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第15話:沈黙の拒絶 


あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします

1. 笑顔の剥落

「……え、くるみさん? 今、なんて言いました?」


五月の爽やかな風が吹き込む工房の中で、タクヤくんの声だけが異質に低く響いた。

彼はいつものように、ふにゃりとした甘ったれた笑顔を浮かべ、スライスし終えた食パンの山を私の前に差し出していた。

「これ、袋に入れるの、くるみさんやってくださいよ。僕、昨日から指の付け根が変な感じで……。あ、お礼に帰りに駅前のカフェの新作、奢っちゃいますから。ね?」


昨日までの私なら、「もう、しょうがないなぁ」と苦笑いしながら、そのパンを受け取っていただろう。彼の「できない」を「できる私」で埋めることで、歪んだ満足感を得ていたのだ。

けれど、今朝、無香料の石鹸で洗った私の掌は、もう彼の泥を肩代わりするつもりはなかった。


「……おはよう、タクヤくん。今日は、全部一人でやってみて。私は、手伝わないよ」


私は、一ノ瀬さんに教わった通り、彼の瞳を真っ直ぐに見据えて告げた。

感情を込めず、非難もせず、ただ事実だけを置く。

タクヤくんの笑顔が、まるで見えないヒビが入ったかのようにピキリと固まった。


「……冗談ですよね? くるみさん、怒ってるんですか? 僕、何か悪いことしました?」

「怒ってないよ。でも、これはタクヤくんの仕事だから。自分でやるのが、ここのルールでしょ」

「ルールなんて、昨日まで関係なかったじゃないですか! くるみさんは僕の味方だって、僕のこと見捨てないって言ったじゃないか!」


タクヤくんの声が大きくなり、周囲の利用者さんたちが不安そうにこちらを振り返る。

私は、胃のあたりをギュッと掴まれるような不快感に襲われた。言い返したい。弁明したい。嫌われたくない。……その「支援員としての未熟なエゴ」が、喉の奥までせり上がってくる。


けれど、私は口を閉ざした。

一ノ瀬さんの「鏡になれ」という言葉を反芻する。

私がここで言葉を重ねれば、それはまた彼にとっての「交渉の余地」になってしまう。


私は無言で一歩、後ろへ下がった。

そして、自分の担当である別の作業に、淡々と手を付け始めた。


「……無視するの? ねえ、無視なの!? くるみさん!!」


タクヤくんの叫びが工房に響き渡る。

彼は、私がこれまで一度も見たことのないような、剥き出しの「悪意」をその瞳に宿らせていた。


2. 豹変する怪物

「……死ねよ」


地を這うような低い呟きだった。

タクヤくんは、作業台の上に積まれていた食パンの山を、裏返った叫び声とともに一気になぎ倒した。

「ああああああ!! ムカつくんだよ、お前も一ノ瀬も! 善人面しやがって! 結局、僕のことなんてどうでもいいんだろ! だったら最初から優しくするなよ!!」


彼は狂ったようにパンの袋を破り、中身を床にぶちまけた。

他の利用者さんたちがパニックを起こしかけ、松本さんが慌てて彼らを別室へ誘導する。

私は、震える足を踏ん張って、その場に立ち尽くした。


(……怖い。逃げ出したい。謝って、全部やってあげると言いたい)


恐怖で指先が氷のように冷たくなる。

タクヤくんは、床に散らばったパンを土足で踏みつけながら、私に詰め寄ってきた。

「おい、なんか言えよ! 謝れよ! お前のせいでパンが台無しになったんだぞ! 全部お前のせいだ!」


彼は私の肩を強く突き飛ばした。

背中が壁に当たり、衝撃が走る。

タクヤくんの顔が、鼻の先が触れ合うほどの至近距離まで迫る。

その瞳は充血し、口元からは泡が飛んでいる。

「……お前、俺がここで手首切ったらどうする? 遺書にお前の名前書いてやるよ。一生、後悔させてやる。……なあ、LINE教えろよ。今すぐ教えろよ!!」


彼の執拗な攻撃。

それは、依存先を失うまいとする、溺れる者の断末魔のようだった。

私は、ギュッと目をつぶりそうになるのを堪え、ただ静かに彼を見返した。

何も言わない。何も与えない。

それは、相手を否定することよりも、はるかに残酷で、エネルギーの要る「拒絶」だった。


「……っ、この……クソ女!!」


タクヤくんが拳を振り上げた、その時。


「……そこまでだ。タクヤ」


事務室の扉が開き、一ノ瀬さんが悠然と歩いてきた。

彼は、パニック寸前の現場を、まるで散歩でもしているかのような足取りで通り抜け、タクヤくんと私の間に割って入った。


「一ノ瀬……! お前のせいだ、全部お前がくるみさんを吹き込んだんだろ!」

「そうだよ。……で? お前、その拳、どこに落とすつもりだ? 警察に電話する手間が省けて助かるが」


一ノ瀬さんは、スマホの画面をタクヤくんの目の前に突きつけた。

そこには、既に「110」と打ち込まれた通報画面があった。

「暴力、器物損壊。……お前、ここをクビになって、今度は檻の中で『できない』って泣くか? あそこはここよりずっと親切だぞ。全部屋、鍵付きの個室だしな」


タクヤくんの拳が、空中で震える。

一ノ瀬さんの、感情の死んだ瞳に見据えられ、彼の「無敵の被害者」という武装が、バラバラに崩れ落ちていくのが分かった。


「……ふざけんなよ。……みんな、大嫌いだ」


タクヤくんは、床に溜まった泥のようなパンの残骸を思い切り蹴飛ばすと、工房を飛び出していった。

乱暴に閉められた扉の音が、いつまでも耳の奥で鳴り響いていた。


3. 沈黙の後の震え

「……森下。怪我はねえか」


一ノ瀬さんの声は、いつも通りぶっきらぼうだった。

けれど、私の張り詰めていた糸は、その一言でぷつりと切れた。

壁に背を預けたまま、私はずるずるとその場に座り込んだ。


「……っ、う、うう……」


涙が止まらなかった。

怖かった。悲しかった。

タクヤくんに「死ね」と言われたこと。あんなに私を慕ってくれていたはずの瞳が、憎悪に染まったこと。

そして何より、彼をここまで追い詰めたのが、私の「中途半端な優しさ」だったという事実が、刃物のように胸を刺した。


「……一ノ瀬さん。私、間違っていませんでしたか。……彼を、もっと深く傷つけただけじゃないでしょうか」


私は泥まみれのパンを見つめながら、嗚咽混じりに尋ねた。

一ノ瀬さんは、私の隣に静かに腰を下ろした。

彼は散らばったパンの一つを拾い上げ、その汚れを指でなぞった。


「傷ついたのは、お前だ。……タクヤはな、今頃駅のベンチで、次の『ターゲット』を探してる。お前が反応しなくなったから、もうお前はあいつにとっての『エサ』じゃないんだよ」


「……あんなに、あんなに怒っていたのに?」


「怒りは、相手をコントロールするための演出だ。……森下、お前は今日、あいつを初めて一人の『人間』として扱ったんだ。……誰かの機嫌を伺って生きる奴隷じゃなく、自分の尻は自分で拭わなきゃならない、一人の男としてな」


一ノ瀬さんは、私の頭をポンと一度だけ叩いた。

それは、初めて彼からもらった、支援員としての「合格点」だったのかもしれない。


「……今日はもう上がれ。パンの片付けは俺がやる」

「でも……」

「いいから行け。……お前がその泣き面を見せれば、またタクヤは『勝機がある』と思って戻ってくる。……あいつに、お前の涙を一滴もやるな。それは、あいつのためじゃねえ」


一ノ瀬さんの背中は、嵐の後の防波堤のように大きく、そして孤独だった。

私は、何度も目を拭いながら、工房を後にした。


帰り道、夕焼けに染まる街を歩きながら、私は自分の掌を見つめた。

タクヤくんに突き飛ばされた肩が、じんじんと痛む。

けれど、その痛みは、私が彼との共依存という名の暗闇から、ようやく抜け出した証拠のようにも感じられた。


支援員は、愛される仕事ではない。

利用者の本当の足腰を鍛えるために、時には怪物になって、沈黙という名の拒絶を貫かなければならない。

その一ノ瀬さんの「冷徹さ」の裏側にある、血を吐くような誠実さを、私は今日、初めて肌で理解した。


明日、タクヤくんはどんな顔で工房に来るだろうか。

あるいは、もう二度と来ないかもしれない。

けれど、私はもう、自分の価値を彼の言葉に委ねることはしない。


私は、透明な壁になる。

彼がいつか、自分の力でパンを袋に入れ、自分の力で世界と向き合えるようになるその日まで。


(第15話・了)


実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)

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