第104話 狐、最初の岸を選ぶ
翌朝、雨こそ降っていなかったが、空の色は鈍かった。
京の朝は、晴れていてもどこか湿っている。
夜のあいだに人の気配が土へ沈み、それが朝になるとまたじわじわ浮いてくるような、妙な重さがある。
龍之介は宿の障子を少しだけ開け、表の通りを見た。
荷を担ぐ男が二人。
小走りに寺の方へ向かう小者が一人。
表向きは、いつもと変わらない。
だが、自分の中では何かが変わっていた。
与助という男の顔を一度見たことで、京の景色の見え方が少し変わったのだ。
大きな火ではない。
だが、火へ近づく足音はたしかにある。
その足音が、どの岸へ渡ろうとしているのか。
今日はそれを見極める日になる気がした。
「起きておられましたか」
背後で主人が言った。
振り向くと、いつもの控えめな笑みを浮かべている。
この男は本当に気配が柔らかい。影鷹とは別の意味で厄介だ。
「眠れぬほどではなかったがな」
「それはようございました」
「何かあった顔だ」
主人はほんの少しだけ目を伏せた。
その仕草ひとつで、軽い話ではないと分かる。
「紀伊屋の与助ですが」
「もう動いたか」
「はい」
「どこへ」
主人は声を落とした。
「寺でも、公家屋敷でもございません」
「ほう」
「武家方の、小さな顔へ」
龍之介は眉を上げた。
「……そちらか」
「はい。大きい家中の名ではございませぬ。ですが、京に出入りしており、用人筋とも軽く口を利ける者にございます」
それで十分だった。
与助は、いきなり朝廷に近い顔へは渡らない。
まずは武家方の、しかし京に慣れた半端な岸へ足をかける。
いかにもありそうな手だ。
「名は」
「斎藤九郎兵衛と名乗っております。大身ではございませんが、使いの采配と諸口の取次で少し重宝されている者とか」
「なるほどな」
龍之介は障子を閉めた。
家中の重臣ではない。
だが軽すぎもしない。
そういう男が一番危ない。
自分で事を動かせるほどではないが、誰かへ火を渡すにはちょうどいい位置にいる。
「影鷹は」
「もう見に出しております」
「早いな」
「おそらく、影鷹殿も同じことを思われたのでしょう」
主人はそこで少しだけ笑った。
「狐は、まず人の多い岸へは出ませぬ」
「おぬしまで狐と言うか」
「似ておりますので」
まったく、京の人間は妙なところで詩人になる。
◇
昼に近い頃、影鷹が戻った。
戻ったというより、気づけばそこにいた。
龍之介もだいぶ慣れてきたが、慣れたくはない。
「どうだ」
影鷹は短く答えた。
「与助、九郎兵衛に会いました」
「どのような場だ」
「表ではございません。だが隠しすぎてもおりませぬ」
「中途半端な場所か」
「はい」
龍之介は頷いた。
やはりそう来る。
完全な密談では“何か企んでいる”匂いが立つ。
かといって人目にさらしすぎれば、まだ与助の値では大きすぎる。
だから、人の出入りはあるが耳までは届かぬ場所を選ぶ。
「何を話した」
「そこまでは拾いきれませぬ」
「……」
「ですが、与助が頭を下げる時より、九郎兵衛が頷く時の方が多かった」
「つまり、与助が話を持ち込み、九郎兵衛が値踏みしていたか」
「そのように」
龍之介は机の上の書き付けへ目を落とした。
与助は最初に用人筋の手前へ顔を出し、次に武家方の半端な岸へ寄った。
流れとしては、かなり嫌だ。
高い火そのものへはまだ届かぬが、“そこへ通じているらしい顔”を少しずつ作り始めている。
「九郎兵衛は、どの類の男だ」
影鷹は少し考えてから言った。
「働き者です」
「嫌な言い方だな」
「嫌な働き者にございます」
それで十分に伝わった。
働き者は厄介だ。
とくに大物でない働き者ほど、自分の手柄になる火種を欲しがる。
「三上殿」
影鷹が言う。
「何だ」
「与助だけを見ていても足りませぬ」
「うむ」
「九郎兵衛が、その火をどう見るかも要ります」
「分かっておる」
そこで龍之介は少しだけ考えた。
与助へもう一度こちらから触れるのは早い。
だが九郎兵衛は放っておけない。
しかも、光秀や秀吉をこの段で正面へ出すのも違う。
「……私が行く」
影鷹は黙って頷いた。
◇
斎藤九郎兵衛は、思っていたより若かった。
三十を少し越えたくらいか。
日に焼けた顔をしている。
都の用人というより、もともとは野に近いところを走っていた男が、才覚で少しずつ京の空気を覚えたような印象だ。
だからこそ危ない。
こういう男は、上の恐ろしさを全部は知らない。
だが下の現実は知っている。
そして、自分が一段上がれると見れば、その現実を抱えたまま理へ手を伸ばす。
龍之介が名を通すと、九郎兵衛は意外そうな顔をした。
その意外さは本物だった。
つまり、与助と違って、この男はまだこちらが自分を見ているとは思っていなかったのだろう。
「これは、三上様」
「急で悪いな」
「とんでもない」
口調は丁寧だが、わずかに硬い。
どこまで知られているのかを測っている。
「少し、顔を見ておきたくてな」
龍之介がそう言うと、九郎兵衛は一瞬だけ黙ったあと、苦笑した。
「私のような者を」
「そういう顔ほど、大事な時がある」
九郎兵衛は笑った。
だが、その笑いに完全な余裕はない。
「お噂は伺っております」
「どのような噂だ」
「軽いようで、軽くないお方だと」
それはもう、京で流行り文句にでもなっているのかと、少しうんざりした。
「噂は、当てにせぬ方がよい」
「ですが、全く外れてもおらぬようで」
返しは悪くない。
少なくとも鈍くはない。
「九郎兵衛殿」
龍之介は回り道をやめた。
「紀伊屋の与助と会ったな」
九郎兵衛の目が、ほんの少しだけ狭くなった。
動揺はすぐ消えたが、消えたこと自体がよくなかった。
こういう時、本当にただの商い相手なら、もっと露骨に驚く。
「京では」
九郎兵衛が静かに言う。
「人と会うこと自体は罪でもございますまい」
「そうだな」
「では」
「ただし」
龍之介は声を少しだけ低くした。
「いまの京で、誰に会うかは器になる」
九郎兵衛は黙った。
「おぬしは、そこまで分かって会ったか」
少し長い間があった。
その間に、龍之介はこの男の腹の動きをほとんど見た気がした。
怒るべきか。
ごまかすべきか。
それとも、まだ軽い顔で逃げるべきか。
その三つを測っている。
「三上様」
ようやく九郎兵衛が口を開いた。
「私は、ただ話を聞いただけにございます」
「何の話だ」
「京で、少し空気が変わってきたことを」
「それだけか」
「それだけで十分にございます」
うまい。
否定もしきらず、認めすぎもしない。
しかも、その言い方なら嘘でもないのだろう。
「与助は、空気を売る男だ」
龍之介が言う。
「……」
「おぬしは、その空気で何を買うつもりだ」
九郎兵衛は、そこで初めてわずかに口元を引いた。
笑いではない。
少しだけ、本音に近い表情だった。
「何も買えぬ者が、ずっと下で荷だけ見ておるのも、つまらぬものでございます」
そこだった。
なるほど、と思った。
この男は黒幕ではない。
だが、小さな欲はある。
自分の位置を一段上げたい。
京の理に少しでも近いところへ座りたい。
だから、与助のような男の話に耳を貸す。
「つまらぬ、か」
龍之介が言う。
「はい」
「それで、いま高い火へ近づこうとするのは、つまらぬを晴らすためか」
「……」
「九郎兵衛殿」
龍之介は、少しだけ声を和らげた。
「上へ行きたい気持ちは分かる」
九郎兵衛が、意外そうにこちらを見た。
「だが」
「……」
「いまの火は、手を伸ばした者が焼かれる類だ」
それは脅しではなく、本当のことだった。
九郎兵衛はしばらく黙り、それから低く言った。
「三上様は、私が焼かれると」
「おぬしだけでは済まぬ」
「……」
「おぬしが軽く手を出せば、その火は“誰でも触れてよい火”になる」
そこまで言うと、九郎兵衛はようやく視線を落とした。
「買いかぶりです」
「そうかもしれぬ」
「私一人で、そんな」
「京はそういうところだ」
小さな手が、大きな器を歪めることがある。
それを、この男はまだ骨身では知らないのだろう。
◇
帰り道、影鷹が珍しく先に口を開いた。
「どう見られました」
「半分は欲だ」
「はい」
「半分は、まだ怖さを知らぬ」
「そのように」
「与助に乗せられたというより、自分で半歩出てみたくなっている」
影鷹は頷いた。
「止まりましょうか」
「まだだ」
「なぜ」
「いま完全に止めれば、“三上龍之介がそこまで怖がる火だ”と余計に値をつける」
そこが難しい。
九郎兵衛は小さな欲で動いている。
ならば、まだ引き返せるかもしれない。
ここで明智や秀吉まで出して潰せば、かえって“高い火”の存在をはっきりさせてしまう。
「……やはり測るしかないな」
龍之介が言うと、影鷹が答えた。
「今さらでございます」
今回は、たしかにその通りだった。
◇
夜、光秀へは要点だけを返した。
九郎兵衛という小さな岸へ与助が渡り、そこに小さな欲が生じていること。
だが、まだ“誰かの命”や“家中の大きな手”とまでは見えないこと。
いまは止めるより測る方がよいと見ていること。
光秀の返しは短かった。
「よい」
ただ、それだけだった。
だがその“よい”には、いまはまだ大きく動くなという意味も含まれていた。
秀吉へは、もう少しだけ柔らかく流した。
するとあの男は、返しにこう寄越した。
小狐は、尻尾を踏まれぬ限り、自分で穴へ帰ることもございます。
ただし、餌の匂いが強ければ別ですが。
龍之介は、その文を読んで少しだけ笑った。
「……嫌な男だ」
そう呟くと、影鷹が横で言った。
「今さらでございます」
やはり、それで締まるらしかった。




