第29話:黄金のパン
あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします
1. 帰還、そして沈黙
銀座の夜明けは、冷たくて白かった。
一ノ瀬さんの車の後部座席で、源さんは深く、あまりにも深く眠りについていた。その膝の上には、まだ微かな温もりを残した一本のバゲットが、茶色の紙袋に包まれて置かれている。
沖縄に戻る機内でも、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。
一ノ瀬さんの横顔は、彫刻のように硬く、その瞳は見たこともないほど澄んでいた。彼は、源さんの遺体……いや、あえて「源さん」と呼ぼう……を家族の元へと送り届ける手続きを、事務的に、けれど誰よりも丁寧に済ませた。
「……森下。工房に戻るぞ」
那覇空港に降り立ち、湿り気を帯びた沖縄の空気を吸った時、一ノ瀬さんがようやく口を開いた。
「……源さんは、もういません。……一ノ瀬さん、私たちは、これからどうすればいいんですか。……あんな勝手なことをして、いつ警察が来てもおかしくないのに」
私は、自分の手が震えていることに気づいた。
恐怖ではない。源さんの最期の輝きを目撃してしまったことへの、畏怖に近い感情だ。
一ノ瀬さんは、車のハンドルを握り、前だけを見つめて言った。
「……警察が来たら、俺が全部被る。……お前は何も知らなかったことにしろ。……だがな、森下。……あいつが遺したもんを、腐らせるなよ」
一ノ瀬さんは、ダッシュボードに置かれた、あの「最後の一本」を指差した。
2. 遺された香りと、少年の涙
あおぞら工房に戻ると、いつもと変わらない「三、二、窓」の呟きが聞こえてきた。
ヒロくんが、一人で窓の外を眺めている。
けれど、彼が源さんの作業台を通り過ぎようとした時、その足がピタリと止まった。
「……じいじ。……いない。……パン、いない」
ヒロくんの声は、感情を押し殺したような、奇妙な平坦さを持っていた。
自閉症の彼が、死という概念をどう理解しているのかは分からない。
けれど、彼は源さんの愛用していたクープナイフを指先でなぞり、それから自分の胸を強く叩いた。
「……ここ。……リズム、止まった。……じいじの、リズム」
私は堪らず、ヒロくんの肩を抱き寄せた。
「……ヒロくん。源さんはね、銀座に帰ったんだよ。……最高のパンを焼いて、満足して、眠りについたんだ」
私は、バッグからあの紙袋を取り出し、作業台の上に置いた。
袋を開けた瞬間、工房全体に、暴力的なほど豊かな小麦の香りが広がった。
それは、銀座の老舗のプライドと、一人の男の執念が結晶化した、黄金色の香り。
「……わあ。……すごい。……光ってる」
他の利用者さんたちも、集まってきた。
みんな、源さんに怒鳴られたこと、怖かったことを忘れたわけではない。
けれど、目の前にあるその一本のパンが放つ圧倒的な「生命の輝き」に、誰もが言葉を失っていた。
一ノ瀬さんが、事務室から一本のパン切り包丁を持ってきた。
「……食え。……源の、最後のご奉公だ。……こいつを食って、あいつの魂を自分の中にブチ込め」
一ノ瀬さんは、バゲットを一切れずつ、丁寧に、けれど無造作に切り分けた。
パチパチ、と皮が弾ける音がする。
それは、源さんの心臓の鼓動の続きのように、私の耳に響いた。
3. 黄金の味、血肉となる記憶
私は、震える手でその一切れを口に運んだ。
バリッ、と力強い皮の食感。
それから、驚くほどしなやかで、甘みの強い中身の弾力。
ライ麦の酸味と、小麦の香ばしさが、口の中で複雑に絡み合い、喉を通り抜ける瞬間に、温かい何かが胸の奥に落ちていくのを感じた。
「……美味しい。……源さん、こんなに美味しいパンを……」
涙が、止まらなかった。
それは悲しみの涙ではなく、一人の人間が、その生涯をかけて磨き上げた「美しさ」に触れたことへの、歓喜に近い涙だった。
ヒロくんも、一口食べた。
彼は目を閉じ、何度も何度も、噛み締めるように咀嚼した。
「……三、二、窓。……三、二、窓。……じいじ、生きてる。……僕の中に、リズム、入ってきた」
ヒロくんの瞳には、源さんから託された「バトン」が、しっかりと宿っていた。
職人の死は、終わりではない。
その技術、そのこだわり、その生き様は、こうして誰かの血肉となり、永遠に継承されていくのだ。
一ノ瀬さんは、最後の一片を口に放り込み、窓の外の沖縄の青い空を見上げた。
「……不味かねえよ。……源。……お前の勝ちだ。……完敗だよ」
一ノ瀬さんの目には、涙はなかった。
けれど、その背中は、かつて師匠を救えなかった後悔から、ようやく解放された男の、晴れやかな軽やかさを纏っていた。
4. 黄金色の継承
夕暮れ。工房の片付けを終えた私は、源さんのレシピノートを一ノ瀬さんに手渡した。
「……一ノ瀬さん。これ、どうしますか?」
一ノ瀬さんはノートをパラパラとめくり、源さんの走り書きの横に、自分の万年筆で何かを書き込んだ。
「……工房の家宝だ。……これからは、新人が入ってくるたびに、こいつを読ませて、源の悪口を聞かせてやるんだ」
一ノ瀬さんはノートを閉じ、事務室の鍵をかけた。
「……森下。明日から、また新しいパンを焼くぞ。……源がいない分、お前の仕事は二倍だ。……覚悟しとけよ」
「……はい。……喜んで」
私は、自分の掌を見た。
昨日、源さんの背中を支えた時の、あの熱い感覚がまだ残っている。
支援員として、私ができること。
それは、誰かを救うことでも、誰かを変えることでもない。
その人がその人らしく、最期まで光り輝くための「舞台」を、泥まみれになって守り続けることなのだ。
窓の外では、夕焼けが工房の床を黄金色に染めていた。
それは、源さんが焼き上げたパンの色と同じ。
そして、これから私たちが焼き続けていくパンの色と同じ。
第3章、第29話。
喪失は、絶望ではなかった。
それは、新しい生命を育むための、豊かな土壌になったのだ。
(第29話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
↓下記の評価ボタンをいただけると嬉しいです。よろしくお願いします




