ピンチに登場するものは
人の一歩と魔王のひとうねり。
比べるまでもない移動距離により、魔王がオウジの真後ろにたどり着くのは一瞬だった。
「捨てろ! はやく、俺を捨ててくれっ」
「いーやーだ、ね!」
「クソガキがっ」
強情を張るカラカは、背後で巨大な口が開かれたのに気づいていないのだろうか。
逃れようと身をよじっても、青年の手はがっちりとオウジを背負って離さない。大の男を背負ったまま走るせいで、俊敏なはずの脚は明らかに鈍っている。
──そろって丸呑みにされるくらいなら……!
オウジはカラカの腰に手を伸ばした。抜き取ったのは青年の腰に下がる剣。
鋭利なその刃をためらいなく振り下ろした先は、自身のわき腹。
「ぐっ……!」
「はあ!? なにやってくれてんの!」
カラカの怒声に耳を貸さず刃を引き抜けば、切り口から水が噴き出す。
血の混じったそれは、魔力がたっぷり含まれているという水。それがカラカの走る後ろに噴水のように弧を描く。
魔力を目当てに街へと飛び込んだ魔王の呼び名を持つ龍は、大きな口でこぼれる水を受け止めた。
恍惚。爬虫類に表情を見出す者ならば、そう表現しただろう。
魔王は冷ややかな鱗に覆われた目を細める。宙をうねる体が動きを止めたのを見て、オウジは鋭く叫ぶ。
「今のうちに覚悟を決めろ!」
荷物であり、餌であるオウジを捨てる覚悟を。
そう伝えたはずなのに、カラカは速度を緩めないまま「へっ」と鼻で笑う。
「そんなもん、とうに決めてるぜ。あんたを守ってあいつから逃げ切る!」
「無理に決まってる。良い加減、諦めてくれ!」
言い合う間にも、魔王は魔力を嚥下したらしい。あるいは味わい終えたのか。
巨大な舌でべろりと顎を舐めて、ぬらつく瞳がオウジを捉える。
──ああ、駄目だ。
絶望は案外と軽やかに、音もなく近づいてくるものらしい。
かぱりと開かれた口がオウジをひとのみにしようと迫り来る。
「させるかよっ」
叫んだカラカが大きく踏み込み、右へ飛んだ。そのせいで逸れた魔王の牙は、オウジの左腹を裂いて遠ざかる。
「ぐうっ!」
「ああ、くそっ! 死ぬなよ、センセイ!」
「そう、言われても……な……」
どぼぼ、とこぼれた液体の何割がオウジの血液なのか。地を染めるそれに魔王が嬉々として動きを止める中、オウジは視界が暗くなるのを感じていた。
「あっ? おい、こら! 何、力抜いてんだ。ちゃんとしがみつけっ。落ちる、くそッ!」
「カラカッ」
だらりと力の抜けた体が落ちる寸前、駆け込んできたのは巨鳥だ。その背にまたがる人物が、オウジの体を引き上げる。
「パプラ! ナイスタイミングっ!」
オウジを引き上げざま、パプラ自身は走る鳥の背から飛び降りた。手綱は鳥に残った少女へ託して「走らせて、止まらずに!」と告げ、カラカと並走する。
「どうする気? 勝算は」
「そんなもんねえ! つーか、俺らの人生にあったことあるか?」
「無い。けど、欲しい」
まったくもって正論だ。
けれどカラカには返事をする余裕がなかった。
魔王が頭上を通過していたからだ。
「あっ、くそ! 俺らのこと無視してやがるッ」
「腹立つ!」
パプラが短く吠えて地を蹴り、魔王の腹に斬りかかる、が。
「折れた!? まじか!」
鋭いはずの刃は魔王の巨大にぶつかって、あえなく砕け散った。
これにはさすがのパプラも目を見開き驚くけれど、当の魔王はどこ吹く風。自然のひとつもよこさない。
「……無傷とか、無理すぎる。勝つどころか気もひけないなんて」
「くっそ!」
立ち止まったパプラの頭上を魔王の長い尾が通り過ぎていった。
戦意喪失した相棒に代わり、カラカは魔王を追う。
「くそ、くそ、くそッ! 止まれよ!」
刃では折れてしまうからと、鞘を外さないまま剣を叩きつける。止まれ、止まれと上がる怒声がオウジの頭でガンガン響く。
「うう、うるせぇ……」
「センセ、捕まってください! それじゃ走りにくい!」
巨鳥の手綱をとるポフィリの大声が耳元で聞こえて、オウジは顔を顰めた。
──こんな幼い少女まで、諦める気はないっていうのか。
「なんだって、そこまで……」
そこまでして知り合って浅いおっさんを助けようとするのか。それも寄ってたかって。
言葉にならないオウジの疑問が聞こえたように、ポフィンが明るい声をあげる。
「だって、お姉ちゃんはぜったい諦めないもん」
身の上に落ちた魔王の影に気づいていないわけではないだろうに、ポフィンは笑う。
「ぜったいに諦めたりしない。ふらんお姉ちゃんなら、ぜったいに!」
ぐぱ、と頭上に開かれた巨大な口。今にも食われようとしているのに、少女は震えながらも瞳に宿強い光を宿したまま。
「ぜったいに助けに来てくれる」
断言した、その声が聞こえたわけでもないだろうに。
巨鳥の足元の地を割って、飛び出してきたのは猪野ふらんその人。
「来ましたよ! 助けに!」
「お姉ちゃん!」
叫ぶ猪野といっしょに飛び出してきた椅子やテーブルが魔王の顔面を強打し、吹っ飛ばす。
おまけのようにぶつかるティーセットが降ってくるのをかすれる視界に認めて、オウジはうめく。
素直に喜べるポフィンがうらやましくさえあった。
「優雅な時間を過ごしてたようだな……?」
白い丸テーブルに似合いの華奢な白い椅子。同じく白いカップや皿は、どれも品の良い物ばかり。
それでいて魔王を吹き飛ばし、かつ壊れないおかしさに頭がついていかない。猪野ふらんが飛び出てきたことに驚く暇もないほどだ。
「ふっふーん! そうでしょうとも、そうでしょうとも。私が誰とお茶してたか、わかりますかオウジ先生!?」
すたっと着地した猪野が興奮した様子で言う。ポフィンまでうれしそうに笑うものだから、オウジはさっきまでの危機との温度差で目が回りそうだ。
──ほんとに、無茶苦茶で訳のわからんやつだな。
実際、血の気の失せたオウジの目は回っていたらしい。
口にしたつもりの言葉は声にならず、視界がぐわんと大きく動く。
──ああ、落ちる。
「オウジ先生!? って、うわ。血が!」
「うるせー……耳元で叫ぶな……」
体制を保てず巨鳥の背から落ちかけたオウジは、猪野に支えられたらしい。至近距離で聞こえる声とやわらかな体温がそれを伝えている。
しかしそれをゆっくりと感じている暇はないらしい。
「お姉ちゃん! 魔王がっ」
ポフィンの焦り声。
薄く目を開けたオウジは、やや離れたところで身震いした魔王と視線がぶつかる。
──ああ、怒ってんな。
唸り声も何もありはしないが、ぎらつくその目に宿る感情はいやにはっきり伝わってきた。
逃げろ、と言う間もなく魔王は巨大をたわめ、オウジたちに向かい飛びかかってくる。
「あ……」
「に、げ……」
「おい! 逃げろ!」
「ぼうっとするな!」
ポフィンのかすかな悲鳴。オウジのうめき声。遠くで叫ぶ青年たちの声。
それらすべてを飲み込んでしまおうと、魔王が迫る中。
「助けてください、ハーウ様っ!」
猪野の口から飛び出した助けを求める言葉。
その呼び名に、オウジは状況も忘れて瞬いた。
──ハーウ? 賢者ハーウのことか?
「お前の敬称からは、まったく敬意が感じられないな」
答える涼やかな声に顔をあげれば、頭上から舞い降りるようにしてやってきた人の姿がある。
さらりとした髪に取っ付きにくいほどの美貌。澄ました顔と冷ややかにさえ見える透き通った瞳のその人の横顔に、オウジは間違いなく見覚えがあった。
「ああ……ハーウだ……」
思わずこぼれた声には、意図せず感嘆の響きが宿る。
もう二度と踏むことはないと思っていた異世界に立ち、再び姿を見ることは叶わないと思っていた相手を間近に見上げる。
驚きと喜び、そして湧き上がる不明瞭な感情の大きさと強さに打ちのめされたような心地で、オウジはただかつて賢者と呼ばれた青年の顔を見つめていた。




