第18話:一ノ瀬の「動」:タクヤへの一喝
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1. 完売のあとの残響
移動販売を終え、夕闇が迫るあおぞら工房。
ハイエースからパンの空箱を下ろす作業は、いつもより静かだった。タクヤくんは、最後のお客さんを見送った時の高揚感から一転して、ひどく落ち込んでいるように見えた。
「……お疲れ様、タクヤくん。今日は本当に助かったよ。完売なんて、すごいことだよ」
私が精一杯の労いを込めて声をかけると、タクヤくんは重いコンテナを地面に置いたまま、力なく首を振った。
「……完売したのは、くるみさんが頑張ったからでしょ。僕は結局、途中で逃げ出そうとした。……メロンパンも落としたし。……やっぱり、僕はダメなんだ」
彼は自分の掌を見つめた。そこには、トングを握り締めていた跡が赤く残っている。
かつてのタクヤくんなら、ここで「そんなことないよ!」という私の慰めをエサにして、再び「甘えの沼」に浸かっていただろう。けれど、今の彼は、自分の不甲斐なさを真正面から受け止めて、その重さに押し潰されそうになっていた。
「……タクヤ。いつまでそうやって、自分の『無能さ』を可愛がってるんだ」
背後から、冷ややかな、けれど鋭利な刃物のような声が飛んできた。
事務室の影から、一ノ瀬さんがゆっくりと歩み寄ってきた。いつもの眠たげな目はなく、そこには獲物を射抜くような、凄まじい「動」の気配が宿っている。
「一ノ瀬さん……っ。タクヤくんは、今日、最後までやり遂げたんです。そんな言い方――」
「黙ってろ、森下。これは男の話だ」
一ノ瀬さんは、私の言葉を片手で制すると、タクヤくんの目の前で足を止めた。
タクヤくんは、蛇に睨まれた蛙のように、震えながらも一ノ瀬さんを見上げた。
「……一ノ瀬さん。僕、分かってます。僕は欠陥品です。誰かに助けてもらわないと、パン一つ袋に入れられない……」
「そうだな。お前は欠陥品だ。おまけに根性もねえし、口を開けば泣き言ばかりだ」
一ノ瀬さんの言葉に、私は息を呑んだ。いくらなんでも、それは酷すぎる。
けれど、一ノ瀬さんの追求は止まらない。
「でもな、タクヤ。今日、お前が車から降りて、震える手でトングを握ったあの瞬間。……あの時、お前の隣にいたのは、お前の母親か? それとも、お前を甘やかす支援員か?」
タクヤくんは、言葉に詰まった。
「……い、いない。僕一人だった……」
「そうだ。あの瞬間、お前は初めて、自分の人生を誰の手にも渡さなかった。……それがどういう意味か、分かってんのか」
2. 魂への一喝
一ノ瀬さんは、タクヤくんの胸元をぐいと掴み、至近距離でその瞳を覗き込んだ。
「お前はな、ずっと『できない』という嘘をついて、周りの人間を操ってきた。……でもな、今日、お前が一人で売ったあのパンを食べた客は、お前が『障害者』だから買ったんじゃねえぞ。……お前が差し出したパンが、美味そうだったから買ったんだ」
「……っ」
「いいか。世の中は冷てえ。お前が泣こうが喚こうが、知ったこっちゃねえ奴らばかりだ。……でもな、お前が自分の力で、一ミリの妥協もなく袋に詰めたそのパンは、嘘を吐かねえ。……お前が今日、自分の逃げ癖をブチ殺してそこに立った。その事実は、全宇宙でお前だけが知ってる、本物の『プライド』なんだよ!」
一ノ瀬さんの怒号が、静かな工房に響き渡った。
それは、叱責ではなかった。
タクヤくんの中に眠っているはずの「一人の男」に対する、魂の呼びかけだった。
「お前を『できない子』として扱う奴らは、みんな敵だ。……お前を甘やかして、お前の足腰を腐らせる森下も、お前の母親も、全員お前の成長を殺す人殺しだと思え!」
私は、その言葉に打たれたように立ち尽くした。
一ノ瀬さんの怒りは、私にも向けられていた。私が彼に注いできた、あの「薄っぺらな優しさ」がいかに残酷なものであったか。
「……タクヤ。お前はもう、操り人形じゃねえ。……自分の力でメロンパンを落としたなら、自分の力で拾い上げろ。……自分の力で恥をかけ。……それが、人間として生きるってことだ!」
一ノ瀬さんは、掴んでいたタクヤくんの胸元を、突き放すように離した。
タクヤくんは、たじろぎ、地面に膝をついた。
けれど、その瞳からは、もう涙は流れていなかった。
そこにあるのは、自分という存在の重さを、初めて噛み締めている男の顔だった。
「……一ノ瀬、さん。……僕、もう一回……。明日、もう一回、一人でやらせてください」
タクヤくんの声は、小さかった。けれど、そこには「依存」という泥を削ぎ落とした、鋼のような意志が宿っていた。
「……勝手にしろ。失敗したら、次こそクビだ」
一ノ瀬さんは、ふいと背を向けると、ポケットから火のついていない煙草を取り出した。
その背中は、夕闇に溶け込み、いつもの「やる気のない職員」に戻ったように見えた。
3. 男たちの絆
「……一ノ瀬さん。ありがとうございました」
私は、事務室へ戻る一ノ瀬さんの背中に向かって、深く頭を下げた。
一ノ瀬さんは立ち止まらず、ただひらひらと手を振っただけだった。
タクヤくんは、しばらくの間、地面に膝をついたまま動かなかった。
私は、彼を助け起こそうとはしなかった。彼が自分の力で、自分の意志で立ち上がるのを待つ。それが今の私が彼にできる、唯一の、そして最高の支援だと思ったから。
やがて、タクヤくんはゆっくりと立ち上がった。
その足取りは、いつもの軽薄なスキップでも、弱々しい引き摺り足でもなかった。
大地を一歩ずつ踏みしめる、確かな歩みだった。
「……くるみさん。……僕、今なら、一ノ瀬さんの言ったことが分かる気がします」
彼は、私の方を見ずに言った。
「僕、ずっと怖かったんです。……自分が何者でもなくなるのが。……誰にも構ってもらえなくなるのが。……でも、今日、パンを売った時、僕、自分が『何者か』になれた気がした」
「……うん。タクヤくんは、素敵なパン屋さんだったよ」
「……パン屋、か。……悪くないですね」
タクヤくんは、初めて、私を誘惑するためではない、本物の、清々しい笑顔を浮かべた。
それは、春の終わりの、澄み渡った夜空に昇る星のように綺麗だった。
事務室に戻ると、一ノ瀬さんはデスクに足を上げ、スマホのパズルゲームに没頭していた。
「……Combo! Perfect!」
能天気な電子音が響く。
私は、一ノ瀬さんのデスクの端に、冷たい缶コーヒーを置いた。
「……一ノ瀬さん。今の、かっこよかったですよ」
「あ? ……うるせえよ。……俺はただ、あいつに貸したコンテナ代を回収したいだけだ。……早く着替えて帰れ、新人」
一ノ瀬さんは、一度も目を合わせなかった。
けれど、彼がスマホの画面をタップする指先が、ほんの少しだけ震えているのを、私は見逃さなかった。
彼もまた、戦っていたのだ。
タクヤくんという一人の人間を救うために、自分の中にある「かつて救えなかった誰か」の亡霊と。
一ノ瀬さんの「静」と「動」。
その真意に触れるたび、私の心は洗われていく。
支援とは、誰かを幸せにすることではない。
誰かが自分の足で、冷たい夜道を歩いていけるように、そっと火を灯すことなのだ。
タクヤくんが帰ったあとの工房には、心地よいパンの残り香と、新しい自立の芽が芽生えた、静かな熱気が漂っていた。
(第18話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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