第33話:継承される『死んだ魚の目』
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1. 新しい風、変わらない熱
南城市の高台に新築された「あおぞら工房」は、以前のトタン屋根の建物とは見違えるほど立派になった。大きなガラス窓からは、中城湾の青い海が一望でき、海風がライ麦の香りを遠くまで運んでいく。
開発会社との交渉を勝ち抜いた補償金と、タクヤくんが呼びかけたクラウドファンディングの資金。それらが形になったこの場所で、私たちの新しい日常が始まっていた。
「……森下。今日から来る実習生、お前に任せるからな。俺は忙しい」
一ノ瀬さんは、最新式の全自動エスプレッソマシンで淹れたコーヒーを啜りながら、事務室の奥へと引っ込んでいった。「忙しい」と言いつつ、手元のスマホではパズルゲームの新作が軽快な音を立てている。
「えっ、私がですか? まだ早いんじゃ……」
「……何年ここにいると思ってんだ。……源に叩き込まれ、タクヤに裏切られ、ユウキの涙を拭いたお前なら、もう十分だろ」
一ノ瀬さんの言葉は、相変わらず突き放すようでいて、逃げ道を塞ぐほどに温かかった。
私は、源さんから譲り受けたあの白いコックシューズの紐をきつく結び直し、入り口のドアに向かった。
2. 鏡の中の「過去の自分」
「……失礼します。本日より一週間の実習をお願いしております、大学三年の佐藤です。よろしくお願いします!」
現れたのは、かつての私をさらに磨き上げたような、理想に燃える女子大生だった。
彼女の目はキラキラと輝き、手帳には「利用者の自己実現を支える」「一人ひとりに寄り添ったケア」といった、教科書通りの美しい言葉が並んでいた。
「森下さん、私、この工房の噂を聞いて感動したんです! 利用者が自ら立ち上がって居場所を守るなんて、まさに福祉の理想ですよね。私、ここで『救う喜び』を学びたいんです!」
彼女の言葉を聞いた瞬間、私の胃のあたりがチリリと焼けるような感覚に襲われた。
……救う、喜び。
それは、私がこの工房に来た初日に抱いていた、最も傲慢で、最も危険な毒だった。
実習が始まると、佐藤さんは案の定、利用者さんたちに過剰に「優しく」接し始めた。
計量に手こずるヒロくんに「私がやりましょうか?」と手を貸し、自信を失いかけているユウキくんに「あなたは素晴らしいんですよ!」と根拠のない賞賛を浴びせる。
「……佐藤さん。手を出さないで」
私は、努めて冷静に彼女を制止した。
「えっ? でも、ヒロさんが困っているように見えたので……」
「困っているのは、彼が自分で答えを見つけようとしている証拠よ。……あなたがその時間を奪ってどうするの? ……それは、あなたの『助けたい』というエゴを満たしているだけで、彼の成長を殺しているのよ」
私の言葉に、佐藤さんはショックを受けたように目を見開いた。
「……そんな。冷たいです、森下さん。……支援って、もっと温かいものじゃないんですか?」
その問いかけに、私は一瞬、言葉に詰まった。
かつて一ノ瀬さんに同じことを言った自分が、脳裏をよぎる。
3. 一ノ瀬の「死んだ魚の目」の正体
その日の夜。実習を終えた佐藤さんが泣きながら帰った後、私は事務室で一ノ瀬さんと向き合った。
「……一ノ瀬さん。私、さっき実習生に『冷たい』って言われました。……昔、私があなたに言ったことと、全く同じことを」
一ノ瀬さんは、スマホの画面を消し、ゆっくりと椅子を回した。
「……そうか。……おめでとう。……ようやくお前も、『死んだ魚の目』を手に入れたな」
一ノ瀬さんは、窓の外の暗い海を見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……森下。……『温かい支援』なんてのは、一瞬の麻薬だ。……相手の悲しみに共感し、一緒に泣き、手を引いてやる。……それは気持ちいいだろうよ。……でもな、相手が本当に一人で嵐の中を歩かなきゃならない時、隣で一緒に泣いてやる奴は、何の役にも立たねえんだ」
一ノ瀬さんの目が、かつてないほど鋭く私を射抜いた。
「……本当に相手を信じるってのはな、相手が地獄の底で泥を啜っている時でも、手を貸さずに、ただ横で見ていてやることだ。……『お前なら、そこから這い上がれる』と、黙って信じ続けることだ。……その時、支援者の目は、必然的に冷たくなる。……感情を殺し、ただの風景としてそこに居続ける。……それが、俺たちがたどり着いた『死んだ魚の目』の正体だ」
一ノ瀬さんの言葉が、ストンと胸に落ちた。
源さんが震える手でパンを焼いていた時、タクヤくんが嘘を吐いて逃げ出そうとした時、一ノ瀬さんはいつも「冷たく」見ていた。
けれど、その冷たさは、彼らの生命力を一滴も漏らさずに信じ抜くための、極限の「誠実さ」だったのだ。
「……相手の痛みを感じないんじゃない。……痛みを感じながら、それでも手を貸さない地獄に、自分も一緒に落ちるんだよ。……それが、プロの仕事だ」
私は、自分の目が今、どんな色をしているかを確かめるように、窓ガラスに映る自分を見つめた。
そこには、かつての理想に燃える少女ではなく、相手の絶望をそのまま受け止める覚悟を決めた、一人の「支援員」の顔があった。
4. 継承される沈黙
翌日、佐藤さんは目を腫らして工房に現れた。
彼女は、前日とは打って変わって静かだった。余計な手出しをせず、ただヒロくんの「三、二、窓」のリズムを、少し離れた場所からじっと見守っている。
ヒロくんが、何度も計量を間違える。
佐藤さんの指がピクリと動いたが、彼女はそれを自分の膝の上で強く握り締めた。
そして一時間後。
ヒロくんが、自分の手で、完璧な重さの生地を切り分けた。
「……できた」
ヒロくんの小さな呟きを聞いた瞬間、佐藤さんの目から涙がこぼれ落ちた。
けれど、彼女は駆け寄らなかった。
ただ、遠くから「……よかったです」と、震える声で呟いただけだった。
「……佐藤さん。……今の、忘れないでね」
私は彼女の隣に立ち、そっと肩を叩いた。
「……あなたが手を貸さなかったから、彼は『自分』を勝ち取ったの。……その喜びは、あなたが救ってあげた時の喜びよりも、ずっと深くて、重いはずよ」
佐藤さんは、何度も何度も頷いた。
彼女の目は、まだキラキラとはしていない。けれど、少しだけ濁り、深みを帯びたその瞳は、確実に一ノ瀬や私の「目」に近づいていた。
夕暮れ。
一ノ瀬さんが、事務室から出てきて、私の白いコックシューズを指差した。
「……森下。その靴、少し汚れたな」
「えっ? ……あ、本当だ。小麦粉と、少しだけ泥が」
「……それでいい。……真っ白なままの支援員なんて、信用できねえからな」
一ノ瀬さんは、初めて私に向かって、満足そうに短く笑った。
それは、彼が私のことを、対等な「相棒」として認めた瞬間だった。
第4章、第33話。
源さんから技術を、一ノ瀬から魂を。
私は、二人の巨人から受け取ったバトンを、今、自分の両手でしっかりと握り締めている。
「あおぞら工房」の窓からは、今日も、眩しいほどの青空が広がっている。
けれど、その青さは、かつての私が思っていたような単なる快晴ではない。
嵐も、闇も、絶望も、すべてを飲み込んだ上での、深くて、重い、本当の青空だ。
(第33話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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