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第32話:あおぞら工房、最大の危機

最終章になりました。

あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします


1. 鳴り響く電話、震える声

八月の午後の陽射しは、容赦なく工房のトタン屋根を焼いていた。

ユウキくんが、泣き腫らした目で、それでも少しだけ憑き物が落ちたような顔で生地を捏ね始めた、そんな矢先のことだった。


事務室の電話が、けたたましく鳴った。

一ノ瀬さんが受話器を取る。数秒の沈黙のあと、彼の背中が目に見えて硬直した。


「……ああ。……分かった。……勝手にしろ」


叩きつけるように受話器を置いた一ノ瀬さんは、事務室から出てくると、珍しくスマホをいじらず、そのまま壁を思い切り蹴り飛ばした。


「……一ノ瀬さん? どうしたんですか」

私の問いに、一ノ瀬さんは振り返らず、絞り出すような声で言った。


「……立ち退きだ。……この土地一帯を、リゾート開発の会社が買い取ったとよ。……オーナーも色を付けられて、あっさり売りやがった。……来月末までに、ここを空けろだとさ」


その言葉は、工房の熱気を一瞬で凍りつかせた。

立ち退き。

それは、私たちが血を吐くような思いで築き上げてきた、この「居場所」の消滅を意味していた。


2. 福祉という名の「脆弱さ」

「……移転先は? 他の物件を探せば……」

私が必死で食い下がると、一ノ瀬さんは自嘲気味に笑った。


「……森下。お前、世の中の仕組みを分かってねえな。……精神障害の就労施設を、快く受け入れてくれる大家がどこにいる? ……騒音、臭い、得体の知れない連中の出入り。……俺たちがどれだけ丁寧にパンを焼いても、外から見れば『迷惑施設』なんだよ」


一ノ瀬さんの言葉は、あまりにも残酷な現実を突きつけていた。

福祉施設は、常に社会の「善意」という細い糸の上で踊っている。その糸が一度切れれば、私たちはあっけなく奈落に落ちる。


ユウキくんは、麺棒を握ったまま震えていた。

「……せっかく。……せっかく、ここなら生きていけると思ったのに。……やっぱり、僕みたいな人間には、居場所なんてないんだ……」


ヒロくんは、いつもの「三、二、窓」の呟きを止め、窓の外を見つめていた。

「……窓。……閉まる。……青空、見えなくなる」


工房に、絶望という名の闇が広がっていく。

支援者である私自身も、その闇に呑み込まれそうになっていた。

私たちは、守られていたのだ。あおぞら工房という、一ノ瀬さんが必死で維持してきた「温室」の中に。


3. 立ち上がる「弱者」たち

翌日。一ノ瀬さんは、移転先が見つからないことを理由に、事業の休止……事実上の閉鎖……の準備を始めた。

事務室には段ボールが積み上げられ、利用者さんたちには他の施設への紹介状が渡されていく。


「……一ノ瀬さん! 諦めるのは早すぎます! まだ一ヶ月あるじゃないですか!」


「……現実を見ろ、森下。……俺のキャリアはここで終わりだ。……お前も、もっとまともな施設に移れ。紹介状は書いてやる」


一ノ瀬さんの瞳からは、かつての覇気が完全に消え、あの「死んだ魚の目」だけが冷たく横たわっていた。

しかし、その時だった。


「……嫌だ」


小さな、けれど凛とした声が工房に響いた。

声の主は、ヒロくんだった。

彼は、源さんの作業台の前に立ち、使い古されたクープナイフを握り締めていた。


「……ヒロ、お前……」


「……ここ、僕の。……源さんの、リズム。……ユウキの、涙。……全部、ここにある。……一ノ瀬、逃げるな。……パン、焼く。……僕たち、焼く」


ヒロくんが、一ノ瀬さんの目を真っ直ぐに見据えた。

視線を合わせることが苦手だった彼が、初めて、他者の魂に直接訴えかけていた。


「……そうです、一ノ瀬さん」

タクヤくんが……今は別の仕事に就いているはずの彼が、突然工房の扉を開けて入ってきた。彼の手には、一束の署名用紙が握られていた。


「……風の噂で聞きましたよ。……立ち退きなんて、ふざけんな。……僕、商店街の連中から署名を集めてきました。……『あおぞら工房のパンがなくなったら困る』って、みんな言ってますよ! ……僕を救ったこの場所を、今度は僕が守る番だ!」


タクヤくんの背後には、かつて源さんのパンを買っていた常連客や、近所のおばあちゃんたちも姿を見せていた。


さらに、ユウキくんが震える手で、一冊のファイルを差し出した。

「……一ノ瀬さん。……僕、昨日の夜、リゾート開発会社の登記と、この地域の条例を調べました。……開発計画には、地元住民との合意形成が不可欠です。……僕たち、戦えます。……僕の『嘘』の経歴で学んだ論理武装が、初めて誰かの役に立つかもしれません」


4. 逆転のパン、希望の香り

「……お前ら。……正気か?」


一ノ瀬さんは、呆然と利用者たちを見つめた。

支援する側と、支援される側。

その境界線が、今、完全に崩壊した。

彼らはもはや「助けられるだけの弱者」ではなかった。自分の居場所を、自分の意志で勝ち取ろうとする、一人の「自立した人間」としてそこに立っていた。


「……ハッ。……全くだ。……どいつもこいつも、出来の悪い教え子ばっかりだぜ」


一ノ瀬さんが、鼻で笑った。

けれど、その瞳には、かつてないほどの熱い光が灯っていた。

彼は、吸いかけのタバコを握り潰すと、私に向かって叫んだ。


「……森下! 材料を発注しろ! ……全粒粉、ライ麦、最高級のバターだ! ……立ち退き命令を撤回させるなんてケチなことは言わねえ。……この土地を、俺たちが買い取るくらいの気概を見せてやる!」


「……はい!!」


そこからの数日間、あおぞら工房は戦場になった。

タクヤくんはSNSで支援を呼びかけ、ユウキくんは緻密な事業計画書を作成し、行政への陳情を繰り返した。

そして、ヒロくんと私は、二十四時間体制で、これまでで最高のパンを焼き続けた。


「……くるみさん。……パンの匂いが、外まで届いてる」


ユウキくんが、窓を開けた。

工房から溢れ出した、香ばしくて力強いパンの香りが、反対運動に参加する地域住民たちを、そして開発会社の担当者たちの心を、少しずつ動かしていった。


福祉とは、誰かに与えられるものではない。

自分たちの手で、泥にまみれながら、それでも「ここで生きていく」という意志を形にすることなのだ。


一ヶ月後。

奇跡は起きた。

開発会社は、住民の強い反対と、ユウキくんが指摘した法的な不備を認め、計画の一部修正を余儀なくされた。

あおぞら工房は、別の敷地への「完全移転」の費用と、新しい工房の建設資金を、開発会社からの補償金として勝ち取ったのだ。


「……勝った。……俺たちの、勝ちだ」


一ノ瀬さんが、新しい工房の設計図を広げて呟いた。

そこには、源さんのためのメモリアルスペースと、ヒロくんが「三、二、窓」を続けられる、より大きな窓が描かれていた。


私は、窓の外の沖縄の空を見上げた。

最大の危機は、私たちに「本当の自立」とは何かを教えてくれた。

守られるばかりの子供は、もうここにはいない。


私たちは、自分たちの足で、新しいあおぞらの下へと歩き出す。


(第32話・了)

実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)

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