逃亡
カラカに背負われて街を出た。
高い塀を抜けた先に広がるのは荒野。空が明るいこの時分は、魔物がうろつくこともなく平和だ。けれど今、目に映るのは平穏とは程遠い光景。
「どこに逃げれば良いの!?」
「知るかよ、邪魔だ! 止まるな!」
「待って、待って、なんでこんなことに!」
叫び声、怒鳴り声、泣き声。
どちらへ逃げるべきか戸惑う人でごった返すなかをカラカは器用にすり抜けていく。足取りに迷いがないあたり、仲間との待ち合わせ場所に向かっているのだろう。
安定感のあるその背に体を預けながら、オウジは背後を降り仰いだ。
「すごいな、あの大砲……数で押している」
白煙をこぼす巨大な筒の先からは、魔王に向けて間断なく砲撃が放たれていた。
一撃では意味をなさなくとも、繰り返される攻撃のために魔王は街の上空へと近づくことができないらしい。一定の位置に滞空したまま、ぐねりぐねりと身をくねらせている。
水蒸気の膜が途切れることなく街を覆っているのもまた、目くらましになっているのかもしれない。
──この世界の者たちは、希少な紋様持ちがいなくとも魔王を退ける手段を手に入れたのかもしれない。生命活動に必要な水を溜め込むという手段はどうあれ、個人が犠牲にならずに済む方法が見つかったのなら、それはそれで悪くはないのか……?
そうなればいつか、かつて命をかけて魔王と戦った勇者と聖女のことも忘れられていくのだろうか。賢者が名を語られず、姿を残されなかったように。
オウジが複雑な気持ちを抱く中、水蒸気の煙幕の向こうで、魔王の影がぬるりと動く。シルエットになった魔王が首を天に向けた。
視界のはしにその姿を捉えたのだろう、カラカの足取りが鈍る。
「お、あのデカブツ、逃げる気か?」
「いや、違う……あれは」
カラカの期待するような声に、オウジは否定で応じる。
なぜって、魔王は後退する気などかけらも見せてはいないから。
龍に似た魔王の体が空高く登っていく。高く、上へ、上へ。
──そういえば、この世界の空はどこに果てがあるのだろう。太陽も月も星もない、明るくなるだけのこの空の果ては……。
確かめようもないことに思いを巡らせるオウジをよそに、魔王はぐんぐんと登っていく。
──まさか、星を喰らう気か?
命の水をこぼす星を、魔力の塊であろう星を喰らう気か、と思ったが。
「止まった」
星に届かない空の高みで、魔王がぴたりと動きを止めた。
大砲の攻撃は届かない。けれど星にも辿りつかない1まで上昇した魔王が、天を向いていた頭をゆるりと下げて、大地を見下ろす。
──まずい。
ぞわ、とオウジの背に怖気が走った。
届かない攻撃に、大砲はいつしか沈黙していた。
大勢いる人々は固唾を飲んで、魔王の動きを見つめている。
異様なまでの静寂の端々から、恐怖がひたひたと滲み入るようで。
「走れ!」
気づけばオウジは叫んでいた。
カラカに伝えるためでもなく、周囲に聞かせるためでもなく、ただ本能からこぼれた叫び。何度も異世界へ落とされ、幾度も危機を味わったオウジだからこそ身についた、察知能力とでもいうべきか。
オウジの声で弾かれたように駆け出したカラカもまた、危機に直面しながら生きながらえてきたのだろう。迷いのないその動きにつられるようにして、周囲の人々も走り出す。
走る、走る、走る。
流れる景色のなか、魔王が落ちていく。
空の高みから地上へ。
――落ちる。
一瞬、魔王が街に飲み込まれたように見えた。
次の瞬間、轟いた轟音と同時に水柱が吹き上がる。
魔王の巨体よりも高く、高く。
吹き上がった水はずいぶんな量で、よくもまあこれだけ溜め込んでいたものだな、オウジは妙な感心を覚えた。
太陽があったならば虹がきらめいて美しかっただろう。けれど明確な光源のないこの世界では、吹き上がった水はただ落ちていく。
「あいつは!? 魔王はどうなったよ! 地面で頭うってくたばったか?」
「そうなってたらいいんだが……」
走り続けるカラカの背で首をひねり、オウジは街に動きはないかと見つめていた。
最外縁の高い塀の向こうに、大砲がいくつか見えている。さっきまでよりもぐっと数が減っているのは、魔王の落下に巻き込まれて折れたか、地面ごと沈んだかしたのだろう。
──どれほどの被害が出ただろうか。やっぱり俺が素直に食われていれば……。
街の被害に思いを巡らせ、自己嫌悪をにじませたオウジだったが、思考に浸っている時間は無かった。
ぬ、と持ち上がったのは巨大な尾。砕けた建物の瓦礫だろうか、大きな塊をごろりと落としながら魔王の頭が塀の向こうに見えた。
「動いた」
「げ、くたばってねえのか!」
「くたばるどころか、あれは……」
呆然としたオウジの声にカラカが足を止める。
振り向いた彼の口から改めて「げえ……」という声が漏れた。それはそれは、嫌そうな響きを伴って。
「なんか、デカくなってんな? なあ?」
「ああ。恐らく、地下に溜まった水の魔力を食ったんだろうな」
ゆるりと宙に浮かんだ魔王は、もはや街よりも大きかった。
水のなかの魔力だけを取り込んだのか、その腹はオウジのように膨れてはいない。ただ形は元のまま、大きさだけが桁外れになっている。
「これじゃあもう、大砲も効かんだろうな」
「知らねえけど。どっちにしろ、もう弾切れなんじゃね?」
魔王が落ちた時から、大砲はいっさい沈黙していた。
それが弾切れのせいなのか、あるいは砲撃手を失ったからなのか、それとも別の理由があるのか。
オウジにはまったくわからない。
ただ、現状が望ましくないということだけはわかっていた。
ゆるり、魔王の頭がもたげられる。
巨大な頭部が正面を向き、暗くぎらつく目に捕えられた、とオウジは思った。
気のせいではないはずだ。どうしようもなく体が震えて、いのちの危機を伝えている。
周囲にいたはずの人々は魔王の視線から逃れるように、四方八方へ散っていた。
恐ろしい魔王の目に映るのは、荒野に佇むオウジとカラカのふたりきり。
「逃げよう、ぜ」
「……置いていけ」
カラカの声が震えていた。オウジを支える体もかすかに震えている。その背に目をやって、オウジは不意に気持ちが凪いだ。
「あれが狙ってるのは魔力だ。俺を背負ってたらどこまでも追ってくるはず。だが、ひとりなら逃げ切れるだろ?」
オウジがそう返したのは、今度は自己犠牲の気持ちからではなかった。
自分よりも若い者が死ぬくらいなら、自分が先に死ぬべきだと、そう自然に思うようになっていたからだ。
──若いやつが死んだニュース見るだけで堪えるもんなあ。俺も年食ったんだろうな。
無気力に日本で暮らす中、見知らぬ子どもや若者が亡くなる話を耳にするだけで気が滅入った。
ましてや言葉を交わし、背負われて熱を知った相手が命を落とすなど、耐えられない。耐えたくも無い。
「……やだよ」
強情を張っているのだと、すぐにわかる返事だった。
声は震え、隠しきれない迷いがにじんでいる。オウジの体を支える手に、変に力が入っているのが伝わってくる。
「良いんだよ。俺はもう、良いんだ」
言い聞かせるように告げたのは、カラカにだったのか自分自身にだったのか。
「俺はもう良いから、代わりにあいつのことを頼みたい。猪野ふらんのことを」
凪いだ気持ちになっても、気にかかるのは破天荒な若い編集者のこと。
オウジのファンを公言して憚らない彼女がオウジの死にどう行動するのか、まったく未知数だ。
──俺がいなくなると同時に、あいつが地球に帰れるのが一番良いんだが。
結末を知らずに平和な時を過ごしてくれたなら。そう願うけれど。
「……いやだ!」
カラカが叫んだ。
オウジを支えるカラカの手に、ぐっと力が込められる。
「あんたを掻っ攫って、偉そうにしてる連中を笑ってやるって決めてんだ。それなのに、途中で投げ出せるわけねぇだろ。あんたは大人しく、助けられてろ!」
もう彼は震えていなかった。歯茎を剥き出しにして笑うと、魔王に背を向ける。
「捕まってろ! 俺の本気、見せてやるっ」
背後で魔王がぬるりと動き出すのが、オウジには見えていた。
俊敏さはない。けれども図体が巨大なせいで、わずかな身じろぎで大きく進む。
あっという間に距離を詰められてしまうだろうことが、容易にわかる。けれど、オウジはカラカの背にしっかりとしがみついた。
「……わかったよ。逃げてくれ、カラカ」




