第30話:旅立ちと、あおぞらの下で
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1. 凪のあとの日常
源さんの四十九日が過ぎ、沖縄は本格的な夏の陽光に包まれていた。
工房の換気扇は、相変わらず重い音を立てて回っている。けれど、その音の中に混じっていた源さんの怒声や、彼が漂わせていた張り詰めた殺気は、もうどこにもない。
「……三、二、窓。三、二、窓」
ヒロくんは、いつもの定位置で生地を丸めている。
驚いたことに、ヒロくんの成形するパンの形は、以前よりもずっと、源さんのそれに似てきていた。生地を張らせる指の角度、手首の返し。言葉による指導を拒絶してきた自閉症の青年の中に、老職人の「遺志」が、細胞レベルで刻み込まれていた。
「……森下。ぼーっとすんな。焼き上がりの一分前だぞ」
事務室から一ノ瀬さんの声が飛ぶ。
私はハッとしてオーブンのタイマーに目をやった。
「すみません! すぐに見ます!」
一ノ瀬さんは、事務室のデスクに踏ん反り返りながら、相変わらずスマホのパズルゲームに興じている。
けれど、そのデスクの隅には、源さんの愛用していたあのボロボロのレシピノートが、まるで聖書のように大切に置かれていた。
銀座での「事件」の後、結局、一ノ瀬さんにお咎めが下ることはなかった。
源さんの息子さんが、「父は、最後の日が人生で一番幸せそうだったと、預けられたバゲットの味で確信しました」と、すべてを胸に収めてくれたからだ。
「……源さん。そっちは、涼しいですか?」
私は、オーブンの扉を開けながら、小さく呟いた。
2. 届いた「遺品」
その日の午後、工房に一通の小さな小包が届いた。
送り主は、源さんの息子さんだった。
中には、手紙と、一つの古びた木箱が入っていた。
「……くるみさん、開けて」
ヒロくんが、珍しく作業の手を止めて寄ってきた。
彼もまた、その箱から漂う「記憶の匂い」に気づいたのかもしれない。
箱の中には、一足の「真っ白なコックシューズ」が入っていた。
それは、源さんが銀座時代に予備として大切に保管していたものだろう。
そして、その靴の底には、マジックで大きく、不器用な字でこう書かれていた。
『小娘へ。……お前のパンは、まだ温すぎる。……だが、足元だけは、汚すなよ』
それは、源さんが認知症の霧に呑み込まれる直前、あるいは、あの一瞬の明晰な意識の中で書き残した、私への「遺言」だった。
「……足元を、汚すな」
私は、その言葉を何度も噛み締めた。
支援者として、相手の人生に土足で踏み込むな。
相手の尊厳を、自分のエゴで泥まみれにするな。
真っ白な靴で、真っ直ぐに、その人の隣に立ち続けろ。
私は、そのシューズを抱きしめた。
源さんは、私を「支援員」としてではなく、一人の「後輩の職人」として認めてくれていたのだ。
3. 一ノ瀬の沈黙と、くるみの確信
「……へっ、あいつらしいな。死んでからも小言かよ」
一ノ瀬さんが、いつの間にか私の背後に立っていた。
彼は、源さんの靴をじっと見つめ、それから私の頭を乱暴に撫でた。
「……一ノ瀬さん。私、やっと分かった気がします。……福祉って、誰かを救う魔法じゃないんですね。……その人が、その人として、この『あおぞら』の下で、最後まで生きていけるように、ただ、居場所を掃き清めて待っていることなんですね」
「……気づくのが遅えよ、新人。……だが、合格だ」
一ノ瀬さんは、私の横を通り過ぎ、工房の大きな窓を開け放った。
沖縄の、青すぎるほどの空が、工房の隅々までを照らし出す。
「……ヒロ。源のパン、焼くか」
「……うん。……三、二、窓。……ライ麦、入れる」
ヒロくんと一ノ瀬さんが、並んで作業台に立つ。
かつては、一ノ瀬さんの「冷たさ」に怯えていた私だったけれど、今は分かる。
彼の「死んだ魚の目」は、誰よりも深く、利用者の魂を見守ってきた証なのだ。
私たちは、三人でパンを焼いた。
源さんが遺した、あのライ麦パンの香りが、工房を満たしていく。
それは、喪失の香りではなく、継承の香り。
誰かがいなくなっても、その想いは、焼き立てのパンのように、また新しい誰かの血肉となっていく。
4. 第3章の終わり、そして
夕暮れ。
工房の片付けを終えた私は、源さんから譲り受けたコックシューズを履いて、工房の床を歩いてみた。
少しだけサイズは大きいけれど、不思議と地面が近く感じられた。
「……よし。……明日も、焼こう」
私は、窓の外の夕焼けを見上げた。
源さんが逝き、タクヤくんが自立し、ヒロくんが成長していく。
「あおぞら工房」という名のこの場所は、絶え間なく変化し、絶え間なく新しい生命を育んでいる。
その時、一ノ瀬さんが事務室の電話を切って、厳しい顔で出てきた。
「……森下。第4章の始まりだ」
「……え? 何かあったんですか?」
「……新しい利用者の申し込みだ。……今度は、もっと厄介だぞ。……自分の人生を全部『嘘』で塗り固めて、誰にも心を開かない、若者だ」
一ノ瀬さんの目は、再び、あの鋭い「戦士の目」に戻っていた。
私は、源さんの靴を履いた足で、力強く一歩を踏み出した。
「……望むところです。……私たちのパンを、食べてもらいましょう」
第3章・完。
喪失は、絶望ではなかった。
それは、私たちが「あおぞら」の下で生きていくための、強靭な根っこになったのだ。
物語は、いよいよ最終章、第4章へと突入する。
私はもう、迷わない。
この真っ白な靴で、どんな泥濘も、共に歩いていく。
(第3章・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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