第102話 火に近づく足音を拾え
高い火そのものは、たいてい静かだ。
大声では燃えない。
誰かが「ここだ」と指をさした時には、もう半ば形になっている。
だから本当に見るべきは、火そのものより、その火へ近づいていく足音なのだろう。
信長の文を読んでから、龍之介はそのことばかり考えていた。
高い火へ理を押しつけるな。
だが、誰がそこへ先に出たがるかは見張れ。
短いが、逃げ場のない言葉だった。
火がどこにあるかを探すだけでは足りない。
その火を使って己を立てようとする者、まだ器も定まらぬうちに“自分が触れた”という形を欲しがる者、そういう早足の影を拾えということだ。
ならば、今日から見るものは少し変わる。
荷の滞りや顔の曇りではない。
人の足取り。
言葉の急ぎ方。
理へ近づいたふうを見せ始める者の、不自然な整い方だ。
◇
朝の宿は、妙によく整っていた。
悪い整い方ではない。
主人も下働きの者どもも、余計な慌ただしさを表へ出さぬようにしている。
だが、京では整いすぎることそのものが一つの気配になる。
「主殿」
龍之介が呼ぶと、主人はすぐに来た。
「はい」
「近ごろ、宿へ出入りする顔で変わった者は」
主人は、いきなりそこかという顔をほんの少しだけ見せた。
だがすぐに戻る。
「変わった、と申しますと」
「用向きの重さに見合わぬほど、急に奥へ通じたがる者だ」
「……」
「あるいは、昨日まで町の荷や寺の段しか語らなかったのに、急に“都の理”を知ったふうに話し始める者」
主人はそこで、ようやく小さく息を吐いた。
「おひとり」
「いるか」
「はい。ここ二日ほどで、急に顔を出すようになった者が」
「どこの筋だ」
「表向きは、町の商いに近い顔にございます」
「表向きは、か」
「ですが、用人筋へ口を通したがる速さが、少し妙にございます」
来たな、と龍之介は思った。
町の者が用人へ口を通したがること自体は珍しくない。
京とはそういう場所だ。
だが、いまこの段で、しかも“高い火”の気配が立っている時に、そこへ急に顔を出し始める者がいる。
それは偶然と見るには都合がよすぎる。
「名は」
主人は、少しだけ声を落とした。
「紀伊屋の与助、と名乗っております」
「名乗っている、か」
「はい」
主人の言い方で、だいぶ分かった。
偽名とまで決めつけはせぬ。
だが、看板の顔と本当の足場が一致しているかは怪しい、ということだろう。
「おぬしの目には」
龍之介が問う。
「何を商う男に見える」
主人は即答しなかった。
こういう時の間は、この男の慎重さそのものだ。
「物より、話を」
「……」
「いえ、もう少し正しく申せば」
主人は続けた。
「話の行き先を商う顔に見えます」
それで十分だった。
◇
龍之介は、その“与助”にすぐ会いには行かなかった。
ここで焦って顔を出せば、こちらの関心を先に悟らせる。
いま必要なのは、火に近づく足音を拾うことだ。
足音の主へ、こちらから音を立てて近づくことではない。
「影鷹」
「は」
「紀伊屋の与助を見ろ」
「承知」
「ただし、近すぎるな」
「はい」
「用人筋のどこへ顔を出し、誰があれを通し、どこまで自分を大きく見せているか。それだけ拾え」
影鷹は、いつも通り気配を薄くしたまま頷いた。
「三上殿」
「何だ」
「火はまだ見えませぬな」
「見えぬ」
「ですが」
「足音はある」
「そのようにございます」
それだけで、今日の動き方は決まった。
◇
昼前、龍之介は秀吉にだけ、この話を薄く流した。
光秀へもいずれ渡す。
だが順がある。
いまはまだ“高い火”そのものではなく、それに寄ろうとする早足の影の段だ。
ならばまず、こういう臭いを嗅ぐのは秀吉の方が向いている。
秀吉は、話を聞いた瞬間に目を細めた。
「紀伊屋の与助」
「知っておるか」
「名までは」
秀吉は笑った。
だが、笑いは浅い。
「ですが、その種の顔はおりますな」
「どの種だ」
「京の理に通じるふうを、急に身につける男でございます」
いかにも嫌な言い方だった。
だが、実に正確でもある。
「町の顔で入り」
秀吉は指を折るように言う。
「用人へ細く口を通し」
「……」
「明智殿が高い理へ入ったと見るや、その少し外で“自分もまた理に近い”顔を売り始める」
「つまり」
「火そのものではなく、火の周りで役を奪いに来る者」
信長の文と、ぴたりと重なる。
「羽柴殿」
龍之介が言う。
「何でしょう」
「こういう男は、誰のために動く」
秀吉は肩をすくめた。
「最初はたいてい、自分のために」
「……」
「誰か大きい者の意を受けておることもございましょう。ですが最初の一歩は、まず自分の位置を上げるためです」
その答えは重かった。
つまり、必ずしも背後に大きな黒幕がいるとは限らない。
むしろ厄介なのは、“いま高い火がある”と嗅いだ小賢しい者が、自分の判断でそこへ寄り始めることだ。
そういう小さな欲は、理より読みにくい。
「触れますか」
秀吉が問う。
「まだだ」
「よろしい」
「ほう」
「こういうのは、早う触ると“触れるほどの顔”だとこちらから認めることにもなります」
やはり、この男はこういうところが鋭い。
◇
夕刻、影鷹が戻った時には、すでにかなり拾っていた。
「三上殿」
「どうだ」
「紀伊屋の与助、町の商人というには、荷に触れる手が少のうございます」
「やはり話か」
「はい。むしろ、用人の手前にいる者どもへ小さく恩を置いております」
「どの辺りだ」
「寺へ入る紙と油の小口。公家屋敷へ日々入る細かな品。そうした“顔を立てるほどではないが、滞れば気になる”ところを」
龍之介は、そこで小さく息を吐いた。
うまい。
いや、うまいからこそ嫌だ。
大きな荷ではない。
だが、細かな気遣いのように見せて人の顔へ忍び込める場所ばかりだ。
しかも、ちょうど今の京では“高い理が動き始めたせいで、下が少し不安を抱く”層でもある。
「まだ上の火そのものへは届いておらぬな」
「はい」
「だが、その周りに橋をかけるふうを見せている」
「そのように」
つまりこれは、まだ火元ではない。
だが、放っておけば“高い火へも通じる顔”として自分を売り始める。
そうなれば、家中の誰かが使うかもしれない。
あるいは、京の誰かが便利に使うかもしれない。
それが、次の火の流れになる。
「……ようやく見えてきたな」
龍之介が言うと、影鷹が静かに頷いた。
「火そのものではなく」
「火へ渡ろうとする小橋か」
「はい」
◇
夜、龍之介はようやく光秀にもこの話を渡した。
いまはまだ“高い火”の中身に触れる段ではない。
だが、その周りで役を奪おうとする顔が出始めている。
それは見過ごせぬ。
光秀は、最後まで聞いてから言った。
「なるほど」
「どう見られます」
「まだ取るに足らぬ」
光秀はそう言った。
だが、そのあとに続けた一言が重かった。
「だが、取るに足らぬ者ほど、周りへ火を移す」
そこか。
大きな黒幕なら、まだ見えやすい。
だが、自分を売るために理へ寄る小者は、火そのものを動かせなくとも、火の周りに余計な乾きを増やすことができる。
それが厄介なのだろう。
「龍之介殿」
「は」
「しばらくは、おぬしが見よ」
「承知」
「私が触れれば、重すぎる」
「ええ」
「羽柴が触れれば、軽すぎる」
そこまで言って、光秀はわずかに目を細めた。
「ちょうどよい嫌な役だな」
その言い方に、龍之介は少しだけ苦笑した。
「皆、そのように申されます」
そこへ秀吉がいれば、きっと笑っただろう。
だが今日は、光秀も笑わなかった。
「……面倒だな」
龍之介が最後にそう漏らすと、影鷹がいつも通り答えた。
「今さらでございます」
やはり、それだけは変わらぬらしかった。




