第21話:孤高のパン職人・源さん
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1. 嵐を連れてきた老人
六月の終わり、沖縄の湿り気を帯びた風が、工房の換気扇を重く回していた。
タクヤくんが新しいステップへと踏み出し、少しだけ広くなったはずの工房に、その男は「嵐」のように現れた。
「……なんだ、この温い匂いは。パンを焼いてるのか、家畜の餌を練ってるのか、どっちだ」
工房の入り口で、地を這うような低い声が響いた。
そこに立っていたのは、一見するとどこにでもいそうな老人だった。白髪を短く刈り込み、背筋を不自然なほど真っ直ぐに伸ばしている。着古した、けれど染み一つない白いカッターシャツの袖をきっちりと捲り上げ、その男――源さんは、嫌悪感を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「……源さん。今日からお世話になるって聞いてます。森下くるみです。よろしくお願いします」
私が努めて明るく挨拶をすると、源さんは私を一瞥し、それから私の手元にあるボウルの中身を指差した。
「小娘。その生地、死んでるぞ。……イーストの機嫌も取れんのか。温度計を飾りでぶら下げてるなら、今すぐ外せ。目障りだ」
その言葉の鋭さに、私は言葉を失った。
隣でパンを丸めていたヒロくんが、異様な殺気を感じ取ったのか、「三、二、窓」の呟きを止め、所在なげに視線を彷徨わせる。
「……おい。ジジイ。ここはお前の城じゃねえぞ」
事務室の奥から、一ノ瀬さんがスマホをポケットにねじ込みながら出てきた。
いつもの眠たげな目はなく、そこには珍しく明確な「拒絶」の色がある。
「源。……お前が銀座でどれだけ偉かったか知らねえが、ここは『あおぞら工房』だ。……お前のプライドを振り回す場所じゃねえ。嫌なら今すぐ、その高い鼻を抱えて帰れ」
「……ふん。一ノ瀬か。相変わらず死人のような面をしおって。……福祉だと? 笑わせるな。パンの神様に失礼な真似をする連中を、野放しにはできんだけだ」
源さんと一ノ瀬さん。
二人の間に、目に見えるような火花が散った。
源さん――本名、佐藤源三。七十五歳。
かつて銀座の老舗ベーカリーで「神の手」と呼ばれた伝説の職人。
けれど、半年前から軽度認知障害(MCI)の兆候が見られ、現場を退かざるを得なくなった。家族の勧めで、リハビリを兼ねてこの工房へやってきた……という事前情報は、彼の放つ圧倒的な「現役感」の前では、何の役にも立たなかった。
2. 否定された「私たちのパン」
源さんの「指導」という名の蹂躙は、初日から始まった。
「……成形が甘い! 中のガスが泣いてるぞ!」
「……焼き色が品がない! 焦げと焼き込みの区別もつかんのか!」
彼は工房の中を練り歩き、利用者さんが一生懸命作ったパンを、次々と「ゴミだ」と切り捨てていく。
私がこれまで、ヒロくんやタクヤくんと一緒に、一歩ずつ積み上げてきた「あおぞら工房の日常」。それが、源さんのプロフェッショナルという名の暴力によって、無残に踏みにじられていく。
「……源さん、そんな言い方しないでください。みんな、一生懸命やってるんです。ここは、パンを作る場所であると同時に、みんなの『居場所』なんです」
私が堪らず抗議すると、源さんは私の目の前で足を止め、冷徹な瞳で私を見据えた。
「『一生懸命』だと? ……それが許されるのは子供までだ。金を払ってパンを買う客にとって、作り手の事情など知ったことではない。……不味いパンを『居場所』という免罪符で売る。それは支援ではない、ただの欺瞞だ」
源さんの言葉は、正論だった。
正論すぎて、反論する言葉が見つからない。
福祉の現場でよく議論される「製品としての質」と「就労支援としての意義」。
その境界線上で、私はずっと揺れていた。けれど、源さんはその曖昧さを許さない。
彼は、台の上に置かれていた食パンの生地を、無造作に掴み上げた。
「……見ろ。この生地の肌を。……作り手の迷いがそのまま出ている。……パンは鏡だ。お前たちの、その甘ったれた根性が、そのまま形になってるんだよ」
源さんは、その生地をゴミ箱に投げ捨てようとした。
その時、隣にいたヒロくんが、初めて源さんの腕を掴んだ。
「……だめ。……これ、僕の」
ヒロくんの声は小さかったが、そこには確かな拒絶があった。
源さんは、自分を制止したヒロくんを、驚いたように見つめた。
無感情な自閉症の青年と、激情を抱えた老職人。
静と動。
二人の視線が交差した瞬間、工房の空気が一気に凍りついた。
3. 老いという名の怪物
「……退け。……小僧。お前の手は、まだ生地に触れるレベルではない」
源さんは、ヒロくんの手を振り払おうとした。
けれど、その瞬間に起こったことを、私は一生忘れないだろう。
源さんの手が、空中で止まった。
彼は、自分の右手を、まるで得体の知れない生物を見るような目で見つめた。
その指先が、微かに、けれどはっきりと震えていた。
そして、彼の瞳から、先ほどまでの鋭い光が、潮が引くように消えていった。
「……あれ。……私は、何を。……あ、お母さん。……お母さんは、どこだ?」
源さんの声が、子供のように上ずった。
「……ここは、銀座の店じゃないのか? ……注文が溜まってるんだ。早く、仕込みを……。小麦粉は、どこだ? ……あ、あれ」
彼は、キョロキョロと周囲を見渡し、自分が今どこにいるのか分からなくなったかのように、呆然と立ち尽くした。
認知機能の低下。
「神の手」の持ち主を襲う、残酷な現実の断片が、目の前に晒された。
「……源さん?」
私が恐る恐る肩に手をかけると、源さんはビクリと体を震わせ、再び正気を取り戻した。
けれど、その瞳には、先ほどまでの傲慢さは消え、隠しきれない「恐怖」が張り付いていた。
「……触るな! ……汚らわしい!」
源さんは私を突き放すと、自分の震える右手を左手で必死に押さえ込みながら、工房の奥へと逃げるように去っていった。
「……見たか、森下。……あれが『喪失』の正体だ」
いつの間にか私の隣に来ていた一ノ瀬さんが、低く、重い声で言った。
「……タクヤのような『これから得る者』とは違う。源は、人生で築き上げてきたすべてを、砂時計からこぼれ落ちる砂のように失っていく真っ最中なんだよ」
「……あんなに、あんなに怖そうな人が……」
「怖いのは、あいつ自身だ。……自分が自分じゃなくなる恐怖。……指先が覚えている技術が、脳みそから消えていく恐怖。……あいつはな、その恐怖を誤魔化すために、怒鳴り散らして『現役の職人』を演じてるんだよ」
一ノ瀬さんは、ゴミ箱に捨てられかけたヒロくんの生地を拾い上げ、丁寧に台に戻した。
「……第3章だ、森下。……これまでの『自立』なんていう奇麗事じゃねえ。……自分を許せなくなった老人に、お前は何ができる? ……寄り添うか? 励ますか? ……そんなもんは、あいつのプライドをさらに傷つけるだけの毒だぞ」
一ノ瀬さんの言葉が、私の胸に重くのしかかった。
源さんの、あの震える手。
「お母さん」と呼んだ、あの幼子のような声。
そして、再び「職人」の仮面を被って絶叫した、あの苦悶に満ちた横顔。
私は、ヒロくんの隣で、再びパンを丸め始めた。
けれど、手に伝わる生地の感触は、今までとは違って感じられた。
それは、いつか失われる運命にある「命」の重みのようでもあった。
第3章。
私は、プロフェッショナルという名の栄光と、老いという名の絶望の狭間で、福祉の真実を学ぶことになる。
源さん。
あなたの、その震える手を、私はどう受け止めればいいのですか。
換気扇の音が、嵐の前の静けさを切り裂くように、いつまでも鳴り響いていた。
(第21話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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