第12話:『できない』という武器
あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします
1. 蜜の味
五月の陽光が工房の窓から差し込み、パン生地を膨らませるイーストの香りが、どこか気だるく漂っている。
私は、自分のデスクで昨日の日報をまとめながら、視線の端でタクヤくんの様子を伺っていた。昨日、一ノ瀬さんから「マニピュレーター(心理操作者)」という衝撃的な言葉を聞かされたばかりだ。警戒しなければならない。心ではそう分かっている。
けれど、タクヤくんがこちらを向いて、困ったように眉を下げて小さく手を振ると、私の決意は、春の雪のように頼りなく溶け出してしまう。
「……くるみさーん。ちょっと、いいですか?」
消え入りそうな、か細い声。
私は吸い寄せられるように、彼の作業テーブルへと歩み寄った。
今日のタクヤくんの担当は、焼き上がった食パンをスライスし、専用の袋に詰めていく作業だ。単純だが、パンを潰さないように優しく扱い、袋の口を丁寧に留める根気が求められる。
「どうしたの、タクヤくん。また分からないところがあった?」
「……あの、手が。昨日、頑張りすぎちゃったみたいで、腱鞘炎かな。ここ、ズキズキして……」
彼は右の手首を左手でさすりながら、潤んだ瞳で私を見上げた。
その手首には、赤みも腫れも全く見当たらない。けれど、彼の表情はあまりにも切実で、痛みを堪えている「健気な青年」そのものだった。
「……冷やそうか? それとも、少し休む?」
「休みたくないんです。くるみさんの前で、カッコ悪いところ見せたくないから。でも、パンを持とうとすると、指に力が入らなくて……。ほら」
彼がパンを掴もうとすると、指先が不自然に震え、パンが力なく台の上に転がった。
「ああ、もう! 僕、本当にダメだ……。くるみさんの足引っ張ってばかりで。……僕なんて、いない方がいいんですよね」
彼は自嘲気味に笑い、うつむいた。その拍子に、一筋の涙が頬を伝う。
その瞬間、私の頭から一ノ瀬さんの警告が消し飛んだ。
(……この子は、本当に苦しんでいる。一ノ瀬さんは疑いすぎなんだわ)
「そんなことないよ! タクヤくんは一生懸命やってる。……わかった、今日は私が代わりにスライスするから。タクヤくんは、横で袋のシールを貼るだけでいいよ。それなら、片手でもできるでしょ?」
「……いいんですか? くるみさん、自分の仕事もあるのに。……ああ、本当に、くるみさんは僕にとっての聖母様だ」
タクヤくんはパッと顔を輝かせ、涙を拭った。
その切り替えの早さに一瞬だけ違和感を覚えたが、私はそれを見ない振りをすることに決めた。
作業を交代し、私がリズムよくパンをスライスしていく。
タクヤくんは、私の横でゆっくりとシールを貼る……はずだった。
「あ、くるみさん。そのパン、少し厚さが違うかも。……あ、こっちの袋、少しシワが寄ってますよ。僕、気になっちゃうから、くるみさんが直してくれませんか?」
気づけば、私はパンを切り、袋に入れ、シワを伸ばし、シールを貼る……その全工程を一人でこなしていた。
タクヤくんはといえば、「監督役」のように私の横に立ち、時折「素晴らしい手つきです!」「くるみさんのセンス、尊敬します」と甘い言葉を投げかけるだけ。
私の背中には、冷や汗が流れていた。自分の事務仕事も山積みだ。
けれど、タクヤくんが「くるみさんがいないと、僕の世界は真っ暗です」と囁くたびに、私は自分が特別な存在になったような錯覚に陥り、手を止めることができなかった。
この依存の蜜は、毒だと分かっていても抗いがたいほど甘かった。
2. 剥がされた化けの皮
「……おい、聖母サマ」
冷え切った、底冷えのする声が、私の背後で爆発した。
心臓が口から飛び出しそうになり、私は手に持っていたパンのスライサーを落としそうになった。
振り返ると、そこには一ノ瀬さんが立っていた。
いつもの眠たげな目はなく、そこにあるのは、獲物の喉笛を狙う猟師のような、冷徹な光だった。
「……一ノ瀬さん。タクヤくん、手が痛いって言うから、私が少しフォローして――」
「フォロー?……お前の辞書には、『肩代わり』のことを『フォロー』と書くのか」
一ノ瀬さんは、私が一人で完成させたパンの山を、軽蔑しきった目で見つめた。
そして、彼はタクヤくんの方へ一歩、踏み出した。
「タクヤ。手、痛いんだってな」
「……はい。一ノ瀬さん、僕、本当に痛くて……」
タクヤくんは、再び被害者の顔を作り、震える手で手首を押さえた。
「そうか。じゃあ、今すぐ救急車呼んでやる。腱鞘炎で指が動かねえなら、神経が死んでる可能性があるからな。ついでに精密検査も受けろ。……あ、費用はお前の工賃(給料)から天引きな」
一ノ瀬さんは無表情にスマホを取り出し、一一九番を押そうとした。
タクヤくんの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「え、あ……そこまでじゃ。ちょっと休めば治ると思うので……」
「いや、放置は良くねえ。お前の大事な『女神様』をこんなに酷使させるほどの重症なんだ。徹底的に洗ってもらえ。……さあ、救急車が来るまで、その手を台の上に置け。俺が神経が通ってるか、直接確かめてやる」
一ノ瀬さんが、無造作にタクヤくんの手を掴もうとした、その時。
タクヤくんは、弾かれたように自分の手を後ろに隠した。
その動きは、腱鞘炎の患者とは思えないほど、素早く、力強いものだった。
「……あ」
タクヤくんが、短く声を漏らした。
工房に、重苦しい沈黙が流れる。
彼の手首は、全く震えていなかった。それどころか、隠した手はしっかりと拳を握りしめている。
一ノ瀬さんはスマホをポケットに放り込み、冷たい視線を私に向けた。
「……森下。お前、あいつの召使いになるために、わざわざ大学まで出てここに来たのか?」
「それは……」
「『できない』は、あいつにとっての最強の武器だ。泣けば、困れば、誰かが泥を被ってくれる。……お前が優しさを振りまくたびに、あいつの指先からは力が抜け、脳みそは退化していくんだよ」
一ノ瀬さんは、テーブルの上に散らばったパンの袋を、指先で弾いた。
「このパンを焼いたのは誰だ? ヒロや、他の連中だろ。あいつらが一生懸命、パニックに耐えながら、汗水垂らして作ったもんだ。……それを、あいつの『甘え』と、お前の『自己満足』のために利用するな。汚らわしい」
「汚らわしい……」
その言葉が、私の胸を深く抉った。
私は、タクヤくんを助けていたのではない。
タクヤくんに感謝されることで、「私は良い支援員だ」という免罪符を得ていただけだったのだ。
一ノ瀬さんは、固まっているタクヤくんに向かって、低く、威圧的に言い放った。
「タクヤ。お前の手、もう治っただろ。……あと一時間だ。さっき森下がやった分の倍、一人でスライスしろ。一ミリでも厚さがズレたら、全部やり直しだ。……森下、お前はこいつに指一本触るな。手伝ったら、即刻クビだ」
一ノ瀬さんはそれだけ言うと、背を向けて事務室へと歩き出した。
3. 境界線の向こう側
一ノ瀬さんが去った後、タクヤくんは、しばらくの間、微動だにせず立っていた。
私は、どう声をかけていいか分からず、ただ彼の隣で立ち尽くしていた。
「……タクヤくん」
恐る恐る名前を呼ぶ。
すると、タクヤくんはゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは、先ほどまで「聖母」と私を呼んでいた、あの愛らしい青年ではなかった。
冷え切った、憎しみを湛えた目。
「……余計なこと、しなくていいのに」
「え……?」
「くるみさんが、僕の言うこと全部聞いてくれるから、面白かったのに。……一ノ瀬のせいで、台無しだ」
タクヤくんは吐き捨てるように言うと、乱暴にパンのスライサーを掴んだ。
そして、機械的な速さで、パンを切り始めた。
その手首は、一ミリの震えもなく、正確無比なリズムを刻んでいた。
「……タクヤくん、手が痛いんじゃ……」
「痛いわけないでしょ。……くるみさんって、本当にチョロいね」
彼は、私を一度も振り返ることなく、淡々と作業をこなしていった。
私は、氷水を浴びせられたような衝撃で、その場に釘付けになった。
これまで彼に注いできた私の「優しさ」は、彼にとっては、ただの「暇つぶしの玩具」に過ぎなかったのだ。
私は、事務室のガラス越しに、一ノ瀬さんの姿を見た。
彼は再びスマホをいじり、居眠りしているようにも見える。
けれど、今の私には分かる。
彼は、私がこの「地獄のような現実」を、自力で受け止めるのを待っているのだ。
支援員は、利用者の味方でなければならない。
けれど、「味方」であることと、「共依存」になることは、全く別物なのだ。
私は、タクヤくんから奪っていたのだ。彼が自分の力でパンを切り、達成感を得る機会を。私が「良い人」であり続けるために。
私は、自分の汚れた手を、シンクで何度も何度も洗った。
冷たい水が、掌に染み込んでいく。
タクヤくんのスライサーの音だけが、工房に虚しく響いていた。
「……一ノ瀬さん。私、最低ですね」
事務室に戻り、小さな声で呟いた私の言葉に、一ノ瀬さんはスマホを見つめたまま、鼻で笑った。
「気づくのが遅えよ。……でもな、召使いをクビになった今の顔の方が、マシな面してるぞ」
外は、いつの間にか暗くなり始めていた。
夕闇の中で、タクヤくんが一人でスライスしたパンの山が、不気味なほど完璧な形で積み上がっていた。
それは、私の未熟さと、彼が秘めている「力」を証明する、残酷なモニュメントのようだった。
第2章の試練は、まだ始まったばかりだ。
私は、タクヤくんという名の「鏡」に映し出された、自分の醜さを直視しなければならなかった。
(第12話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
↓下記の評価ボタンをいただけると嬉しいです。よろしくお願いします




