第19話:自分の力で焼く『一本の食パン』
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1. 静かなる決意の朝
六月の湿り気を帯びた風が、工房の換気扇を重く回している。
いつもなら「くるみさーん! 助けてくださーい!」と、私の背後に隠れるように現れるタクヤくん。けれど、今朝の彼は違った。
彼は、一ノ瀬さんの事務室の前で立ち止まり、深く頭を下げた。
「一ノ瀬さん。……今日、僕に、食パンを一から焼かせてください。計量から、焼成まで。全部、一人でやります」
一ノ瀬さんはスマホの画面から目を離さず、鼻で笑った。
「食パンか。お前が一番苦手な、誤魔化しの利かねえやつだな。……失敗したら、今日の工賃はゼロだぞ。材料費、ドブに捨てるようなもんだからな」
「……分かってます。それでも、やりたいんです」
タクヤくんの声は震えていたが、その足は一歩も引かなかった。一ノ瀬さんはようやく顔を上げると、死んだ魚のような目でじっとタクヤくんを見つめ、それから短く「……勝手にしろ」と言い捨てて、再びスマホのパズルゲームに戻った。
私は、そのやり取りを固唾を呑んで見守っていた。
かつての私なら、「そんな厳しいこと言わないで、私も手伝いますから!」と割って入っていただろう。けれど、今の私は知っている。ここでの介入は、タクヤくんの魂に対する「侮辱」でしかない。
私は、自分の作業であるメロンパンのクッキー生地を練りながら、隣のテーブルで作業を始めたタクヤくんを、視線の端だけで追い続けた。
2. 孤独な闘い:計量と捏ね
タクヤくんの「一人での挑戦」が始まった。
まず、強力粉、イースト、砂糖、塩の計量。
彼は何度も何度もスケールの数字を確認していた。以前なら「これくらいでいいですよね?」と私に同意を求めていたはずだ。けれど、今の彼は、自分の目だけを信じていた。
「……っ」
粉をこぼし、慌てて台を拭く。
水を入れすぎ、少しだけ粉を足す。
その一つひとつの動作に、彼の「迷い」と「恐怖」が滲み出ている。
依存という温かい繭から抜け出したばかりの彼にとって、世界はあまりにも予測不能で、残酷な失敗に満ちているように見えているはずだ。
私は、彼が粉をぶちまけそうになった時、思わず手が伸びそうになった。
「あ、タクヤくん、そこは……」
言いかけた言葉を、一ノ瀬さんの鋭い視線が射抜いた。
事務室のガラス越し、一ノ瀬さんはスマホを持ったまま、私を睨みつけている。
『手を出すな。死んでも出すな』。
その無言の圧力が、私の足を床に縫い付けた。
タクヤくんは、捏ね(こね)の作業に入った。
食パンの生地は重い。何度も台に叩きつけ、グルテンを形成させなければならない。
「……はぁ、はぁ、……っ」
細い彼の腕が、みるみるうちに赤くなっていく。
汗が額から滴り、作業台に落ちる。
彼は、以前「手が痛い」と嘘をついて私に代わらせた、その同じ場所で、今度は本物の痛みに耐えていた。
「……苦しい。……もう、やめたい」
小さな呟きが、彼の口から漏れた。
彼は一瞬、私の方をチラリと見た。救いを求める、かつての「甘えの天才」の瞳。
私は、グッと奥歯を噛み締め、わざと彼から目を逸らした。
冷たいかもしれない。薄情かもしれない。
けれど、今ここで私が微笑んでしまったら、彼は再び「お母さんの身代わり」としての私の中に逃げ込んでしまう。
タクヤくんは、私が目を逸らしたのを確認すると、絶望したように笑い、再び生地に拳を叩きつけた。
ドス、ドス、という鈍い音が工房に響く。
それは、彼が自分の中の「弱さ」を殴りつけている音のように聞こえた。
3. 発酵の沈黙
一次発酵、ベンチタイム、そして成形。
タクヤくんの動きは、お世辞にも手際が良いとは言えなかった。
生地を丸める手つきはぎこちなく、表面にはいくつも傷がついている。
けれど、彼は一度も「手伝って」とは言わなかった。
発酵を待つ間、彼はオーブンの前で、祈るようにしゃがみ込んでいた。
私は、彼に冷たい麦茶を差し出した。
「……お疲れ様。順調だね」
「……くるみさん。僕、怖いんです。……もし、これが膨らまなかったら。もし、焦げちゃったら。……僕には、もう何も残らない気がして」
「……タクヤくん。パンはね、嘘をつかないよ」
私は、彼の隣に座らず、立ったまま言った。
「君が込めた力も、君が流した汗も、全部生地が覚えてる。……たとえ形が悪くても、それは君がこの世界に刻んだ、初めての『自分の証拠』だよ。……胸を張っていいんだよ」
タクヤくんは、私の言葉を噛み締めるように、小さく頷いた。
「……女神様、じゃないんですよね、今のくるみさんは。……ただの、厳しい先生だ」
「ふふ、そうね。不合格なら、全部食べさせるからね」
その時、一ノ瀬さんが事務室から出てきて、オーブンのタイマーを無造作にセットした。
「タクヤ。温度、上がってるぞ。……お前の覚悟、焼きなませるなよ」
一ノ瀬さんの言葉は、相変わらず突き放すようだった。
けれど、その目は、タクヤくんが成形した、不恰好な三つの山が並んだ食パンの型を、慈しむように見つめていた。
4. 黄金色の奇跡
いよいよ、焼成に入る。
オーブンの扉が閉まり、熱風が吹き抜ける。
タクヤくんは、オーブンの小さな窓に張り付くようにして、中を見つめていた。
十分、二十分……。
白い生地が、徐々に狐色へと色づいていく。
工房全体に、香ばしい、幸せな小麦の香りが立ち込める。
ヒロくんも、他の利用者さんたちも、作業の手を止めて、タクヤくんのオーブンを見守っていた。
そこには、かつての「依存と操作」に満ちた空気は微塵もなかった。
一人の人間が、自分を賭けて何かに挑んでいる。その尊い熱量が、工房の全員を繋いでいた。
チーン。
タイマーが鳴った。
タクヤくんの手が、震えながらミトンを嵌める。
彼は、重い型をゆっくりと取り出した。
「……あ」
型から外され、網の上に置かれたのは、少し高さが不揃いで、横が少し凹んだ、一本の食パンだった。
プロの目から見れば、売り物にするには厳しい出来かもしれない。
けれど、そのパンの表面は、午後の陽光を浴びて、神々しいほどの黄金色に輝いていた。
パチ、パチ、パチ……。
パンが冷めていく時に鳴る「天使の拍子」が、静かな工房に響いた。
タクヤくんは、その音を聞きながら、大粒の涙をポロポロとパンの横にこぼした。
「……焼けた。……僕が、焼いたんだ。……一人で」
彼は、自分の赤く腫れた掌を見た。
そこには、誰かに縋って得た偽りの温もりではなく、熱いオーブンと戦い、生地を捏ね続けた者だけが手に入れられる、本物の「熱」が宿っていた。
「……一ノ瀬さん。……見てください。焼けました」
タクヤくんが、震える声で事務室の方を向いた。
一ノ瀬さんは、椅子に踏ん反り返ったまま、スマホをいじっていた。
けれど、彼は一度だけスマホを置き、タクヤくんの方をチラリと見た。
「……ケッ。……ちょっと腰折れ(サイドが凹むこと)してんな。水分量の計算ミスだろ。……修行し直せ、ボケ」
そう言って、一ノ瀬さんは再びパズルゲームの画面に目を落とした。
けれど、その声は、これまでで一番優しく、弾んでいた。
そして、私は見た。
一ノ瀬さんがスマホのカメラをこっそり起動し、タクヤくんのパンを、大切に一枚撮影したのを。
「……タクヤくん、おめでとう」
私は、ようやく彼の隣に歩み寄り、その肩を優しく叩いた。
タクヤくんは、泣き笑いのような顔で私を見た。
「……くるみさん。僕……。明日も、明後日も、もっと美味しいパン、焼きたいです。……一人で。……自分の力で」
「ええ。楽しみにしてるわ」
依存の鎖は、一日にして断ち切れるものではない。
彼は明日もまた、何かに躓き、「助けて」と泣き言を言うかもしれない。
けれど、この一本の食パンの香りを、彼は一生忘れないだろう。
自分の足で立ち、自分の手で何かを生み出した時の、この震えるような喜びを。
第2章の物語が、今、最高のクライマックスへと向かおうとしていた。
私は、タクヤくんの横で、冷めていくパンの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
支援員になってよかった。
心からそう思えた、六月の午後のことだった。
(第19話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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