第23話:一ノ瀬の過去と『老い』の解釈
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1. 嵐のあとの静寂
源さんがパニックを起こし、工房を壊して眠りについた日の夜。
窓の外では、梅雨特有の湿った風が、街路樹のガジュマルをざわつかせていた。事務室の空気は、古い紙とコーヒーの焦げた匂いが混ざり合い、重く沈んでいる。
私は、散らばった小麦粉の最後の一粒を拭き取り、一ノ瀬さんのデスクの前に立った。
「……一ノ瀬さん。源さん、あんなに泣くなんて。……私、どうしていいか、本当に分からなくなりました」
一ノ瀬さんは、椅子をギシリと鳴らして背もたれに体を預けた。手元には、いつものスマホではなく、一冊の古びた手帳がある。表紙は擦り切れ、何度もめくられた跡があった。
「……森下。お前は、『老い』を何だと思ってる」
唐突な問いに、私は言葉を詰まらせた。
「え……、それは、体が不自由になったり、物忘れが増えたり……。でも、それを受け入れて、穏やかに過ごしていくものだと……」
「穏やか、か。……めでてえな」
一ノ瀬さんは、鼻で笑った。その笑みには、自嘲と、深い諦念が混じっていた。
「老いってのはな、自分を構成していたピースが、毎日ひとつずつ、強制的に剥がされていく過程だ。昨日まで持っていた『自分』という確信が、朝起きるたびに砂のように指の間からこぼれ落ちていく。……それは穏やかな変化じゃねえ。……音のしない、絶え間ない『拷問』なんだよ」
2. かつての師、そして「喪失」の原点
一ノ瀬さんは、手帳をパラパラとめくり、一枚のセピア色の写真を取り出した。
そこには、若き日の一ノ瀬さんと、初老の男性が写っていた。男性は厳格そうな表情をしながらも、その瞳には慈愛が宿っている。
「……俺の師匠だ。この業界のイロハを叩き込んでくれた、伝説のケースワーカーだよ。名は、佐々木。……あいつはな、お前以上にお節介で、お前以上に『救いたい』という業の深い男だった」
一ノ瀬さんの声が、少しだけ低くなった。
「だがある日、佐々木は認知症を発症した。……最初は些細な物忘れだった。それが、次第に担当していた利用者の名前を忘れ、制度を忘れ……。ついには、自分が何十年も捧げてきた『福祉』そのものを忘れていった」
私は、息を呑んだ。
「……佐々木さんは、どうなったんですか?」
「……悲惨だったよ。あいつは自分のプライドを守るために、周囲に嘘を吐き、ミスを隠し、最後には同僚に暴力を振るった。……今の源と同じだ。自分が自分でなくなる恐怖に耐えられず、怪物になったんだ」
一ノ瀬さんは、写真を机に置いた。
「俺は若かった。……あいつを『救おう』とした。優しく声をかけ、できないことを代わりに見つけ、笑顔で寄り添った。……でもな、森下。それが一番、あいつを追い詰めたんだ」
「え……?」
「俺が優しくすればするほど、佐々木は自分の『無能』を突きつけられた。……『かつての教え子に哀れまれている自分』という現実に、あいつのプライドはズタズタになった。……最後の日、佐々木は俺に向かってこう言ったよ。『一ノ瀬、お前のその優しさが、俺を殺すんだ』とな」
一ノ瀬さんの指が、写真の端を強く押さえた。
「その翌日、佐々木は施設を飛び出し、夜の道で迷子になって、そのまま心不全で死んだ。……俺は、あいつの尊厳を救ったんじゃない。……あいつから、最後に残っていた『自分で在るための苦しみ』さえも奪っちまったんだ」
3. 「老い」という戦いへの敬意
事務室に、重苦しい沈黙が流れた。
一ノ瀬さんが源さんに対して、なぜあそこまで突き放すような態度を取るのか。
それは冷酷さからではなく、相手が抱えている「絶望」という名の聖域を、安っぽい同情で汚さないための、彼なりの「敬意」だったのだ。
「……森下。老いとは、できることが減ることじゃない。……『できない自分』をどう許し、どう折り合いをつけていくかという、人生最後の、そして最も過酷な戦いだ」
一ノ瀬さんは、窓の外の闇を見つめた。
「源は今、リングの上で、目に見えない『時間』という怪物と殴り合ってる。……横からタオルを投げるのは簡単だ。でも、あいつはまだ、タオルを投げられたがっちゃいねえ。……あいつが『職人』として死にたいと願うなら、俺たちは最後まで、あいつに血を流させなきゃならねえんだ」
「……血を、流させる……」
「そうだ。失敗させろ。恥をかかせろ。……記憶が消えても、指先が勝手に動く。その一瞬の『奇跡』を信じて、あいつを地獄の底まで付き合え。……それが、老人福祉の、唯一の誠実さだ」
私は、自分の胸に手を当てた。
第2章で、私はタクヤくんの「自立」を信じた。
けれど、源さんの「老い」に対しては、心のどこかで「もう終わり」だと決めつけていたのではないか。
「優しくする」という行為の裏側に、相手を「もう先のない弱者」と見做す傲慢さが隠れていなかっただろうか。
「……一ノ瀬さん。私、間違ってました」
私は、深く頭を下げた。
「源さんのプライドを傷つけないように、先回りして手助けするのは、彼を『もう終わった人』扱いすることと同じだったんですね」
「……気づくのが遅えよ、新人」
一ノ瀬さんは、ようやくタバコを口から外し、深い溜息を吐いた。
「……源は、明日もまた忘れる。明日もまた怒鳴る。……でも、あいつの魂はまだ死んじゃいねえ。……あいつがパンを焼く理由。……それを、お前が見つけてやれ。……技術じゃねえ、あいつが最後に何を掴もうとしているのかをな」
4. 暗闇の中の灯火
私は事務室を出て、源さんが眠る静かな部屋の扉を、そっと開けた。
源さんは、小さく丸まって眠っていた。
昼間の荒々しさは消え、月明かりに照らされたその顔は、ただの、年老いた一人の男だった。
その枕元に、一冊のノートが置かれている。
昼間、源さんが放り出した、ボロボロのレシピノートだ。
私はそれを手に取り、ページをめくった。
そこには、緻密な計算式や、パンの断面図、そして……。
「妻へ。今日のは少し塩が強かったか」
「三回目。焼き色はいいが、香りが足りない。……あいつの笑顔が見たい」
……そんな、不器用な走り書きが、数十年分も記されていた。
彼がパンを焼き続けてきた理由。
それは「神の手」の栄光のためだけではない。
誰かのために、たった一人の大切な人のために、最高の一本を届けたいという、あまりにも純粋で、あまりにも孤独な「祈り」だったのだ。
(……源さん。あなたは、まだ負けていない)
私はノートをそっと戻し、静かに扉を閉めた。
一ノ瀬さんの過去。佐々木さんという人の悲劇。
そして、目の前で崩れゆく源さんの誇り。
それらすべてが、重い鎖のように私の心に絡みつく。
けれど、その鎖は、冷たい絶望ではなく、相手の人生を最後まで見届けるという「覚悟」の重みだった。
「……一ノ瀬さん。明日、源さんに言います」
私は、事務室に戻り、帰り支度をしながら告げた。
「『美味しいパンを焼いてください』じゃなくて、……『私に、あなたのパンを教えてください』って」
一ノ瀬さんは、答えなかった。
ただ、スマホのパズルゲームの連鎖音が、静かな夜の工房に小さく響いていた。
それは、新しい戦いへの合図のように、私には聞こえた。
第3章、第23話。
私たちは、美しき絶望の中を、また一歩踏み出す。
(第23話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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