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第31話:鏡の向こうの『私』


あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします


1. 静寂のあとの余白

源さんが逝ってから、一ヶ月が過ぎた。

「あおぞら工房」に流れる空気は、以前よりもどこか透明度を増している。ヒロくんが丸めるパンの形は日ごとに洗練され、一ノ瀬さんの毒舌も、どこか季節の風物詩のような安定感を帯びていた。


私は、源さんから譲り受けたあの「白いコックシューズ」を履いて、毎朝工房の床を掃き清める。そのたびに、足の裏から源さんの頑固な意志が伝わってくるような気がして、自然と背筋が伸びた。


「……森下。今日から新しいのが入る。……準備はいいか」


一ノ瀬さんが、事務室からコーヒーの湯気を立てながら出てきた。その手には、新しい利用者のアセスメントシートが握られている。


「……はい。……どんな方ですか?」


「……名は、ユウキ。二十四歳。……高学歴、職歴あり。……だが、半年前に適応障害でドロップアウトした。……一見すると、非の打ち所のない『いい子』だ」


一ノ瀬さんの「いい子」という言葉には、明らかな棘が含まれていた。

私はシートに目を落とした。写真は、清潔感のある短髪の青年。履歴書には輝かしい経歴が並んでいる。けれど、その趣味の欄には何も書かれておらず、ただ「特になし」という文字が、空虚に横たわっていた。


「……彼が、どうしてうちへ?」


「……『自分には、何もない』と抜かしやがる。……全部、嘘で塗り固めて生きてきたから、自分が誰だか分からなくなったんだとさ。……お前、こういうタイプ、心当たりあるだろ?」


一ノ瀬さんの視線が、私の胸の奥を射抜いた。

……ああ、分かる。

かつての私だ。「誰かを救いたい」という正義感の裏側に、「誰かに必要とされたい」という空っぽな承認欲求を隠し持っていた、あの頃の私。


「……鏡の向こうの自分と、戦うことになるぞ、新人」


一ノ瀬さんは、不敵に笑って、入り口のドアを指差した。


2. 完璧な仮面、空虚な手

「……おはようございます。今日からお世話になります、ユウキです。よろしくお願いします」


現れたユウキくんは、驚くほど「完璧」だった。

服装は整い、言葉遣いは丁寧で、誰に対しても等間隔の、爽やかな笑顔を絶やさない。

彼は工房に入るなり、私の手から箒を奪うようにして掃除を代わり、ヒロくんの作業を熱心にメモし、一ノ瀬さんの指示を完璧にこなした。


「……森下さん、次は何をすればいいですか? 効率的な手順があれば、教えていただけると助かります」


ユウキくんは、私の目を見て微笑む。

けれど、その瞳の奥には、何の感情も宿っていなかった。

彼は、支援員である私を「攻略対象」として見ている。どう振る舞えば合格点がもらえるのか、どう笑えば「いい子」だと思われるのか。その計算の音だけが、工房の静寂の中で響いているように感じられた。


「……ユウキくん。効率も大事だけど、まずは粉を触ってみて。……パンは、理屈じゃなくて、指先で覚えるものだから」


私は、あえて彼に生地の計量を任せた。

ユウキくんは、指示通り、一グラムの狂いもなく正確に粉を量る。

けれど、その指先は、生地に対して何の慈しみも持っていなかった。

彼にとって、パン作りはただの「正解を出すためのタスク」に過ぎないのだ。


「……できました。これで正解ですよね?」


ユウキくんが、自信満々にボウルを差し出す。

私は、その「正解」という言葉に、胸が締め付けられるような違和感を覚えた。


「……正解かどうかは、焼き上がったパンが教えてくれるわよ。……でも、ユウキくん。……あなたは、今、楽しい?」


私が尋ねると、ユウキくんの完璧な笑顔が、一瞬だけピクリと歪んだ。

「……楽しい、ですか? ……はい。新しいことを学ぶのは、常に有意義です。……期待に応えられるよう、精一杯頑張ります」


期待、応える、有意義。

彼の口から出る言葉は、どれもどこかのビジネス書から引用してきたような、中身のない記号だった。

彼は、自分の心をどこか深い闇に沈めたまま、表面上の「私」だけを動かしている。


3. 一ノ瀬の「傷」と、鏡の亀裂

その日の夕方。ユウキくんが「完璧な一日の報告」を終えて帰宅した後、私は一ノ瀬さんと二人で事務室に残った。


「……一ノ瀬さん。彼、危ういですね。……あんなに笑っているのに、中身が全く見えない」


一ノ瀬さんは、珍しくスマホをいじらず、窓の外の暮れゆく沖縄の空を見つめていた。

「……ああ。……あれは、一番厄介な『嘘』だ。……他人を騙すための嘘じゃない。……自分を殺すための、嘘だ」


一ノ瀬さんの声が、かつてないほど重かった。

「……森下。俺が昔、佐々木を救えなかった話をしたな。……実は、佐々木が死ぬ直前、俺に言った言葉が、もう一つあるんだ」


私は、息を呑んで一ノ瀬さんの言葉を待った。


「……『一ノ瀬、お前は鏡だ。……お前のその完璧な支援は、俺の無様な老いを、より鮮明に映し出しちまう』……とな」


一ノ瀬さんは、苦いコーヒーを一口啜り、続けた。

「……俺も、昔はあいつ(ユウキ)と同じだった。……優秀で、熱心で、誰からも愛される若手支援員。……でもな、その『完璧さ』が、どん底にいる連中を絶望させることもあるんだ。……今のユウキは、鏡だ。……お前の、そして俺の、忌まわしい過去を映し出してるんだよ」


一ノ瀬さんの「傷」。

それは、単なる失敗体験ではない。

自分の「善意」が、相手を追い詰める「暴力」になり得るという、支援の現場が抱える、根源的な矛盾への自覚だった。


「……だから、お前が救え。……鏡を割るんじゃない。……鏡の向こう側にある、あいつの本当の悲鳴を、お前が聞き取ってやれ」


一ノ瀬さんは、私に一冊のファイルを渡した。

そこには、ユウキくんがかつて勤めていた会社での、凄絶なメンタルヘルスの記録が綴られていた。

「……あいつ、会社で一度も怒ったことがないんだとさ。……一度も、泣いたこともない。……そんな人間が、まともなパンを焼けると思うか?」


4. 決壊の夜

数日後。工房で、事件は起きた。


ユウキくんが担当していたクロワッサンの生地が、発酵中に過発酵で潰れてしまった。

原因は、彼が温度計の数値を読み間違えたという、彼らしくない単純なミスだった。


「……申し訳ありません。僕の不注意です。……すぐに廃棄して、新しいのを仕込みます。……これくらいの損失、僕が給料から差し引いていただいて構いません」


ユウキくんは、いつも通りの笑顔で謝罪した。

けれど、その声は微かに震え、額からは脂汗が流れている。

彼は、「失敗した自分」を許せず、自分を罰することで、この場を収めようとしていた。


「……ユウキくん。謝らなくていい。……ミスは誰にでもあるわ」


「……いいえ、ダメなんです。……完璧じゃない僕は、価値がないんです。……期待に応えられない僕は、ここにいる意味がないんです……!」


ユウキくんの声が、次第に大きくなる。

彼の「いい子」の仮面が、ボロボロと崩れ落ちていく。

「……僕は、何のために頑張ってきたんだ? ……いい成績を取って、いい会社に入って、みんなに『すごいね』って言われて……。でも、中身は空っぽだ! パンの一つも満足に焼けない! ……僕は、ゴミだ!!」


ユウキくんは、作業台に突っ伏して、獣のような声を上げて泣き始めた。

それは、彼が二十四年間、ずっと押し殺してきた、本当の「私」の産声だった。


私は、彼の隣に歩み寄り、汚れのない「白いコックシューズ」の足元で、静かに立ち止まった。

そして、彼がぶちまけた小麦粉まみれの床に、ゆっくりと膝をついた。


「……ユウキくん。……ようこそ。……『あおぞら工房』へ」


私は、彼の震える肩に手を置いた。

「……ここには、正解なんて一つもないわ。……源さんも、タクヤくんも、ヒロくんも……みんな、失敗して、泣いて、ここに来たの。……そして、その『ゴミ』みたいな自分を抱きしめて、それでもパンを焼いてるのよ」


ユウキくんは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、私を見た。

その瞳には、初めて、生身の人間の光が宿っていた。


「……僕。……僕、パン。……不味いパンしか、焼けない……」


「……いいじゃない。……世界で一番不味いパンを、一緒に焼きましょう。……そこからしか、始まらないから」


事務室の影で、一ノ瀬さんが静かに火をつけないタバコを咥えた。

その瞳には、鏡を乗り越えようとする、かつての自分たちの姿が重なっていた。


第4章、第31話。

物語は、本当の「自己受容」へと舵を切る。

鏡を割り、その破片で血を流しながら、私たちは「自分」という名の大地を踏みしめていく。


(第31話・了)

実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)

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