第34話:あおぞらの下で、また会おう
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1. 旅立ちの季節、それぞれの背中
三月。沖縄の空は、一足早く初夏の気配を孕んだ濃い青に染まっていた。新設された「あおぞら工房」のテラスからは、中城湾の穏やかな海面が、銀細工のようにキラキラと輝いている。
今日は、ユウキくんの卒業の日だった。
半年間、自分の「空虚」と戦い続けた彼は、あおぞら工房での経験を武器に、今度は「ひきこもり支援」を行うNPO法人の事務局員として採用が決まったのだ。
「……森下さん。僕、以前の会社にいた時よりも、ずっと不器用になりました」
ユウキくんは、荷物をまとめた紙袋を手に、苦笑いしながら言った。
「……効率も悪いし、すぐ悩むし。……でも、今の自分の方が、ずっと好きです」
かつての完璧な「いい子」の仮面は、もうどこにもない。
今の彼の瞳には、迷いながらも自分の足で地面を踏みしめる、生身の青年の熱が宿っていた。
「……それでいいのよ。……不器用な支援員の方が、相手の痛みに敏感になれるから」
私は、ユウキくんの背中を力強く叩いた。
彼は深々と頭を下げ、それから事務室で相変わらずスマホをいじっている一ノ瀬さんの方を向いた。
「……一ノ瀬さん。ありがとうございました。……僕、またいつか、ここのパンを食べに来ます」
一ノ瀬さんは、スマホから目を離さず、鼻で笑った。
「……ふん。……うちのパンは高いぞ。……しっかり稼いでこい、ボケナス」
一ノ瀬さんなりの、最大級のはなむけだ。
ユウキくんは満足そうに微笑み、春の陽光が降り注ぐ坂道を、一度も振り返らずに下っていった。
2. 「死んだ魚の目」の先に
ユウキくんを見送ったあと、私は工房のテラスに立ち、大きく深呼吸をした。
隣には、ヒロくんが並んでいた。
彼は、源さんの形見のクープナイフを大切そうに腰のポーチに差し、遠くの水平線をじっと見つめている。
「……くるみさん。……海、青い。……源さんの、パンの色」
「……そうね。……あおぞらの下で、みんな繋がってるわね」
ヒロくんは、今や工房のエースだ。
彼が刻む「三、二、窓」のリズムは、新しく入ってきた利用者さんたちの安心の拠り所になっている。
源さんから引き継いだ技術は、ヒロくんという触媒を通して、新しい命へと確実に伝播していた。
「……森下。お前、いつまで黄昏れてんだ」
一ノ瀬さんが、背後から声をかけてきた。
彼の手には、一通の手紙があった。
「……タクヤからだ。……あいつ、営業成績がトップになったとよ。……近いうちに、結婚するんだとさ。……相手は、パンが好きな、普通の女の子だそうだ」
手紙には、タクヤくんらしい、少し乱暴で、けれど真っ直ぐな感謝の言葉が綴られていた。
かつて「嘘」で自分を塗り固め、逃げ回っていた少年は、今や誰かを守るための「本当の言葉」を手に入れていた。
「……みんな、行ってしまいましたね」
私が少し寂しげに言うと、一ノ瀬さんは私の隣に立ち、同じ海を眺めた。
「……それでいいんだ。……ここは、終着駅じゃねえ。……ボロボロになった奴が、もう一度歩き出すための、ただの『中継地点』だ。……俺たちの仕事はな、あいつらが振り返らずに行っちまうのを、寂しく笑って見送ることなんだよ」
一ノ瀬さんの横顔。
かつて「冷徹だ」と思っていた彼の「死んだ魚の目」は、今は、世界のすべてを肯定するような、深い慈愛に満ちて見えた。
3. 源さんのライ麦パン、最後のピース
「……あ、一ノ瀬さん。……一つだけ、ずっと聞きたかったことがあるんです」
「……あ? 何だよ、藪から棒に」
「……源さんの最期のあの日。……一ノ瀬さん、どうしてあんな『賭け』に出たんですか? ……一歩間違えれば、あなたはすべてを失っていたはずなのに」
一ノ瀬さんは、しばらく沈黙した。
海風が、彼の少し白髪の混じった髪を揺らす。
「……森下。……俺はな、佐々木が死んだ夜、自分を許せなかった。……『正しい支援』という名の安全圏から、あいつの苦しみを見て見ぬふりをした自分をな」
一ノ瀬さんは、ポケットから火をつけていないタバコを取り出し、唇に挟んだ。
「……だから、源の時だけは、俺自身が『当事者』になりたかったんだ。……支援者なんて肩書きを捨てて、あいつの人生の共犯者になりたかった。……あいつが地獄に落ちるなら、俺も一緒に落ちてやる。……それが、俺がたどり着いた、たった一つの『寄り添い』の形だったんだよ」
一ノ瀬さんの告白は、私の胸に深く突き刺さった。
支援とは、一方的に手を差し伸べることではない。
相手の「生」という名の荒波に、自分も一緒に飛び込み、共に溺れ、共に抗うこと。
その覚悟こそが、源さんを、タクヤくんを、ユウキくんを救ったのだ。
「……一ノ瀬さん。……私、あなたの下で働けて、本当によかったです」
「……お世辞はいい。……給料分は働けよ、新人」
一ノ瀬さんは照れ隠しに背を向けたが、その耳の端が少しだけ赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
4. あおぞらの下で、また会おう
翌朝。
私は、いつものように誰よりも早く工房に来た。
源さんから譲り受けた白いコックシューズ。
幾度もの嵐を越え、今では小麦粉と汗が染み込み、私の足に完璧に馴染んでいる。
私は、工房のシャッターを力強く押し上げた。
朝一番の光が、新調された作業台を照らし出す。
「……よし。……やるわよ」
私は、一人で粉を振るい始めた。
ライ麦の香ばしい香りが、静かな工房に立ち込める。
やがて、ヒロくんが来て、一ノ瀬さんが来て、新しい利用者さんたちがやってくる。
今日もまた、失敗し、泣き、笑い、そしてパンを焼く一日が始まる。
ふと、入り口の扉の方を見た。
そこには、かつての私のように、不安と期待を胸に抱いた新しい実習生が立っていた。
「……おはようございます! 今日から実習でお世話になります!」
私は、その眩しすぎるほどの瞳を見つめ、少しだけ「冷たい」……けれど、限りなく温かい微笑みを浮かべた。
「……おはよう。……歓迎するわ。……ここは、あなたが思っているほど綺麗な場所じゃないけれど。……世界で一番、本当の自分に出会える場所よ」
私は、彼女を迎え入れ、作業台を指差した。
「……さあ、エプロンを締めて。……パンを焼きましょう」
窓の外には、どこまでも、どこまでも続く、深い青空。
かつて源さんが愛し、一ノ瀬が守り、私が受け継いだ、沖縄の空。
その下で、私たちは今日も、明日も、誰かのための「命の糧」を焼き続ける。
たとえ、いつか別れが来ても。
たとえ、記憶が消えてしまっても。
このパンの香りが、この空の青さが、私たちがここで共に生きた証拠だ。
(……源さん。見ていてくださいね。……あなたのパンは、今、最高にいい匂いがしていますよ)
私は、心の中で空に向かって呟いた。
そして、力強く、最初の一歩を踏み出した。
あおぞらの下で、私たちはまた、何度でも出会い直す。
この不器用で、残酷で、けれど愛おしい、支援という名の物語の中で。
(第34話・最終回・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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