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第22話:消えゆく技術


あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします

1. 完璧主義の亀裂

「……チッ、秤が狂ってる。一ノ瀬、新しいのを寄こせ」


月曜日の朝。工房に源さんの怒声が響くのは、もはや日常の風景になりつつあった。

源さんは、あおぞら工房の標準的なデジタルスケールを忌々しげに睨みつけ、何度もリセットボタンを叩いている。


「源さん、それは先週校正したばかりですよ。狂ってないはずです」

私が横から声をかけると、源さんは般若のような形相で振り返った。

「小娘、プロの勘を舐めるな。粉を触れば、数グラムの狂いなど指先が教えてくれる。この機械は嘘をついている。……あるいは、お前たちが私を嵌めようとしているのか?」


その被害妄想に近い言葉に、私は息を呑んだ。

認知機能の低下は、記憶を奪うだけでなく、性格をも尖らせていく。かつて緻密で正確だった職人の矜持が、今は周囲を攻撃するための刃に変わっていた。


一ノ瀬さんは事務室の奥で、スマホをいじりながら生返事をした。

「……源、機械が壊れてるんじゃねえ。お前の指が、砂を掴んでるだけだ。認めろよ、もうお前の『黄金比』は脳みそから消えてる」


「黙れ! 死人野郎が!!」


源さんは、計量カップを叩きつけるように置いた。

その手は、隠そうとしても隠しきれないほど大きく震えている。彼はその震えを誤魔化すように、乱暴に強力粉をボウルに投げ入れた。


2. 暗転する「黄金の工程」

「……くるみさん、源さん、怖い。パンが、泣いてる」


ヒロくんが、私の袖を小さく引いた。

彼の言う通りだった。源さんの捏ね(こね)は、かつての滑らかさを失っていた。

生地を台に叩きつける音は不規則で、力任せだ。本来、パン作りは生地との対話であるはずなのに、今の源さんは生地を「敵」としてねじ伏せようとしているように見えた。


「……あ、あれ」


成形の工程に入った時だった。

源さんの手が、ピタリと止まった。

ベンチタイムを終えた生地を前に、彼は呆然と立ち尽くしている。

「……次は、どうするんだっけか。……丸めるのか、伸ばすのか。……いや、私はさっき、塩を入れたか?」


一瞬の空白。

プロとして数十年、何万回と繰り返してきたはずのルーチンが、彼の頭の中から忽然と消えたのだ。

源さんの顔から、急速に色が失われていく。


「……源さん、次は成形ですよ。三つ折りにして、くるくるって巻くんです。私がやりましょうか?」


私が良かれと思って手を伸ばした、その瞬間。


「……触るなああああ!!」


源さんは、悲鳴のような絶叫とともに、私の手を強く振り払った。

その勢いで、作業台の上にあった麺棒が床に転がり、高い音を立てて跳ねた。

「……分かっている! 私に教えるな! 私は佐藤源三だ! 銀座の、佐藤だぞ!」


彼は、ぐちゃぐちゃになった生地を素手で引き裂き始めた。

「……塩だ。塩が足りない。……いや、イーストか? なぜ膨らまない! なぜ私に逆らうんだ!!」


パニックを起こした源さんは、オーブンの天板をなぎ倒し、工房の中を荒らし始めた。

他の利用者さんたちが悲鳴を上げ、隅に固まる。ヒロくんは耳を塞ぎ、激しく体を揺らし始めた。


「源さん、落ち着いて! 危ないです!」

私は彼を止めようとしたが、今の源さんは自尊心を傷つけられた負傷した獣だった。

彼は、自分が焼き損じた、石のように硬いパンの塊を掴むと、それを壁に向かって思い切り投げつけた。


「……こんなもの、パンじゃない! ゴミだ! 私はゴミを作っているのか!」


3. 一ノ瀬の鉄槌と慈悲

「……そこまでだ。老いぼれ」


一ノ瀬さんが、冷徹な声とともに、源さんの両腕を背後からガッチリと固めた。

暴れる源さんを、一ノ瀬さんは無造作に事務室のソファへと押し込んだ。


「……離せ! 一ノ瀬、貴様、職人に対する敬意というものがないのか!」

「敬意? ……お前が今やってるのは、職人の仕事じゃねえ。ただの子供の癇癪だ。……見ろ、お前のせいで、あいつらがどんな顔をしてるか」


一ノ瀬さんが指差した先には、震えているヒロくんや、涙を浮かべて立ち尽くす私がいた。

源さんは、ハッとしたように周囲を見渡し、それから自分の掌を見つめた。

粉にまみれ、血管が浮き出た、衰えた手。


「……私は。……私は、何を」


源さんの瞳から、毒が抜けていった。

代わりに溢れ出したのは、底知れない「空虚」だった。

「……一ノ瀬。……私は、もう、パンを焼けないのか。……昨日のことが、思い出せんのだ。……さっきまで手に持っていた感覚が、霧のように消えていくんだ……」


源さんは、子供のように声を上げて泣き始めた。

ソファに突っ伏し、肩を震わせるその姿は、かつての「神の手」の面影など微塵もない、ただの弱り切った老人だった。


「……森下。利用者たちを外へ出せ。今日はもう閉めだ」

一ノ瀬さんの声は、驚くほど静かだった。

「源、……お前が失っているのは技術じゃねえ。……『自分はもう、かつての自分ではない』という現実を受け入れる、勇気だ」


一ノ瀬さんは、泣き続ける源さんの背中に、乱暴にタオルケットを投げかけた。

「……失うことを怖がるな。……空っぽになった手にしか、新しく掴めるもんはねえんだよ」


4. 寄り添うことの絶望

私は、壊れた工房を一人で片付けた。

床に散らばった粉、踏みつけられた生地、壁に当たって砕けたパンの破片。

それを拾い集めながら、私は自分の無力さに打ちひしがれていた。


(……私は、何をしていたんだろう)


源さんのプライドを傷つけまいとして、私は彼が「できない」ことを直視させないように、先回りして誤魔化そうとしていた。それは、第2章でタクヤくんにやっていたことと同じ、あるいはそれ以上に残酷な「甘やかし」だったのではないか。


老いゆく人にとって、技術を失うことは、命を削られることに等しい。

それを「私が代わりましょうか」という言葉で片付けようとした私の浅はかさが、彼を怪物に変えてしまったのだ。


「……一ノ瀬さん。私、どうすればいいか分かりません」

片付けを終え、事務室の入り口で立ち尽くす私に、一ノ瀬さんはタバコを咥えたまま(火はつけていない)言った。


「……森下。お前にできることは、一つだけだ。……源が、自分の『無能』を抱きしめて、それでもパンを焼きたいと願うまで、隣で絶望し続けてやることだ」


「絶望し続ける……?」


「希望なんて安っぽい言葉を使うな。……あいつは、死ぬまで良くなることはねえ。記憶は消え、技術は錆びていく。……その地獄の坂道を、一緒に転げ落ちてやるのが、老人福祉の正体だよ」


一ノ瀬さんは、窓の外の暮れゆく空を見上げた。

「……いいか。あいつが『銀座の佐藤』を捨てて、『あおぞら工房の源さん』になれるかどうか。……それは、お前がどれだけあいつの絶望に耐えられるか、にかかってる」


事務室の奥で、源さんの静かな寝息が聞こえた。

夢の中でも、彼は消えゆく技術を追いかけているのだろうか。


私は、自分の手をじっと見つめた。

私の若くて動くこの手が、今は、呪わしいほど残酷な特権のように感じられた。


第3章、第22話。

私たちは、再生のための、最も暗い谷底へと足を踏み入れた。


(第22話・了)

実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)

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