第20話:共依存からの脱却
あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします
1. 「手伝って」から「見てて」へ
梅雨明け間近の沖縄の空は、泣き出しそうなほど重い雲に覆われていた。
工房の熱気は、以前のどんよりとした停滞感とは違う。一人ひとりが自分の持ち場で、自分の責任を全うしようとする、心地よい緊張感に満ちている。
その中心に、タクヤくんがいた。
かつて「できない」という武器を振り回し、甘い言葉で私を操ろうとした面影は、もうどこにもない。彼は今、一人で発酵器のタイマーを確認し、天板の向きを入れ替えている。
「くるみさん」
彼に呼ばれ、私は背筋を伸ばした。以前のような「救いを求める媚びた声」ではない。仕事のパートナーとしての、短く、張りのある声だ。
「……何かな、タクヤくん。何か手伝う?」
私がわざとそう尋ねると、タクヤくんはニッと不敵に笑った。
「いいえ。手伝いは要りません。……ただ、見ててほしいんです。僕が、昨日の失敗をどうリベンジするかを」
「見てて」――。
その言葉が、私の胸に熱く響いた。
誰かに代わってもらうことでしか自分の存在を認められなかった彼が、今、自分のプロセスを「承認」してもらうことに価値を見出し始めている。それは、彼が自分の足で立つと決めた、何よりの証拠だった。
私は一歩下がり、彼の作業を見守った。
クープ(切り込み)を入れるナイフの先が、わずかに震えている。けれど、彼はその震えを誤魔化そうとはしなかった。震える手で、それでも自分の意志で、生地に鋭い一閃を入れる。
そこから溢れ出すのは、彼自身の生命力そのものだった。
2. くるみの卒業
「……ふん。やっと、まともな支援員みたいな面になってきたな」
いつの間にか、背後に一ノ瀬さんが立っていた。
彼は相変わらず、薄汚れたポロシャツのポケットに手を突っ込み、やる気なさそうに壁に寄りかかっている。
「一ノ瀬さん……。私、やっと分かった気がします。……彼を救いたいと思っていた時、私は彼を、自分を輝かせるための『道具』にしていたんですね」
「気づくのが遅えよ、新人」
一ノ瀬さんは、事務室のデスクから持ってきた冷めたコーヒーを一口啜った。
「支援ってのはな、相手の『穴』を埋めることじゃねえ。相手が自分の『穴』を覗き込んで、そこから自力で這い上がるのを、隣で黙って見てる地獄の修行だ。……お前は、その地獄に耐える覚悟ができた。それだけのことだ」
私は、自分の掌を見つめた。
かつてタクヤくんの「嘘の痛み」を撫で、自分自身の孤独を癒やそうとしていた私の手。今は、タクヤくんが自分で焼き上げたパンの、本物の熱さを知っている。
「……一ノ瀬さん。私は、もう『女神様』には戻りません」
「ああ。……女神様なんて、支援の現場には邪魔なだけだ。ここに必要なのは、死んだ魚の目をした、しぶとい人間だけだよ」
一ノ瀬さんは、ふっと口角を上げた。
それは、これまでで一番短く、けれど、これまでにないほど深い肯定を含んだ微笑みだった。
3. 境界線の向こうに広がる景色
夕方、すべての作業が終わり、タクヤくんが帰り支度を整えて私の元へやってきた。
「くるみさん。……あの、最後にひとつだけ、いいですか」
彼は、以前のように私の袖を掴むことはしなかった。一メートルという、支援員と利用者としての適切な「境界線」を保ったまま、真っ直ぐに私を見た。
「……僕、明日から、別の工房の『就労移行支援』の面接に行ってきます。……ここで、自分でパンが焼けるって分かったから。もっと、外の世界を見てみたくなったんです」
私の鼓動が、一瞬、跳ね上がった。
寂しさが、胸の奥からせり上がってくる。彼がここにいなくなれば、私はまた、あの「必要とされている」という甘美な感覚を失ってしまうのかもしれない。
けれど、その寂しさを、私は誇らしく思った。
これこそが、支援のゴールなのだ。私を必要としなくなること。私という杖を捨てて、彼が遠くへ歩いていくこと。
「……そっか。タクヤくんなら、きっと大丈夫。……一ノ瀬さんに、報告はした?」
「しました。……『さっさと行け、ボケ』って言われましたけど。……でも、あの一ノ瀬さんの顔、僕、一生忘れません」
タクヤくんは、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございました、くるみさん。……僕に、本当の『できない』と、本当の『できる』を教えてくれて」
「……頑張ってね、タクヤくん」
彼が工房の扉を開け、夕闇の中に消えていく背中を見送った。
その足取りは、かつてのフラフラとしたものではなく、地面を力強く蹴る、確かなリズムを刻んでいた。
工房に残されたのは、パンの香ばしい残りと、静寂。
私は事務室に戻り、一ノ瀬さんの向かい側に座った。一ノ瀬さんは、いつものようにスマホのパズルゲームをしていた。
「……タクヤくん、行っちゃいましたね」
「ああ。……あいつ、面接でまた『手が痛い』とか抜かしそうだがな」
「ふふ、そうかもしれません。でも、もう彼は、自分でその嘘に気づけるはずです」
一ノ瀬さんは、スマホをデスクに置いた。
「……森下。第2章は、これで終わりだ。……お前は、共依存という名の『甘い毒』から、ようやく自分の足で抜け出した。……合格だ」
一ノ瀬さんは、棚から一冊の新しいファイルを取り出した。
そこには、まだ誰も綴じられていない、真っ白なシートが挟まっていた。
「……明日からは、第3章だ。……次はもっと厄介な奴が来るぞ。……準備はいいか?」
窓の外を見ると、分厚い雲の切れ間から、一筋の強い光が差し込んでいた。
沖縄の、短い、けれど鮮やかな夕焼けが、工房の隅々までを黄金色に染めていく。
「……はい。……いつでも、どうぞ」
私は、一ノ瀬さんの目を真っ向から見据えて答えた。
支援員・森下くるみ。二十二歳。
私はもう、透明な壁ではない。
相手の痛みを鏡のように映し出し、ともに震え、ともに立ち上がる、一人のプロフェッショナルとして。
物語は、まだ終わらない。
この「あおぞら工房」という名の戦場で、私は明日もまた、誰かの魂の産声に立ち会うのだ。
(第2章・完)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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