推しの生供給に感謝を
「……帰ってもらおうか」
沈黙をやぶったのはハーウのほうだった。
昏い眼差しに、猪野が思い出したのは勇者と聖女だけの像。
──歴史に残さなかった、人の口にのぼらないってことは、もしかして我が推しのひとりは悪……?
浮かんだ考えに何かを思うより速く。男性にしては細く長い指がゆるりと動く。その動きにあわせて水がきらめき、何かの模様を宙に描いていく。
──花の紋様?
それが何なのか猪野には読み取れない。読み取れないが、勘が告げていた。
──なんだかわかんないけど、あれを発動させちゃだめだ。
「待ってください!」
考えるより先に体が動く。逆さに浮かんだ水のなか、猪野は踏み出すにも苦労する上半身をぐっと前に押し出し、描かれた紋様に手を伸ばす。
描き進められるほどにきらめきを増すそれ。
──紋様が描き切られる前に。
触れようとした猪野の手をハーウが振り払った。
「愚かな! 魔力に焼かれたいのか!」
叫ぶ彼の手元で、紋様のきらめきがほろりと解けた。描くのを止めた指先から光が崩れて、紋様は瞬く間にバラバラに。
それを見送るように凝視するハーウは怖い顔。なまじつくりが整っているだけに、たいそう怖い。
けれど猪野は怯えなかった。
──だってこの人、怒りというより焦って私の手を振り払った。それはつまり、悪い人じゃないってこと!
確信する。推しは間違いなく、作中の推しのままだ。姿形だけでなくその心根まで変わっていない。
わずかな恐れも持たず、猪野はさらにずずいと顔を近づけた。
「聞きましょう!」
「は?」
ハーウの眉がますます寄せられる。しかしそんなことに構う猪野ではない。
「あなたは慎重で気遣いに満ちた人だってことは知ってますから。そのように難しい顔をしているのは、きっと溜め込んだ思いがあれやこれやあるはずなので。聞きましょう、この猪野ふらんが!」
「な、なんなんだお前は。お前が僕の何を知ってるというのか」
「知っていますとも!」
ふっふーん、と猪野は胸を張る。むしろ得意分野が来たと張り切った。
「あなたの名前はハーウ。貴族ではないので名前だけのハーウ。生まれは詳しくはわかりませんが、どこかの貧しい星の下。持って生まれた花弁はなんと、珍しい六枚花弁! ああ、いやしかし幼少期のことには詳しくないのです。残念ながら」
「なっ」
絶句するハーウをよそに、猪野は心底から残念だとうなだれる。
なぜって、オウジの著書で語られていなかったから。より細かくいえば、ハーウが語っていないから。
──あれは作品の構成的にオウジ先生が文字に起こさなかっただけなのか、あるいはオウジ先生が聞いているときにハーウが子どものころの話をしていないのか。どっちなのか。そこのところは要確認ということで。もし作中に書いていないだけなのであれば、オウジ作品のファンブックを作ってもらえるよう編集長に直談判しよう。そうだ、そうしよう。あまたのオウジファンのためにも私が動かねば! 編集者権限でありったけの作品情報を世界に放出してもらわねば!
地球に戻ったらやることとして脳内にメモしつつ、猪野は続ける。
「私が詳しいのはあなたが長じてからのこと。年齢はわからないんですけど、今のお姿に育ってからの話だと思うんですよね。勇者ウェニアと聖女ランギ、あのおふたりと出会ってから魔王を倒すまでのあれやこれやについてなら、かなり自信があるのですが。聞きます? 語ります? むしろ答え合わせしてもらえませんかっ?」
「は、なぜお前があのふたりのことを知って」
「あ、待って!」
言っているうちに気が付いた。
目の前にいるのはなにせ本人だ。オウジの見聞きしたことを書き出した作品を読んだだけの猪野より、よほど真実を詳しく知っているに違いない。
さらに猪野は気づいてしまった。
――そうだ、街でわからなかったあの疑問も、本人に聞いてしまえばいい! というか、聞きたいんだった!
何を知っているんだと言われて、つい熱くなって話がそれていた。うっかりである。
「そうですよ、私が話すよりあなたの話を聞きたいのですが! 勇者や聖女のことでも、あなた自身のことでもなんでもいい、聞かせてください。賢者ハーウ!」
勢い込んで促せば、ハーウは目を白黒。
──おお! これは聖女ランギに押されているときの再現では!?
それはまだハーウが賢者と呼ばれるよりも前の話。三人の出会いのシーンだ。
ここに聖女はいないけれど、聖女目線での映像を見ているのだと思えば猪野の胸に熱いものがこみあげる。
「あああ、こうやってあなたは聖女ランギに押し切られたんでしょうねえ。紋様を隠して貧しい村で暮らしていたあなたがウェニアに紋様を見られて。ランギに詰め寄られたシーンは思い出すだけで、もう、もう!」
「お前……なぜそれを知っている」
うなるように問われて、猪野は手を叩いた。
「ああ! なるほど、あなたはご存知ないですもんね。ええと、どこから話したものか」
猪野はうむむと頭をひねる。
その間に落ち着きを取り戻したハーウが「いや」と首を振った。
「なぜかはわからないが……僕のことを知っているのだろう。ならばもう僕が『賢者』と呼ばれていないこともわなっているはずだ。わかっているなら、黙って去れ。そしてここのことは忘れて……」
「いやいやいや! わからないんですが!?」
なにやらひとりで結論付けて薄く微笑むハーウに、猪野は盛大に声をあげる。
──そう、そう、そう! この方こういうとこあるんだ。考えすぎて、ひとりで結論付けちゃうとこ! 小説でもそのせいで話がこじれたり、無闇と傷ついたりしてた!
ハーウの生早合点が見られとは思っていなかった。
心の中に素早くメモをしてから、猪野は「うううーん」と言葉を探す。作中でしばしば目撃した、勘違いしやすく心を閉ざしやすいハーウが会話をしたくなるような言葉を。
──だったら、これしかないでしょう!
「『そうやってひとりで悩んで勝手にひとりぼっちを選ぶとこ、アタシ嫌いだわ。悩むならアタシも混ぜなさい!』」
口にしたのは聖女ランギがハーウに投げた言葉。正確には『アタシとウェニアも混ぜなさい!』なのだけれど、さすがに猪野ひとりの現状では適さないので少しだけ改変させてもらった。
効果はてきめん。
「なぜ……なぜその台詞を? そんなものは書にも残されていないはず。人の口に語られるには、時間が経ち過ぎているというのに……」
目を大きく見開いたハーウの視線を真っ直ぐに受け止めて、猪野は笑う。
「書に残されてますが? まあ、この世界の言語ではありませんが」
ハーウの眉がぴくりと動く。彼の興味を完全に引き付けることに成功したらしい。
よーし、と猪野は水の中に浮かびながら座った。正しくは、座り姿勢をとった。
「では、さきに話しましょう。私が何者でなぜあなた方のことを知っているのか。あなたの話を聞くのはそれからにしようと思うのですが?」
「……良いだろう」
ハーウが言った途端、空気が変わった。いや、あたりを満たす水が姿を消したのだ。
代わりに現れたのはテーブルと二脚の椅子。白一色でありながら細かな彫刻の施された、洒落た一品だ。テーブルの上には湯気の立つカップと、茶菓子を乗せた皿まで置かれている。茶は明るく澄んだ赤色、茶菓子はおいしそうなきつね色だ。
突如として現れた椅子に腰掛けたハーウが、猪野に視線を寄越す。
「魔力で擬似的に作り出した物だ。奇跡と違い形作ることで完成しているから、触れても問題はない」
椅子やテーブルの上をまじまじ見つめていたのを躊躇していると取ったらしい。
──うーん、やっぱり基本的に優しい! そっけない態度を取りつつ初対面の私に配慮が行き届いている!
実物も推せるっ、とうれしくなりながら猪野は椅子に腰を下ろした。
「では遠慮なく!」
お茶のカップを持ち上げ口をつける。流れるように茶菓子もつまんで、ぽいと口の中へ。
もぐもぐもぐもぐ咀嚼する様にハーウが目を丸くしているが、食べながら口を開かないタイプなのでしばしお待ちいただいて。
ごっくん。
「さて、話しましょうか。と、その前に。長くなるかもしれないので、お茶のお代わりをポットでお願いできますか?」




