第16話:タクヤの孤独と本当の願い
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1. 嵐のあとの空白
「……来ない、かな」
翌朝、私は工房の時計を何度も見上げていた。
始業から三十分。いつもなら一番乗りでやってきて、「くるみさーん! 今日も可愛いですね!」と騒がしく私にまとわりついてくるタクヤくんの姿は、どこにもなかった。
昨日の、あの憎悪に満ちた瞳。パンを踏みつけ、私を突き飛ばしたあの一瞬の豹変。
それが、彼との最後になってしまうのだろうか。
「……森下。仕事しろ。時計を見たところで、針は早く回らねえぞ」
事務室の入り口で、一ノ瀬さんがいつものように眠たげな目で私を見た。
「でも、タクヤくんが……。昨日の今日ですし、やっぱり傷ついちゃったんじゃないでしょうか。私が、あんなに突き放したから」
一ノ瀬さんは、手に持っていた納品書で私の頭を軽く叩いた。
「傷ついたんじゃねえよ。……作戦を練り直してるか、単純に寝坊してるかだ。あいつにとって、ここは『居場所』じゃねえ。他人をコントロールして、自分の有能感を確認するための『狩場』だったんだ。その獲物(お前)が逃げたんだから、面白くないのは当たり前だろ」
一ノ瀬さんの言葉は相変わらず辛辣だ。けれど、今の私には、その冷たさが不思議と心地よかった。
「……でも、一ノ瀬さん。タクヤくん、最後に『大嫌いだ』って言いましたよね。あんなに私を好きだと言ってくれていたのに」
「好き? ……バカか。あいつが欲しがっていたのは、お前自身じゃない。お前という鏡に映る『愛されている自分』だ。……鏡が曇れば、あいつにとってはゴミと同じなんだよ」
一ノ瀬さんはそう言い残し、またスマホを取り出してパズルゲームを始めた。
私は、自分の担当であるパンの成形に戻った。
ヒロくんが、隣でいつも通り「三、二、窓」のリズムを守っている。
その揺るぎない静寂が、今の私には救いだった。
(……タクヤくん。君の本当の願いは、どこにあるの?)
私は、一ノ瀬さんに見せてもらった彼の支援計画書の内容を思い出していた。
「学習性無力感」。
親にすべてを奪われ、自分で選ぶことを許されなかった少年。
彼は、他人を操ることでしか、自分の存在を確認できなくなってしまった。
それは、どれほど孤独で、底知れぬ恐怖を伴う生き方なのだろうか。
2. 公園の影
お昼休み。私は気分転換に、工房の裏手にある小さな公園へ向かった。
ベンチに座って、昨日の出来事を反芻する。
ふと、遊具の陰に、見覚えのある茶髪の頭が見えた。
「……タクヤくん?」
彼は、錆びついたブランコに座り、力なく地面を蹴っていた。
昨日のような攻撃的なオーラはなく、どこかひどく小さく見える。
私は、近づくべきか迷った。一ノ瀬さんの言葉通りなら、ここで声をかけることは、再び彼に「エサ」を与えることになる。
けれど、彼の背中があまりにも寂しそうで、私は気づけば彼の隣まで歩み寄っていた。
「……タクヤくん。今日、休みかなって思ってた」
タクヤくんは、ビクリと肩を震わせた。
ゆっくりと顔を上げた彼の瞳は、赤く腫れていた。
「……くるみさん。……まだ、僕に用があるんですか? また、冷たく突き放しに来たんですか?」
その声は、演技のようには聞こえなかった。
「突き放しに来たんじゃないよ。……ただ、心配だったの」
「心配……? 嘘だ。みんな、僕が邪魔なんでしょ。一ノ瀬さんみたいに、僕を『化け物』だと思ってるんでしょ」
タクヤくんは、ブランコの鎖をギチギチと鳴らした。
「……昨日、家に帰って、ずっと考えてたんです。……僕って、何なのかなって。くるみさんに優しくされると、もっと欲しくなる。もっともっと、僕だけを見てほしくなる。……でも、くるみさんが言うこと聞いてくれないと、頭の中が真っ白になって、全部壊したくなる。……僕、自分でも自分が怖いんです」
彼は、自分の掌を見つめた。
「お母さんは、僕のこと『天使』だって言いました。でも、僕が失敗すると、悲しそうな顔をして『いいのよ、お母さんがやるから』って言う。……僕が自分一人で何かをしようとすると、お母さんは泣くんです。『お母さんを一人にしないで』って。……だから、僕は『できない子』でいなきゃいけなかった。……それが僕の、たった一つの、生きるためのルールだったんです」
私は、胸が締め付けられる思いだった。
彼の「甘え」は、単なるわがままではなかったのだ。
それは、過干渉な母親を繋ぎ止めるための、そして自分を愛してもらうための、悲しい「生存戦略」だった。
「できない子」でいることでしか、彼は自分の価値を証明できなかった。
「……タクヤくん。君は、天使でも、化け物でもないよ」
私は、努めて落ち着いた声で言った。
「君は、一人の人間だよ。……失敗してもいいし、誰かに嫌われてもいい。でも、誰かを操って、自分の価値を確かめるのは、もう終わりにしよう」
「……そんなこと言ったって、僕には何もない! パンも上手く焼けないし、袋詰めだって、くるみさんがいないと綺麗にできない!」
「できるよ。……昨日のパン、見た? 最後に君が一人でやったやつ。……一ノ瀬さんが言ってたよ。『完璧な形だ』って」
タクヤくんの動きが止まった。
「……嘘だ。あいつが、そんなこと……」
「本当だよ。……一ノ瀬さんは、君の力を信じてるから、あんなに厳しくするんだよ。君を『できない子』として扱っているのは、私の方だった。……ごめんね、タクヤくん。私は君のことを、可哀想な子だと思って、君から成長する機会を奪っていた」
私は、深く頭を下げた。
これは、彼に対する謝罪であり、自分自身の傲慢さに対する決別だった。
3. 鏡の向こうの光
タクヤくんは、しばらくの間、沈黙していた。
風が吹き抜け、公園の木々がざわめく。
やがて、彼はポツリと言った。
「……一ノ瀬さん、僕が一人でやったパン、本当にそう言ったんですか?」
「ええ。嘘じゃないわ」
タクヤくんは、ブランコからゆっくりと立ち上がった。
「……信じられない。でも、くるみさんが言うなら……一回だけ、信じてみようかな」
彼は私の方を見ず、工房の方を向いた。
「……僕、明日から、もう『女神様』なんて呼びませんから。……くるみさんは、ただの、うるさい支援員だ。……それで、いいんですよね」
その言葉には、清々しいほどの拒絶が含まれていた。
けれど、私にはそれが、彼が初めて私という人間に引いてくれた、健康的な「境界線」のように思えた。
「ええ。それでいいわ、タクヤくん」
工房に戻ると、一ノ瀬さんが事務室の窓からこちらを眺めていた。
私が戻ると、彼はスマホをしまい、鼻を鳴らした。
「……余計なこと言ったな、森下。あいつ、また調子に乗るぞ」
「いいんです。……一ノ瀬さん。タクヤくん、自分の足で歩こうとしています。……私も、彼の『杖』になるのはもうやめました」
一ノ瀬さんは、ふっと口角を上げた。
それは、これまでに見たどの笑顔よりも、優しく、そして深い信頼に満ちていた。
「……そうか。じゃあ、午後の作業は、あいつに全部やらせろ。一ミリでもズレたら、お前が突き返せ。……甘やかすなよ」
「はい。……喜んで!」
午後。タクヤくんは工房に姿を現した。
彼は私に話しかけることも、媚びるような笑顔を見せることもなかった。
ただ、黙々と自分の席に座り、パンの袋詰めに没頭した。
時折、彼が私をチラリと見る。
私は、いつもの「透明な壁」として、彼を見守り続けた。
手伝わない。代わりもしない。
ただ、彼がやり遂げるその瞬間を、同じ空間で待つ。
彼が、最後の一つのパンを袋に入れ、封を閉じた。
その手は、一度も震えていなかった。
タクヤくんは、完成したパンの山を私の方へ、少しだけぶっきらぼうに押し出した。
「……できました。……チェック、してください」
私は、そのパンを一つ一つ、丁寧に確認した。
シワ一つない。完璧な仕事だ。
「……完璧。合格だよ、タクヤくん」
タクヤくんは、一瞬だけ、子供のような照れ笑いを浮かべた。
けれど、すぐに真面目な顔に戻り、「……ふん」と鼻を鳴らして、次の作業の準備を始めた。
彼の本当の願い。
それは、誰かに愛されることでも、誰かを操ることでもなかった。
「自分の力で、この世界に存在してもいい」という許可を、自分自身に与えることだったのだ。
一ノ瀬さんの腕の傷が、午後の陽光に照らされて光っている。
私たちは、誰かの傷を癒すことはできない。
けれど、その傷とともに歩いていくための「強さ」を、ともに育むことはできる。
第2章の大きな壁が、今、静かに崩れ始めた。
けれど、自立への道はまだ遠い。
私は、明日もまた、彼という名の「鏡」の前に立つだろう。
(第16話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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