猪野は無力だがへこたれない
キャラ名を間違えてたので直しました!
落ちる落ちる、落ちていく。
──なんだっけ、これ。ああそうだ。アリスだ。不思議の国の。
人は慣れるものである。
足を踏み外した当初こそ驚いていた猪野だけれど、あんまりにも落ち続けるものだから、いまや腕組みをして考え続ける余裕が生まれていた。
──アリスを読んだのはいつだったかな。はじめて読んだのは絵本みたいなものだった気がする。長じて原書を訳した古い本を手に取って、ずいぶんな違いに驚いたっけ。
物語の中では落ちていくアリスは色々なものを見ていたけれど、猪野の視界に映るものはない。ただただ黒い世界が続いていくばかり。
落ちている、というのも猪野の感覚がそうとらえているだけで、実際に起きていることかどうかすら疑わしい。
現に飽きるほど落ち続けているのだから。
余裕、というより落ちる以外にすることのない猪野の脳は暇を持て余し、古い読書体験から過去を想起した。
──思えば、物語をまるっと信じ込む子どもだった。素直な良い子だと評判だったのもうなずける。
今も素直さを持った善良な人間である自覚はあるが、幼少期の猪野はさらに輪をかけて素直な子どもであった。
物語を読んでは魔法が存在すると信じ、映画を見てはスーパーヒーローがいると信じた。もちろん、ふれ合い広場で見つけた白うさぎは追いかけた。そして怒られた。
両親や周囲の大人はそんな猪野を微笑ましく見守ったのだろう。そのまま真っ直ぐな心を持ってすくすくと育った猪野だったが、二桁の年齢を迎える頃に転機が訪れた。
悪意が猪野を襲ったのだ。
それが物語の中のように明らかな悪から向けられたものであったならば、猪野は反抗しただろう。ハートの女王のように明らかな悪であれば、あるいはトランプの兵隊のように武器を向けてきたならば。
けれど現実における悪意は前触れなく、突然に降りかかってくるものだった。そのせいで避けることも、振り払うこともできなかった。
「ふらんちゃんてば漫画のキャラクターのつもり?」
昼休みの教室で高飛車に言ったのは、ツインテールを高く結った女の子なこちゃん。
腰に手を当て見下ろしてくる顔はしかめっ面。やけに大きな刺々しい声に、なごやかな教室の空気がぴりりと変わった。
「つもりって、なあに?」
心当たりのない猪野は、目を丸くして首をかしげる。
それを目にして、なこはますます眉を吊り上げた。
「それよ、そのわざとらしい首のかしげかた! 『なあに』だなんて喋り方、前はしてなかったじゃない」
それはそう。猪野は胸の内で同意する。
このごろの猪野の口調は間延びしたものになっていた。けれどわざとじゃない。
「ううん、そうだったかなあ? でもまほパリ見てたらこうなっちゃったんだよねえ。なこちゃんも好きでしょ、まほパリのルウン」
今期の魔法少女アニメのキャラクターの名を挙げたことに特別な意図はなかった。ずっと続く戦う魔法少女もののアニメで、誰もが知っているものだから。
なんなら幼稚園児のころ猪野は、なこと一緒に映画を見に行ったくらいなのだから。
当然、返ってくるのは「うん、好き」という言葉だと予想していた。
けれど、なこから返ったのは嘲笑。
「やだ、ほんとに? ふらんちゃんてばまだあんなの見てるの?」
「もう五年生なのに。しかもキャラの真似までしちゃうって〜」
「かなり痛いよね!」
周囲が追随し、猪野はあっという間に笑いの的へ。
取り囲む薄ら笑いの少女たちの向こう、クラスメイトたちの目が揺れていた。
揺れるのは猪野を心配する気持ちと、なこたちににらまれるのが怖い気持ち。
嫌な沈黙の中心に据えられて、並の子どもであったならうつむいて黙り込んだだろう。あるいは、泣き出してしまったかもしれない。
けれど猪野ふらんは、そんなやわな精神を持ち合わせていなかった。
──ああ、この子たちはもう素直な子どもでいられなくなっちゃったんだ。好きなものを好きっていうのが恥ずかしくなってしまったんだな。
合点して、猪野は笑う。
「見てるよ! 大好きだから。真似だってしちゃう。あんなふうにかっこよく、素敵に生きたいから!」
堂々と胸を張って答えたのは『好き』を否定したくなかったから。
まったく堪えた様子のない猪野になこは怯み、集団は黙り込んだ。少女たちは悪意を笑い飛ばされてなす術がなくなったのだ。
クラス内で何かが変わったわけではなかったけれど、それ以降、なこたちが誰かを強く否定するということも起こらなかった。
その時のことを猪野自身はたいして大きな出来事だとは思っていない。けれど、その時点から「好き」を前面に出していこうと決めた。
言えない誰かがいるなら、その代わりになるくらいに全力の思いを口に出していくと。
なので、猪野は現状に大変不満を抱いていた。
──だってせっかく憧れの世界に来たっていうのに、心躍る展開が少なすぎる!
そう、せっかく異世界に来たのだ。それも推し作品の世界に。現代が舞台の作品と違って、ファンタジー好きにはなかなかできるものではない聖地巡礼ができる、またとないチャンスのはずなのに。
「なーんかピンチばっかりでは? もっとこう、作中に出てきた食べ物を食べたりとか、登場人物の家のあったあたりを散策したりとか、この世界の衣装を身につけてキャッキャうふふと盛り上がったりできるはずでは?」
未だ落ち続ける黒いばかりの視界に猪野はぼやく。
食べ物に関しては、作中で明確な名前が出て来なかったので食べられていない。作者が隣にいたのだから聞ければ良かったのだが、なんだかんだとバタバタしていて暇がないまま今に至る。
登場人物の家については百年の歳月が邪魔をした。作者であるオウジも同じ街なのかどうか、判別がつかないと言っていた。
衣装についても、時の流れのなかで当時とは衣服の流行が変わっているのだろう。オウジの記憶にある衣装は見当たらないらしかった。
「まずもって、作者と聖地に足を踏み入れてる時点で満足すべき?」
いやしかし、と猪野は眉を寄せる。
「二度とはない機会だろうから、貪欲にならねば! 先生を助け出したあかつきには、聖女と勇者の像で満足せずに、賢者の逸話も探して歩くべきっ。この街ではなぜか名前を出すのも嫌がられちゃったけど、ぜったいどこかで語られてるはず。我らが賢者、ハーウについて!」
遠慮なしに声をあげ拳を握ったとき、猪野の視界が一変した。
突如としてきらめく水が現れたのだ。
どこまでも黒く塗りつぶされていたはずなのに、瞬く間もなくあたりは水に包まれる。
落ちていた猪野は、頭からどぷんと水に沈み込む。
──何事っ?
ただの水ではない。それ自体が光を放っているかのように青く、ときに緑に透き通りきらめいている。
落下が止まったことを喜ぶべきか、陸地の見えない水の中にいることを悲しむべきか。
悩む暇などなく、水の中の光がちらちらと走りはじめる。そうと気づいた猪野の目の前で光が凝り、形作ったのは人の姿。
その光がゆらめき、現れた人を見て猪野は目を見開いた。
「は……賢、者? ハーウ様……?」
そこにいたのはオウジの書いた小説『花紋咲く君たちとその先へ』の登場人物、ハーウだ。
当然、初対面である。異世界の人なのだから。
けれど猪野にはひと目でわかった。なぜって。
──挿絵のまんまだあ……!
感動のあまり、水の中にいることも忘れて口をぽかんと開けてしまうほど挿絵のままの人がそこにいたからだ。
さらりと流れる髪からやや吊り気味の目、そして神経質そうにひそめられた眉まで、すべて猪野の記憶にある挿絵の通りの人物が三次元になって猪野を見下ろしている。
猪野が逆さまになっているから見下ろされているように感じているだけかもしれないが。
「お前はなんだ。なぜ僕の名を知っている」
「わぁお……想像以上に想像通りの声ぇ……! 好きぃ……!」
不機嫌そうに言われて猪野は歓喜に打ち震えた。息を吐くように好意が言葉になる。それを受けてますますしかめられたハーウの顔にさえ「推しのしかめ面、最高ですが!?」と猪野は大興奮。
大きすぎる感情にむしろ無反応になってしまうほど。
「…………」
「…………」
互いに無言になった空間に、開いたままの猪野の口からこぼれた泡が登っていった。




