第11話:微笑みのマニピュレーター
あたたかく見守ってくれると嬉しいです。よろしくお願いします
1. 太陽のような闖入者
あおぞら工房の朝は、相変わらずパンの焼ける香ばしい匂いと、一ノ瀬さんのやる気のない欠伸から始まる。
ヒロくんとの一件以来、私は「透明な壁」になることを覚えた。香水は捨て、柔軟剤は無香料に変え、声のトーンは常に一定。ヒロくんの隣に座り、三、二、窓のリズムを静かに見守る。それが私の日常であり、支援員としての誇りになりつつあった。
けれど、その静謐な秩序を木端微塵に打ち砕く存在が、五月の爽やかな風とともに現れた。
「くるみさーん! おはようございますっ! 今日も一段と、仕事ができそうな顔してますね!」
工房の入り口で、キラキラとした擬音が聞こえてきそうな笑顔を振りまいているのは、先週から復帰した利用者のタクヤくんだ。
二十四歳。少し長めの茶髪を無造作にセットし、ポロシャツの襟を少し立てた彼は、一見すると障害があるようには見えない。知的障害は軽度だが、対人関係の距離感が極端に近く、感情の起伏が激しい「境界線」の問題を抱えていると、事前の資料にはあった。
「あ、おはよう、タクヤくん。今日も元気だね」
私が努めて冷静に返すと、タクヤくんは子犬のような足取りで私のパーソナルスペースを軽々と踏み越えてきた。
「元気ですよー。だって、くるみさんに会えると思って、昨日の夜からワクワクしてたんですもん。ねえ、今日の僕の髪型、どう思います? 変じゃないかな。くるみさんに変だと思われたら、僕、今日一日立ち直れないかも」
彼は首を傾げ、上目遣いで私を覗き込む。
その瞳は一点の曇りもなく、純粋な好意に満ちているように見えた。ヒロくんの「拒絶」とは真逆の、過剰なまでの「受容」。
一週間前まで、石像のように座る訓練をしていた私にとって、この「頼られる感覚」は、砂漠で水を飲むような甘美な響きを持っていた。
「……変じゃないよ。よく似合ってる」
「本当ですか!? よかったぁ。くるみさんにそう言ってもらえると、勇気が出ます。あ、今日の作業、僕、くるみさんの隣がいいな。くるみさんと一緒なら、どんなに難しい仕事でも頑張れる気がするんです」
タクヤくんは私の腕を軽く叩き、無邪気に笑った。
その屈託のない笑顔に、私は知らず知らずのうちに頬を緩めていた。
「……じゃあ、今日は袋詰めの作業を一緒にやりましょうか」
「やった! くるみさん、大好き!」
背後で、事務室のガラス越しに、一ノ瀬さんがスマホをいじりながら鼻で笑ったような気がした。けれど、今の私にはその冷ややかな視線よりも、目の前の青年の「必要としてくれている」という熱量の方が、ずっと価値があるように思えたのだ。
2. 依存の甘い罠
作業が始まると、タクヤくんの「甘え」は加速していった。
「くるみさーん、これ、どうやるんでしたっけ? 忘れちゃった」
「えっ、昨日もやったよね? 袋の端を折って、テープで留めるだけだよ」
「あー、そうだった! でも、僕がやるとどうしてもズレちゃうんです。ほら、見てください」
タクヤくんが差し出した袋は、わざとやっているのかと思うほど無残に歪んでいた。
「……もう、しょうがないなぁ。貸して、見本を見せるから」
「わあ、やっぱりくるみさんは天才だ! 指が細くて綺麗だから、動きも滑らかだなぁ。僕、くるみさんの手を見てるだけで幸せです」
彼は作業をする手を止め、頬杖をついて私の手元をうっとりと眺める。
「タクヤくん、手も動かして」
「やってますよー。でも、くるみさんが隣にいると、緊張して手が震えちゃうんです。……ねえ、これ、くるみさんが代わりにやってくれませんか? その間に、僕、くるみさんに面白い話をしてあげますから」
彼は流れるような手つきで、パンのコンテナを私の前へ押しやった。
「えっ、でも、これはタクヤくんの仕事で……」
「お願いしますよぉ。僕、不器用だから、僕がやるとパンが可哀想なことになっちゃう。くるみさんは、パンにも僕にも優しい『女神様』でしょ?」
女神様。
その言葉が、私の心の奥底に眠っていた「救いたい欲」を、心地よく刺激した。
ヒロくんとの間には、決して存在しなかった「言葉による賞賛」。
私が何かをしてあげれば、彼は喜び、私を全肯定してくれる。
支援員として、これほど報われる瞬間があるだろうか。
私はタクヤくんの楽しげな身の上話を聞きながら、いつの間にか彼の分の袋詰めまで手を動かしていた。
タクヤくんは一言も発さず、ただ私の作業を眺め、時折「すごい!」「さすが!」と合いの手を入れる。
私の額に汗が滲む。けれど、感謝されているという実感が、その疲れを麻痺させていた。
「……おい、森下」
突然、背後から氷のような声が降ってきた。
振り返ると、いつの間にか一ノ瀬さんが事務室から出てきて、私たちの作業テーブルの前に立っていた。
その目は、いつになく冷徹で、獲物を定める猛禽類のように鋭い。
「……何ですか、一ノ瀬さん。今、忙しいんですけど」
「忙しい?……誰が?」
一ノ瀬さんは、私がせっせと片付けているタクヤくんの分のパンの山を、顎でしゃくった。
「お前、あいつの『召使い』に採用された覚えでもあるのか?」
「召使いなんて、失礼ですよ! タクヤくん、手が震えるって言うから、私が少し手伝ってるだけで……」
「手が震える? へぇ」
一ノ瀬さんは、テーブルの端に置かれていたタクヤくんの私物――最新型のスマホを、ひょいと持ち上げた。
「タクヤ。お前、さっきまでこのスマホで、秒間十連打の音ゲーやってたよな。その時は一ミリも震えてなかったぞ」
タクヤくんの顔から、一瞬だけ、完璧な「無邪気」が剥がれ落ちた。
氷のような冷たい視線が一ノ瀬さんに向けられたが、それはコンマ数秒のことだった。彼はすぐに、泣きそうな、今にも崩れ落ちそうな被害者の顔を作ってみせた。
「……ひどいよ、一ノ瀬さん。僕、本当に体調が悪くて……。くるみさんは優しくしてくれたのに、なんでそんな意地悪言うんですか? 僕、もう悲しくて仕事できない……」
タクヤくんは机に突っ伏し、大げさに肩を震わせ始めた。
「あ、タクヤくん、大丈夫だよ! 一ノ瀬さんは言い方がきついだけで……」
私は慌てて彼の背中に手を置こうとした。けれど。
「どけ、森下。……二度目だぞ」
一ノ瀬さんの腕が、私の肩を力強く、けれど静かに制した。
「お前がやってるのは『支援』じゃない。あいつから『失敗する権利』と『成長する機会』を奪う、ただの『搾取』だ」
「搾取!? 私が、彼から奪ってるって言うんですか!?」
「そうだ。……あいつはな、お前のその安っぽい同情心をハッキングしてるんだよ。微笑み一つで他人に泥を被らせる、立派なマニピュレーターだ。お前が甘やかせば甘やかすほど、あいつの足腰は腐っていく。……それが分かんねえなら、お前は支援員失格だ」
一ノ瀬さんは、泣き真似を続けているタクヤくんを一瞥もせず、私を事務室へと引きずっていった。
3. 透明な牙
事務室の扉が閉まると、一ノ瀬さんは私の前に、タクヤくんの過去の支援記録を叩きつけた。
「よく見ろ。歴代の新人支援員は、全員あいつに捕まって、三ヶ月で潰れてる。……あいつは『可哀想な自分』を演じることで、他人のエネルギーを吸い尽くす化け物なんだよ」
記録には、歴代の担当者がタクヤくんの私的な要求に振り回され、精神を病んで辞めていった経緯が克明に記されていた。
借金の肩代わり。休日中の電話。そして、思い通りにならない時の激しい豹変。
「……でも、彼はあんなに素直で、私のことを……」
「『大好き』って言ったか? 『女神様』って言ったか? ……バカだな。あいつは、お前のことなんて見てねえよ。お前の背負ってる『優しさ』っていう看板を、利用してるだけだ」
一ノ瀬さんは、ポケットから(やはり火はつけずに)煙草を咥えた。
「ヒロは、世界を拒絶することで自分を守ってる。……タクヤは、世界を侵食することで自分を守ってる。どっちも根っこは同じ『恐怖』だ。でもな、森下。侵食を許すことは、共倒れへの道だぞ」
私は、自分の手が震えていることに気づいた。
ヒロくんの時は、近づくことが許されなかった。
タクヤくんの時は、近づきすぎることが罪になる。
支援という仕事の、あまりにも残酷な「両極端」。
窓の外を見ると、工房ではタクヤくんが、泣き止んだ顔で他の職員に擦り寄っているのが見えた。
「くるみさんに怒られちゃって、僕、もうダメです……。お菓子、一口だけ食べさせてくれませんか?」
その横顔には、さっき私に見せたあの「純粋な笑顔」があった。
けれど、今の私には、その笑顔の裏側に、鋭い、透明な牙が見えるような気がした。
「……一ノ瀬さん。私、どうすればいいんですか」
「決まってるだろ」
一ノ瀬さんは、スマホのパズルゲームの「Game Over」という画面を私に向けた。
「……嫌われる勇気を持て。あいつが自分の足で泥沼から這い上がるまで、お前は一歩も手を貸すな。……影になれねえなら、次は『壁』じゃなく『鏡』になれ」
鏡。
タクヤくんの醜さも、甘えも、すべてをそのまま反射して突きつける存在。
それは、好かれたい、頼られたいと願う私にとって、ヒロくんのパニックを止めることよりも、はるかに困難で苦しい試練になることを、私はまだ知らなかった。
五月の風が、事務室のカーテンを激しく揺らした。
新しい戦いのゴングは、もう鳴らされていたのだ。
(第11話・了)
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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