第17話:嵐の後の静けさ:再度の移動販売
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1. 因縁の地
五月の末。あの忌まわしい豪雨と雷鳴が嘘のように、公園の並木道は眩しい新緑に包まれていた。
青く晴れ渡った空には、綿菓子のような雲がいくつか浮かんでいる。あおぞら工房のロゴが入った白い移動販売車を停めると、私は知らず知らずのうちに、自分の肩をギュッと抱きしめていた。
(……大丈夫。今日は雨は降らない。雷も鳴らない)
私は一ノ瀬さんから教わった「雨雲レーダー」を、今朝だけで十回は確認した。
「……森下。お前、地面に穴が開くほど見つめて何がしたいんだ。あ、日焼けが怖いなら、俺が代わってやってもいいぞ。ただし、俺は車から一歩も出ねえがな」
運転席でだらしなくシートを倒した一ノ瀬さんが、スマホを片手にあくびをした。
「……結構です。今日は私が、タクヤくんとやり遂げます」
私は助手席のタクヤくんを振り返った。
彼はいつものように茶髪をいじり、窓の外をぼんやりと眺めている。以前のような「くるみさーん、僕、緊張して吐きそう……手、握っててくれます?」という過剰な甘えはない。
けれど、その表情は硬く、視線が落ち着きなく彷徨っている。
「タクヤくん、準備はいい?」
「……まあ。……別に、僕がいなくても、くるみさん一人でできるでしょ」
少しだけ、棘のある言い方。
けれど、それは彼が「依存の魔法」を解かれ、自分自身の無力感と向き合っている証拠でもあった。
一ノ瀬さんの言う通り、私はもう「杖」にはならない。
「いいえ。タクヤくんがパンを渡してくれないと、私はお会計ができないの。……お願いね」
私は、彼の「役割」を明確に告げた。
タクヤくんは「……ふん」と鼻を鳴らし、重い腰を上げて車を降りた。
2. 綻び
開店と同時に、公園にいた親子連れやウォーキング中の高齢者たちが、次々と集まってきた。
「あ、あおぞら工房さん! 待ってたわよ。ここの食パン、もちもちしてて美味しいのよね」
「メロンパン、二つください!」
次々と入る注文。私はレジを打ち、タクヤくんは後ろの棚からパンを取り出し、袋に入れて手渡す。
最初の十五分は、完璧だった。タクヤくんの動きは機敏で、接客の笑顔も板についている。
(……いける。このままなら、何事もなく終わる)
そう思った矢先だった。
行列が長くなり、焦ったタクヤくんがメロンパンをトングで掴み損ね、地面に落としてしまった。
「あ……」
タクヤくんの動きが止まる。
「あ、いいですよ、気にしないでください。新しいのくださいな」
お客さんは優しく笑ってくれたが、タクヤくんの顔からは一瞬で血の気が引いた。
一度「失敗」という石ころが転がると、彼の心のダムは決壊し始める。
次に注文されたあんパンの種類を間違え、お釣りの計算で詰まった私を助けるどころか、彼はトングを持ったまま、その場に立ち尽くした。
「……タクヤくん、あんパン、こしあんと粒あん、一つずつね」
「……僕、もう無理」
タクヤくんの声が、震えていた。
「手が震えて……。ほら、やっぱり僕には向いてないんだ。くるみさん、あとはお願いします。僕、車で休んでくる……」
彼はトングを放り出し、逃げるように車の方へ歩き出した。
「タクヤくん!」
私は叫んだが、彼は振り返らない。
行列のお客さんたちが、怪訝そうな、あるいは同情的な視線を私に向ける。
私の心臓が、激しく警鐘を鳴らす。
「手伝って」「代わって」「私がいなきゃダメ」……古い私が、彼の後を追えと囁く。彼を優しく介抱し、また「依存の蜜」を与えれば、彼は今の苦痛から逃れられるだろう。
(……でも、それはあの子のためじゃない)
私は、グッと拳を握りしめた。
「……申し訳ありません、少々お待ちください!」
私はお客さんに深々と頭を下げると、レジを離れ、ハイエースのドアを力いっぱい開けた。
3. 沈黙の後の「動」
「……何しに来たんですか。僕、もうダメだって言っただろ」
後部座席で膝を抱えて丸まっているタクヤくんが、睨みつけるように私を見た。
「一ノ瀬さんに言いつければいいじゃないか。タクヤは使えないって。……どうせ、僕はそういう人間なんだ」
私は、彼の隣に静かに座った。
かつてヒロくんの隣で、ただ「透明な壁」として座った時のように。
「……タクヤくん。一ノ瀬さんに、言いつけたりしないよ。……一ノ瀬さんは、最初から全部見てるから」
私は、運転席で依然としてスマホをいじっている一ノ瀬さんの背中を指差した。
一ノ瀬さんは、一度もこちらを振り返らない。
「……あいつ、どうせ僕のこと、クズだと思ってるんだ」
「違うよ。一ノ瀬さんは、君が『逃げる』ことを、一番悲しんでる」
私は、自分の声を震わせないように、ゆっくりと言葉を選んだ。
「タクヤくん。パンを落としたのは、失敗じゃない。……でも、そこで逃げ出すのは、君自身を捨てることと同じだよ。……君が落としたパン、さっき私が片付けた。……汚れちゃったけど、形はすごく綺麗だった。君が一生懸命作った、大切なパンだったのに」
タクヤくんの肩が、ビクリと揺れた。
「……僕が、作った……」
「そうだよ。君が焼いて、君が運んできたパン。……それを最後まで見届けるのが、君の仕事でしょ。……手が震えてもいい。間違えてもいい。……でも、私の隣にいて。……一人で立っているのは、私だって怖いの」
私は、初めて自分の「弱さ」を彼に見せた。
支援員としてではなく、一人のパートナーとしての、切実な願い。
「……タクヤ。いつまで女に、そんな情けねえ顔見せてんだ」
突然、一ノ瀬さんが、低い声で言った。
彼はスマホを置き、ゆっくりとシートを戻した。
バックミラー越しに映る一ノ瀬さんの目は、これまでにないほど鋭く、そして熱を帯びていた。
「……パンを落としたなら、新しいのを拾え。間違えたなら、謝れ。……お前が今、車に逃げ込んで得られるのは、束の間の安心と、一生消えねえ『逃げ癖』だけだ。……それでもいいなら、そのまま寝てろ。俺が今すぐ、お前をここに置いて帰ってやる」
一ノ瀬さんの言葉は、優しさなど微塵もない。
けれど、それはタクヤくんを一人の「男」として扱い、彼に選択を迫る、究極の信頼だった。
タクヤくんは、しばらくの間、拳を血が滲むほど強く握りしめていた。
そして、彼は乱暴に涙を拭うと、勢いよくドアを開けた。
「……分かってるよ! 降りればいいんでしょ、降りれば!」
彼は車を降り、足早に販売台へと戻った。
私も、急いで彼の後を追った。
「……お待たせしました!」
タクヤくんの声は、少し上ずっていた。けれど、そこにはもう「依存」の色はなかった。
彼は震える手でトングを握り直し、慎重に、けれど確実にパンを袋に入れていった。
「……ありがとうございます。またお願いします」
その言葉は、誰に教えられたものでもない、彼自身の内側から溢れ出たものだった。
一時間後。
用意したパンは、すべて完売した。
最後のお客さんが去ったあと、タクヤくんはその場に座り込んだ。
「……終わった。……全部、売れた」
私は、隣で静かに息を整えた。
「……お疲れ様、タクヤくん」
タクヤくんは、私を見ようとしなかった。
けれど、彼が自分の掌をじっと見つめているのが分かった。
そこには、さっきまで震えていた手の感覚と、自分でやり遂げたという、微かな、けれど確かな重みが残っているはずだ。
「……くるみさん。……僕、明日も、来ますから」
ポツリと、彼は言った。
「女神様」でもなく、「マリア様」でもなく。
一人の人間として、彼が私に告げた、再会の約束。
車に戻ると、一ノ瀬さんは再びスマホをいじっていた。
「……一ノ瀬さん。全部、売れました」
私が報告すると、一ノ瀬さんは「あー、お疲れ。……アイス買ってくるから、金出せ、新人」と、いつものだらしない顔で言った。
けれど、彼がスマホで見ていたのは、ゲームの画面ではなく。
あおぞら工房の、今日一日の売上データと、そこに刻まれた「担当:森下・タクヤ」という文字だった。
新緑の風が、車内を通り抜ける。
第1章の時とは違う、静かな、けれど力強い達成感が、私たちの間に漂っていた。
タクヤくんの自立への道は、まだ一歩を踏み出したばかりだ。
けれど、その一歩は、泥まみれになりながらも、自分の足で踏み出した、尊い一歩だった。
(第17話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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