第13話:メサイアコンプレックスの再燃
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1. 救済という名の免罪符
「……くるみさん、昨日はごめんなさい。僕、一ノ瀬さんに怒られて、パニックになっちゃって。あんな酷いこと言ったの、本心じゃないんです」
翌朝、工房の隅でタクヤくんは消え入りそうな声で私に謝罪してきた。
昨日の冷酷な「チョロいね」という言葉。あの氷のような瞳。それは私の見間違いだったのではないかと思わせるほど、今の彼は弱々しく、守ってあげなければならない小動物のように見えた。
「……いいよ、タクヤくん。私も、無理にさせようとしちゃったから」
「ううん、くるみさんは悪くない。悪いのは僕なんです。僕、小さい頃から親に『お前は何をやってもダメだ』って言われ続けてきて……。だから、誰かに優しくされると、どうしていいか分からなくなって、わざと突き放しちゃうんです。……嫌いにならないでください、くるみさんだけは」
タクヤくんは私のポロシャツの袖を、指先で震えながら掴んだ。
その瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいる。
(……ああ、やっぱり。この子は、愛に飢えているだけなんだ)
昨日の一ノ瀬さんの「マニピュレーター」という言葉が、頭の片隅で警鐘を鳴らす。けれど、それ以上に私の胸を支配したのは、「私なら、この子の孤独を癒してあげられるかもしれない」という傲慢なまでの救済欲――メサイアコンプレックスだった。
一ノ瀬さんは厳しい。けれど、厳しすぎる。
あんなに突き放してばかりでは、タクヤくんの心は壊れてしまう。
彼に必要なのは、冷徹な指導ではなく、無条件の受容と愛なのだ。
私は自分を正当化するように、一ノ瀬さんの教えを心の外側へ追いやった。
「大丈夫だよ、タクヤくん。私はどこにも行かないから。……一緒に頑張ろう?」
「……本当ですか? 信じても、いいんですか?」
タクヤくんはパッと顔を輝かせた。その笑顔は、あまりにも眩しく、そして毒々しいほどに甘かった。
その日から、私とタクヤくんの「特別な関係」が加速していった。
作業中、彼は常に私の隣をキープし、事あるごとに私の意見を求めてくる。
「くるみさん、このパンの焼き色、どう思います? くるみさんが『いい』って言ってくれないと、僕、自信が持てなくて」
「くるみさん、休憩中、一緒に中庭でお茶飲みませんか? 一人だと、また悪いこと考えちゃいそうで……」
私は、彼の要求にすべて応えた。
一ノ瀬さんが事務室でスマホをいじりながら、あるいは居眠りしながら、冷ややかな視線を送ってくるのを感じていたが、私はそれを無視した。
「一ノ瀬さんには、この繊細な心の交流は分からないんだ」
そう思うことで、私は自分が一歩進んだ支援員になったような錯覚に浸っていたのだ。
2. 侵食される境界線
しかし、タクヤくんの要求は、緩やかに、けれど確実に「支援」の枠組みを越え始めていた。
ある日の終礼後、他の利用者さんが帰り支度を整えている中、タクヤくんが私の元へ駆け寄ってきた。
「くるみさん。……あの、お願いがあるんです。これ、どうしても相談したくて」
彼が差し出してきたのは、一枚の古びた写真だった。そこには、幼い彼と、不機嫌そうな表情の女性が写っている。
「これ、僕のお母さんです。……昨日、電話があって。また『お前なんて生まれてこなければよかった』って言われちゃって。僕、昨日の夜、怖くて一歩も動けなかったんです。……今日も、家に帰るのが怖い」
彼の肩が小さく震える。
「……それは、辛かったね。でも、ここ(工房)では私がついているから」
「でも、家に帰ったら一人なんです! 夜、暗闇の中で、お母さんの声が聞こえてくるんです。……くるみさん、助けて。僕、死んじゃうかもしれない。……ねえ、くるみさんのLINE、教えてくれませんか?」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
福祉の現場において、職員と利用者が私的な連絡先を交換することは、絶対に許されないタブーだ。それは、適切な支援関係を壊すだけでなく、依存を加速させ、双方を破滅に導くからだ。
「……タクヤくん。それはできないよ。規則で決まっているんだ。何かあったら、明日の朝、一番に話を聞くから」
「明日じゃ遅いんです! 今夜なんです! 今夜、僕がベランダから飛び降りたら、くるみさんは後悔しませんか!?」
タクヤくんの声が、一変して激しくなった。
「あんなに優しくしてくれたのに、結局、くるみさんも僕を見捨てるんですね! 一ノ瀬さんと同じだ! 偽善者だ!」
「ち、違うの! 私は見捨ててなんていないわ!」
私は狼狽した。彼の「死」という言葉の重みに、私の未熟な正義感が押しつぶされそうになる。
(……連絡先を教えるくらい、いいんじゃないか? 彼の命を守るためなら、規則なんて……)
私が震える手でスマホを取り出そうとした、その瞬間。
「……おい。そこまでだ」
背後から、低く、重厚な声が響いた。
一ノ瀬さんだった。
彼はいつの間にか私の後ろに立ち、私の手首をガシッと掴んで止めていた。
「一ノ瀬さん……っ。でも、タクヤくんが死にたいって――」
「死なねえよ。こいつが死ぬのは、お前から搾り取るエネルギーがなくなった時だけだ」
一ノ瀬さんは、冷徹な視線をタクヤくんに向けた。
タクヤくんは、獲物を横取りされた獣のような目で、一ノ瀬さんを睨みつけている。
「……一ノ瀬さん。邪魔しないでください。僕たちの、大事な話なんです」
「大事な話?……自分の母親をダシに使って、新人を脅迫するのがか? お前のその写真、三年前の担当者にも見せてたよな。あいつはそれでノイローゼになって辞めた。……同じ手口を何度も使うな。芸がねえぞ」
一ノ瀬さんは、私の手からスマホを奪い取ると、それを自分のポケットに放り込んだ。
「森下。お前、自分が何をやろうとしたか分かってるのか。……境界線を引けない支援員は、支援員じゃない。ただの『依存の餌』だ」
「でも、彼は苦しんでいて……!」
「苦しんでいるのは、お前だろ。こいつに『必要とされている自分』を失うのが怖くて、必死になってるだけだ。……自分の虚栄心のために、利用者をさらに深い依存の穴に叩き落とすな。それがお前の言う『愛』か?」
「……っ」
私は、反論する言葉を失った。一ノ瀬さんの言葉は、私の心の奥底に隠していた醜い自己満足を、残酷なまでに暴き出していた。
3. 仮面の崩壊
一ノ瀬さんは、タクヤくんに向かって冷淡に告げた。
「タクヤ。今日はもう帰れ。……もし死にたくなったら、警察か病院へ行け。俺たちは支援員であって、お前の飼い主じゃねえんだよ」
タクヤくんは、しばらくの間、一ノ瀬さんを殺さんばかりの目で見つめていた。
そして、彼はゆっくりと私の方を向き、口角を吊り上げた。
「……くるみさん。がっかりだな。……もっと『使える』と思ったのに。一ノ瀬にビビって、結局あっち側に行くんだ」
その声には、先ほどまでの弱々しさは微塵もなかった。
嘲笑。侮蔑。
彼は無造作に写真をカバンに放り込むと、一言も発さずに工房を出て行った。
足取りは軽く、死を連想させるような重苦しさはどこにもなかった。
私は、その場に崩れ落ちた。
「……私は、何をしていたんでしょう」
一ノ瀬さんは、私のスマホを机の上に無造作に置いた。
「……メサイアコンプレックス。救いたい欲求ってのは、麻薬と同じだ。相手を無能なままでいさせれば、自分はずっと『必要な存在』でいられるからな。……お前がタクヤに注いでいたのは、愛じゃなくて、毒入りの飴玉だよ」
一ノ瀬さんは、窓の外を見つめた。
夕闇の中、タクヤくんが鼻歌を歌いながら、軽快なステップで駅の方へ歩いていくのが見えた。
「……あいつの孤独は本物だ。でもな、その孤独を癒せるのは、お前じゃない。あいつ自身が、自分の足で立つと決めた時だけだ」
一ノ瀬さんは、私に背を向けて事務室へと戻っていった。
私は、自分のスマホを見つめた。
もし、あそこで連絡先を教えていたら。
私は彼を「救って」いたのだろうか。それとも、彼と一緒に、終わりのない闇の中へ沈んでいったのだろうか。
私の手の震えは、なかなか止まらなかった。
支援員という仕事の、薄氷を踏むような危うさ。
相手を想う気持ちが、いつの間にか相手を壊す凶器に変わる。
その境界線の前で、私は自分の傲慢さを思い知り、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「……一ノ瀬さん」
私は、遠ざかる背中に向かって、小さく呟いた。
「……私、まだ、壁になれていませんでした」
一ノ瀬さんは振り返らなかった。
けれど、一瞬だけ、彼の肩が微かに揺れたような気がした。
それは、彼もまた、かつて同じ過ちを犯し、今もその痛みを背負い続けている証拠のように思えてならなかった。
第2章の嵐は、さらに激しさを増していく。
私は、タクヤくんという鏡に映る「自分」を、直視しなければならない。
(第13話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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