第24話:味覚の記憶
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1. 霧の中を彷徨う指先
「……違う。こんな味じゃない。……キヨ、お前、また塩を間違えたか?」
蒸し暑い月曜日の朝。源さんは、自分が焼き上げたばかりのカンパーニュを一口齧るなり、それを皿の上に放り出した。
「キヨ」――それは、三年前になくなった源さんの奥さんの名前だ。
「源さん、私はくるみです。キヨさんは、ここにはいませんよ」
私が努めて穏やかに告げると、源さんはハッとしたように周囲を見渡し、それから深い溝の刻まれた眉間に手を当てた。
「……ああ、そうか。……そうだったな。小娘、済まん。……最近、どうも霧の中にいるようでな」
源さんの認知機能は、坂道を転げ落ちるように低下していた。
昨日教えたオーブンの操作を忘れ、分量を間違え、時には自分が今どこで何をしているのかさえ失念する。かつての「神の手」は、今やパンの形を成すことさえ危うい。
一ノ瀬さんは事務室で、そんな源さんをただ黙って眺めている。手助けもしなければ、慰めもしない。その冷徹なまでの「沈黙」が、今の私には、源さんのプライドを死守するための最後の防波堤に見えていた。
「……源さん、これ。……あなたのノートに書いてあったレシピですよね」
私は、昨日こっそり書き写しておいた、ノートの片隅の殴り書きを差し出した。
『ライ麦、30%。黒糖、少々。……あいつの好きな、あの味』。
源さんはそのメモを奪い取るように見つめると、その瞳に一瞬だけ、鋭い職人の光が宿った。
「……ライ麦パンか。……キヨが、最後に食べたいと言ったパンだ。……だが、どうしても思い出せんのだ。……あの香ばしくて、少し酸っぱくて、それでいて喉を滑るような、あの『黄金の味』が」
2. 幻のレシピを追って
源さんの記憶から零れ落ちた「黄金の味」。
私は、源さんのレシピノートを借り、夜通し調べた。銀座時代の華やかなレシピの数々。けれど、その最後に記されていたのは、あまりにも質素で、不恰好なライ麦パンの試作記録だった。
「……一ノ瀬さん。私、源さんと一緒に、このパンを焼きたいんです」
翌朝、私は一ノ瀬さんに直談判した。
「……源さんが、奥さんに食べさせたかったパン。……記憶が全部消えてしまう前に、一度だけでいいから、納得のいくものを焼かせてあげたい」
一ノ瀬さんは、スマホのパズルゲームの手を止め、私をじろりと見た。
「……森下。お前、まだ分かってねえのか。……源が求めてるのは『レシピ』じゃねえ。……『あいつが笑ってくれた、あの瞬間』だ。……過去は戻らねえ。味覚の記憶ってのは、残酷なんだよ」
「……分かってます。でも、源さんは今、その記憶の欠片を必死で繋ぎ止めようとしてる。……それを手伝うのが、私たちの仕事じゃないんですか!」
一ノ瀬さんは、深く溜息を吐き、椅子を鳴らして立ち上がった。
「……勝手にしろ。ただし、材料は一ノ瀬の自腹だ。……失敗したら、一ヶ月、俺のパズルゲームのレベル上げを代行しろよ」
それが一ノ瀬さんなりの「GO」の合図だった。
3. 共鳴する「勘」と「技術」
「……源さん、始めましょう。ライ麦、用意しました。……黒糖は、この沖縄の、一番濃いやつを使います」
源さんは、最初は「素人が余計なことを」と毒づいていたが、ライ麦の独特の土の香りを嗅いだ瞬間、その顔つきが変わった。
彼は震える手で粉を掬い、指先でその粒子を確かめる。
「……ライ麦は、気難しい。……捏ねすぎれば粘り、放っておけば膨らまん。……キヨは、この気難しさが自分に似ていると言って、笑っていた……」
源さんは、夢遊病者のような足取りで作業台に向かった。
私は横で、彼が忘れがちな分量を、さりげなく、指示ではなく「独り言」のように呟きながらサポートした。
「……あ、水はこれくらいでしたっけ。……塩は、こっちかな」
源さんは私の言葉を無視しているようだったが、その指先は、私の呟きに合わせて正確に動いた。
不思議な光景だった。
源さんの「脳」は記憶を失っている。けれど、彼の「筋肉」と「細胞」は、数十年繰り返したリズムを、魂の奥底で覚えていたのだ。
捏ねの作業。源さんの腕が、以前の力任せな動きから、滑らかな円を描く動きに変わっていく。
そこに、ヒロくんがやってきた。
ヒロくんは、いつもの「三、二、窓」のリズムで身体を揺らしながら、源さんの隣に立った。
「……じいじ、いい音。……パン、歌ってる」
ヒロくんの言葉に、源さんは一瞬、手を止めた。
「……歌ってる、か。……そうだな。小僧。……パンが喜ぶ音を、忘れていたよ」
自閉症の青年と、認知症の老職人。
二人の間には、言葉によるコミュニケーションは存在しない。
けれど、生地を叩くリズム、粉が舞う空気、そして「良いものを作りたい」という純粋な祈りが、その空間を共鳴させていた。
4. 黄金の夕暮れ、あわいの味
焼き上がったライ麦パンは、夕暮れの陽光を浴びて、深い褐色に輝いていた。
あおぞら工房の安物のオーブンから、銀座の超一流店にも引けを取らない、豊潤で野性味溢れる香りが立ち込める。
一ノ瀬さんが、事務室からゆっくりと出てきた。
彼は、源さんが震える手で切り分けた一切れを、無造作に口に運んだ。
「……どうだ。……一ノ瀬」
源さんは、審判を待つ罪人のような、切実な目で一ノ瀬を見つめた。
一ノ瀬さんは、長い時間をかけて咀嚼し、それから短く言った。
「……不味かねえよ。……だが、源。お前が探してるのは、この味か?」
源さんは、自分の一切れを、大切そうに口に運んだ。
ゆっくりと噛み締め、目を閉じる。
工房に、静寂が流れる。
「……ああ。……これだ。……香ばしくて、少し酸っぱくて。……キヨが、最後に、美味しいねって……。笑って……」
源さんの目から、一筋の涙が溢れ、パンの上に落ちた。
それは、彼が「職人の佐藤」でも、「認知症の老人」でもなく、ただ一人の「キヨを愛した男」に戻った瞬間だった。
技術は消える。記憶も薄れる。
けれど、愛した誰かのために何かを作ったという「手の記憶」だけは、最期まで魂に刻まれているのだ。
「……源さん」
私が声をかけようとした時、源さんはふっと微笑み、パンを持ったまま、その場に座り込んだ。
「……くるみ。……ありがとうな。……私、もう。……満足だ」
源さんの瞳から、先ほどまでの激しい光が消え、穏やかな、凪のような静けさが戻ってきた。
彼は、自分が焼いたパンの温もりを抱きしめるようにして、深く、深い息を吐いた。
「……森下。見たか。……あれが、味覚の記憶だ」
一ノ瀬さんが、私の隣で呟いた。
「……人はな、記憶を失っても、自分が誰かを幸せにしたことだけは、忘れないようにできてるんだ。……それが、絶望の淵で見つける、最後の光だよ」
私は、源さんの背中を見つめながら、涙が止まらなかった。
支援とは、何かを教えることではない。
その人がその人自身であった「証拠」を、消えてしまう前に、共に拾い集めることなのだ。
窓の外では、沖縄の青い海が、夕焼けに染まりながら、寄せては返す波の音を立てていた。
明日には、源さんはまたこの味を忘れてしまうかもしれない。
けれど、今日、この瞬間に彼が流した涙と、黄金色のパンの香りは、あおぞら工房の空気の中に、永遠に刻み込まれたはずだ。
(第24話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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