圧倒的な戦い
「賢者さま、得意の紋様で攻撃しちゃってください!」
猪野がずびしと魔王を指差せば、宙に浮かぶハーウはため息をこぼす。
「……敬意を求めるほうが愚かなのだろうな」
やれやれ、と首を横に振るしぐささえ様になっている。まったくもって目の保養。顔が良すぎる。実物も推せる。むしろ担ぎ上げたいレベルで猪野の心の琴線をじゃんじゃかかき鳴らしてくれていた。
「あんたは……どういう伝手で賢者を呼んできたんだ。いや、どこから出てきたか聞くべきか? いやいや、そもそも賢者ハーウは百年も前の人だろ。なのに容姿がまったく変わってないのはどういうわけだ」
混乱した様子のオウジが矢継ぎ早に聞いてくる。猪野は巨鳥にもたれるその身体を抱き起こして、驚いた。
「先生、めちゃくちゃ怪我してるじゃないですか!? うわ、うわ! 血まみれっ。助けが間に合ってない!」
手のひらが血でぬめる。オウジは自身の体を支えることすらできなくなっていたらしく、巨鳥の背からずるりと落ちる。
「お姉ちゃん、先生おちちゃう!」
「わっとととと!」
慌てて支えようと手を伸ばした猪野だけれど、相手は成人男性。支え切れるはずもなく、オウジの体ごと地面に座り込むことに。
ひどく打ち付けなかっただけ良かった、と猪野もポフィンは胸を撫で下ろす。そんなふたりをよそに、オウジはぼうっと空を見上げていた。
空ではハーウが戦っていた。
彼が手のひらを横に薙ぐ動きに合わせ、魔王に向けていく筋もの光が走る。一撃、二撃、三撃。
攻撃が当たるたび魔王の体は右へ左へ、なぶられる。長い巨体がのたうって、体勢を立て直す前に再びハーウの周囲に光る紋様がいくつも浮かびあがる。
「強いな……文言は、いらないのか」
紋様を操るには適した文言が必要だ。小説を書いた本人がそれを知らないはずもない。
「それですよ。私も驚いたんですが」
オウジの書いた小説の中で知っていた常識だから、猪野もはじめは驚いた。そしてお茶をしながらハーウを問い詰め、もとい質問をしたのだ。
そのせいでオウジの救出に向かうのが遅くなったのは、今は横に置いておこう。
「彼は今、魔物と同じような生命体なんだそうで」
「魔物と?」
「ええ。魔力を自在に操れるようで。魔力の塊とでも言うべきか、って話してました。彼は一度、死んでいるそうです」
あいづちはなかった。代わりというわけではないのだろうけれど、ハーウの攻撃が魔王にぶつかり轟音を鳴らす。
猪野が空から地上に目を移すと、口ごもるオウジの姿がある。
「いや、それはそうだろ。だってあれから百年が経ってる。だから人なら死を迎えていて当然で」
「彼が死んだのは、魔王を倒した時だそうです」
言い訳を探すように話すオウジの言葉に割って入ったのは、その混乱が猪野にもよくわかったからだ。
「オウジ先生の書かれた小説は、魔王を倒してハッピーエンドでしたよね。荒廃した大地と傷ついた人々が描写されてはいましたが、それでも勇者と聖女、それから賢者の悲願は叶っていた」
「ああ、そうだ。だって、俺は見たんだ。魔王に全力で向かっていく三人を。倒れゆく魔王を」
呆然とつぶやくオウジの言葉に嘘はないのだろう。いや、嘘であるはずがない。猪野はそのシーンの描写に何度、拳を握って胸を熱くしたことか。あんな素晴らしい描写が嘘であるはずがない。けれど。
「先生は、その姿を見て日本に戻られたんじゃないです? 魔王を倒したその後のこと。賢者が命を落とし、権力者の都合で歴史から消されようとしていること。ご存知ないのでは」
オウジが見聞きしたものを書き記しているのであれば、魔王を倒したシーンまでは見知っていたのだろう。
けれど倒したその瞬間に日本に戻されたなら?
「ああ……そうだ。俺は、倒れゆく魔王を見た。喜びを顔に浮かべる聖女と、勇者を見た。それから、賢者に目をやろうとした瞬間だ。日本に、消え失せる前にいた場所に戻っていた」
そう語るオウジは戦いによって巻き起こった砂塵のなか、目を細める。
その目はすぐそばの空中。白煙を上げながらぐらりと傾く魔王を映していたが、果たして彼が見つめているのはそこにいる魔王か、あるいは過去の日に見た魔王なのか。
「そうか……賢者はあの後に命を落として……」
噛み締めるようにつぶやくオウジは、地面にひざまづいたまま天を見上げていた。その姿に猪野はふと思う。
──まるで懺悔のよう。
何に対する悔いなのか、猪野に察することはできないけれど。
「賢者さま、これから楽しいことたくさん探すんです」
胸を張って伝えられることがあると、猪野は笑った。
「さっき約束したんですよ。『僕はこのまま消えるべきだ』なんて言うものだから、私怒っちゃって」
「はっ、やりそうだな。あんたなら」
「おやぁ。オウジ先生も私のことがわかってきましたね?」
笑う余裕が出てきたのは、賢者ハーウが魔王に対して圧倒的な強さを見せているから。
攻撃を始めてから一度も、魔王の反撃を許していない。
今も倒れかけた魔王に攻撃の手を緩めず、きらめく紋様を次々に生み出しては追撃を加えていく。魔王が完全に倒れるまで、いくらもかからないだろう。安心感がたまらない。
「彼が亡くなった後の詳細も聞き出せるだけ聞き出してるので、あとでお伝えしますね。それはもうハラハラドキドキの展開だったんですから!」
「ああ」
拳を握って話しながら、猪野は空を見ていた。
もうもうと立ち込める粉塵の向こう、巨大な影がゆっくりと倒れていくのが見える。
──魔王が倒れる。
小説を繰り返し読み、何度となく想像した最大の敵の最後を実際に見られるなんて。
興奮して泣きたい気持ちに飲まれそうになりながら、猪野はすぐそばの小さな背中に声をかけた。
「ポフィン、姿勢を低くしてしっかり捕まっていて。魔王が倒れるから」
「うん!」
少女が素直に従い、巨鳥をしゃがませその首にしがみついた瞬間。
魔王が地に落ち、はじけた。
水と、魔力の光だろうか。
巨大な体を構成していたそれらが、水風船が割れるようにはじける。
魔王の全身が膨らんだように見えたのは、一瞬。
直後に襲いかかってきた水と風圧とに目を開けていられなくなって、猪野はとっさに身を伏せた。
──息がッ……!
陸に居ながらにして溺れてしまいそうな、水と魔力の奔流。押し流されてしまわないよう体を低くし、息を殺して耐える。
それは数秒だったのか、数十秒だったのか。
「っはあ!」
とうとう堪えきれなくなって大きく開けた口に、酸素が飛び込んできた。
──息ができる。
はっとして目を開けた猪野は、広々とした空と大地を認めた。
明るい空にぽつんと浮いているのは、ハーウひとりだけ。
「魔王、いない……」
こぼれたのはポフィンのつぶやき。
耳に届いたその声に、猪野の胸にじわじわと喜びが湧き上がる。
「いない……魔王がいない! 賢者ハーウが倒したんですよ! ねえ、先生!」
恐るべき魔王を圧倒的な力で倒した賢者。
推しが最強だという歓喜に満たされてながら振り返り、猪野は固まった。
オウジが地面にぐったりと倒れている。
その体の下、影のように広がっている赤黒いのは何だ?
「せんせい?」
返事がない。
にじり寄ってオウジの腕に触れ、その冷たさに驚いた。
「先生!?」
「おい、どうした!?」
「うるさ……」
駆けてきたカラカとパプラが、オウジの姿を見て立ち止まる。
「おいおいおい、せっかく助けたのにここで失血死か?」
「揺するな、傷口は」
「腹だ。さっきの戦いで怪我したんじゃなければな」
表情を変えたふたりが、猪野を押し退けてオウジを取り囲む。
カラカがオウジの体制を変え、パプラが腹の傷を見聞する。
「……よくない。血が止まる様子がない」
「あ〜、腹に水ぶち込まれてたせいか? くっそ、やりやがったあの女研究者、きっちり殴っときゃ良かった」
「な、治りますよね? 先生、大丈夫ですよね?」
懇願するように尋ねた猪野に、青年たちは顔を見合わせて眉を寄せた。
「……無理。傷口を縫うには血が流れすぎ。癒しの力を持つ紋様持ちを探すには、時間が足りない」
諦めろ、とパプラの顔には書いてある。口にしないのは彼なりの優しさか。
けれど猪野が絶望するには、状況を知らせる言葉だけで十分だった。
「そんな……!」
こぼれた言葉は悲鳴のような響きを持って、静寂をかき乱した。




