寄る。
利を断てば引く。
秀吉なら、そういう相手の扱いは得意だろう。
だが与助も九郎兵衛も、いま欲しがっているのは銭そのものではない。
顔だ。
ただの商人ではない顔。
ただの取次ではない顔。
高い火へ少しでも近づいた男、という顔。
それは、銭より厄介な餌だった。
◇
昼前、主人が一人の使いを通した。
使いといっても、きちんとした口上を持つ者ではない。
町の小口を扱う若い男で、いかにも本題の手前に立たされている顔をしていた。
「三上様に、これを」
差し出されたのは、包みではなかった。
薄い紙に、ほんの数行だけ書かれた控えだった。
寺へ入る小さな品の流れ。
町の荷の順。
公家屋敷へ納める日用品の一部。
どれも大したものではない。
だが、その小さな控えの端に、見覚えのある名があった。
紀伊屋。
龍之介は紙から目を上げた。
「これは誰から預かった」
若い男は困ったように笑った。
「直接ではございませぬ。ただ、こちらへお見せしておいた方がよいと」
「誰がそう言った」
「それは……」
「言えぬか」
「申し訳ございませぬ」
責めても仕方がない。
こういう時、下の者は本当に知らされていないことが多い。
知らぬからこそ、余計な嘘をつかずに済む。
龍之介は紙を畳み、若い男へ返さず、自分の手元へ置いた。
「分かった。戻ってよい」
若い男はほっとした顔で頭を下げ、足早に出ていった。
影鷹が、障子の影から静かに言う。
「餌が来ましたな」
「ああ」
「小さい餌にございます」
「小さいから厄介だ」
大きな賄賂でもない。
露骨な取り入りでもない。
ただ、“私はこういう細かな流れも見ています”という控えだ。
これを与助が直接持ってくれば、まだ分かりやすい。
だが別の若い男を通して、こちらへ見えるように置いた。
自分の存在を売り込みすぎず、しかし見逃させもしない。
「狐だな」
龍之介は呟いた。
◇
午後、九郎兵衛がこちらへ顔を出した。
呼んではいない。
向こうから来た。
それだけで、昨日の言葉が効いたのか、あるいは逆に餌の匂いへもう一歩寄ったのかが分かりにくい。
「三上様」
「九郎兵衛殿」
「昨日は、失礼を」
「何がだ」
「私が、少々身の程を知らぬように見えたかと」
龍之介は黙って、相手を座らせた。
九郎兵衛は昨日より丁寧だった。
だが、萎えてはいない。
むしろ、言葉を整えてもう一度こちらの器を測りに来た顔だ。
「身の程を知っている者は、案外役に立たぬこともある」
龍之介がそう言うと、九郎兵衛は意外そうに目を上げた。
「そうお考えで」
「知らぬまま走る者は危うい。だが、知りすぎて足を止める者も困る」
「では、私はどちらで」
「まだ分からぬ」
九郎兵衛は苦笑した。
「手厳しい」
「甘く言えば、勘違いするだろう」
九郎兵衛は答えなかった。
正面から否定しない。
つまり、自分でもその自覚はあるのだろう。
「与助から何を聞いた」
龍之介が問うと、九郎兵衛は少しだけ間を置いた。
「京の細い流れを」
「細い流れ、か」
「大きな理が動く時ほど、細い流れが詰まる。そこを見る者が要る、と」
「それは、与助が言ったのか」
「はい」
龍之介は内心で、少しだけ感心した。
与助はうまい。
自分を“高い理へ触れる男”として売り込んでいるのではない。
“高い理が動く時に詰まる細い流れを見る男”として売り込んでいる。
それなら、軽すぎない。
大げさでもない。
使う側にとっては、ちょうどよく見える。
「九郎兵衛殿」
「はい」
「それを、おぬしは買ったのか」
九郎兵衛は視線を落とした。
「買った、というほどでは」
「では、拾った」
「……はい」
「なぜ」
少し長い沈黙があった。
外から、荷を置く音が聞こえる。
遠くで誰かが笑い、すぐに声を潜めた。
京は、こういう沈黙の間にも動いている。
「私は」
九郎兵衛は、ようやく口を開いた。
「戦場で名を上げる器ではありません」
「うむ」
「評定で大きな理を語る立場でもない」
「そうだな」
「ですが、細い流れなら見えます」
顔に、少しだけ本音が出た。
「大きな方々は、太い橋をお架けになる。明智殿も、羽柴殿も、三上様も」
「私は太い橋ではない」
「ですが、橋をどこへ架けるかは見ておられる」
思ったより、見ている。
龍之介は少しだけ九郎兵衛への評価を改めた。
この男はただ欲に浮かされているだけではない。
自分の小ささを知っている。
そのうえで、小さいからこそ入り込める場所があると見ている。
だから危ない。
「細い流れを見たいなら、勝手に高い火へ近づくな」
龍之介は言った。
「はい」
「与助のような男は、道を見せる」
「……」
「だが、その道がどこへ続くかは言わぬ」
九郎兵衛は黙っていた。
「おぬしは、自分が一段上がるためにその道を歩こうとしている」
「……否定は、できませぬ」
正直だった。
その正直さが、使えるのか、危ういのか。
まだ決めきれない。
「なら、ひとつだけ言っておく」
龍之介は、相手の目を見た。
「上がりたいなら、急ぐな」
九郎兵衛が小さく眉を動かした。
「急がぬ者は、置いていかれます」
「急ぐ者は、焼かれる」
「……」
「いまはそういう火だ」
九郎兵衛は、しばらく黙ってから深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
昨日の与助と同じ言葉だった。
けれど、九郎兵衛のそれは、少しだけ重かった。
◇
九郎兵衛が去ったあと、龍之介は影鷹へ言った。
「どう見た」
「欲はあります」
「うむ」
「ですが、話は通じます」
「そこが面倒だな」
「はい」
話の通じぬ者なら切れる。
話が通じる者だから、使う道も見えてしまう。
「三上殿」
「何だ」
「九郎兵衛を、どうされます」
「まだ決めぬ」
「では」
「与助と九郎兵衛を切り離す」
影鷹は目を細めた。
「九郎兵衛は残し、与助を浮かせる」
「そうだ」
九郎兵衛は欲があるが、現場も見ている。
与助は流れを売る。
この二人を結ばせたままにすると、九郎兵衛の現場感覚が与助の足場になる。
それはまずい。
「秀吉殿が得意そうな手にございますな」
「だから嫌なんだ」
龍之介は思わず顔をしかめた。
「だが、今回は借りるしかない」
◇
夕方、秀吉へ使いを出すと、返しは早かった。
文ではなく、伝言だった。
九郎兵衛には小さな役を。
与助には小さな空振りを。
役を得た者は、話売りから離れます。
空振りした者は、次の餌を探します。
龍之介はそれを聞いて、しばらく黙った。
「嫌な男だな、本当に」
影鷹は淡々と言う。
「今さらでございます」
「しかし、使える」
「はい」
九郎兵衛に小さな役を与える。
それによって、与助から直接“話を買う”必要を薄くする。
一方、与助にはわざと手応えのない場所を与える。
そうすれば、与助が次にどこへ餌を求めるかが見える。
狐を捕まえるのではない。
餌場をずらして、どの藪へ戻るかを見る。
秀吉らしい。
そして、実に嫌な手だった。
◇
夜、光秀へその案を渡すと、光秀は少しだけ眉を寄せた。
「羽柴らしいな」
「はい」
「嫌な手だ」
「ですが」
「効くだろう」
光秀は短く言った。
感情では好かない。
だが理としては認める。
それが光秀の返しだった。
「九郎兵衛は、どう見た」
「欲はありますが、現場は見えています」
「なら、小さな役を与えよ」
「はい」
「ただし、火へは近づけるな」
「承知」
「与助は」
光秀は少しだけ目を細めた。
「空振りさせる」
龍之介は頷いた。
「それで、尻尾が出るかを見ます」
「うむ」
話は決まった。
大きな会談ではない。
派手な決断でもない。
だが、こういう小さな手を誤ると、後で大きな火になる。
龍之介には、もうそれがよく分かっていた。
◇
その夜、京の空気はまた少し湿っていた。
狐は、最初の岸を選んだ。
九郎兵衛という小さな岸だ。
だが、その岸をこちらで少しだけ押さえた。
次は、狐がどこへ戻るかを見る。
「……餌場をずらす、か」
龍之介が呟くと、影鷹が言った。
「京らしい手にございます」
「私はあまり好きではない」
「ですが、使われます」
「使わねばならぬからな」
影鷹は黙って頷いた。
「面倒だな」
「今さらでございます」
いつもの一言に、龍之介は小さく笑った。
たしかに、今さらだった。




