第41話 夢は現れる
『鍵は開いています。どうぞ入ってください』
インターホン越しに聞こえてきたのは、低く落ち着いた声だった。
間宮時雨はドアを開け、室内へ足を踏み入れた。
短い廊下を進む。
突き当たりは、生活感のない広いリビングだった。
大きな一室には、丸机がひとつと椅子が3脚。
それ以外の家具はない。
窓際に、一人の女が立っている。
「お待ちしていました」
ジャージ姿の女が、見た目に似合わない丁寧な声音でこちらを向く。
身長は180センチを優に超えている。ぼさぼさの長い髪に、特徴的なギザギザの歯。
味原しずくが、そこにいた。
時雨は部屋全体を一瞥してから、椅子を引いて座る。
「手間が省けた。感謝する」
同時に、刀の柄からは手を離さない。
味原は何食わぬ顔で微笑んだ。
「お久しぶりですね。間宮時雨さん。輪鈴リナさん」
リナがびくりと肩を震わせながら、ぎこちなく椅子を引く。
全員が座った瞬間、場の空気が静かに張り詰めた。
窓の外には空が見える。
午後の光は強いはずなのに、この部屋だけ温度が一段低い気がした。
「実際に顔を合わせるのは初めてでしょうか。以前の共同作戦の際には、お世話になりました」
味原が懐かしそうに口を開く。
「あれ以来、表で活動する裏の能力者は少なくなりました。平和のために貢献できたことを、私も嬉しく思っています」
「単刀直入に言う」
時雨が遮った。
「味原しずく。お前を公務執行妨害、組織犯罪幇助、並びに複数の重大容疑により逮捕する」
「そうですか」
味原は頷いただけだった。
驚きもしない。笑いもしない。
まるで、雨が降ると聞かされた程度の反応だ。
「否認は?」
「する意味があるでしょうか」
「ある。お前の口から聞く」
「では、半分だけ否認しておきます」
味原は机の上で指を組んだ。
「公務執行妨害という言い方は、少し乱暴です。私はただ、必要な順番で盤面を整えていただけですので」
「盤面、か」
時雨の声は低い。
「司令の画像も、その一環か」
「ええ」
味原はあっさり認めた。
「よく出来ていたでしょう?」
「フェイク画像にしてはな」
「誰が、フェイクだと言いましたか?」
その一言で、空気の密度が変わった。
時雨の目が細くなる。
リナが息を止めたのが、横からでも分かった。
「どういう意味だ」
「言葉通りです」
味原は首を少し傾ける。
「以前、司令と呼ばれる男の手術に、少し立ち会わせていただきました。安心してください。無事に返しましたよ」
時雨は何も言わない。
その沈黙に対して、味原は丁寧に続けた。
「もっとも、あの画像を送った時点で、司令はもう生まれ変わっていたことでしょう」
「ふざけるな」
「ふざけていません」
味原の返答は穏やかだった。
「私はいつでも真面目です」
時雨はリナを見た。
リナの顔は青ざめていた。
「……リナ」
「本当よ」
絞り出すような声だった。
「この人……今、ひとつも嘘をついてない」
それは、時雨が一番聞きたくない答えだった。
刀の柄にかかる手に、力が入る。
司令が任務の後遺症のため、手術を受けたことは知っていた。
「病院に侵入したのか」
「はい」
「脳に細工をしたのか」
「はい」
「警察組織の上を、お前が握っていると?」
「全てではありませんよ」
味原は微笑んだ。
「秩序を、少しだけ上書きしました」
時雨の中で、何かが音を立てて切れた。
刀が半分ほど鞘から抜かれる。
金属の冷たい音が、静かな部屋に鋭く走った。
リナが椅子を鳴らして立ちかける。
「時雨!」
味原は、動かなかった。
いや、動く必要がないと知っている顔だった。
「殺しますか?」
その問いは、あまりにも静かだった。
挑発ですらない。
ただ、確認するような口ぶり。
「お前はやりすぎた」
時雨の声は、もう捜査官のものというより、刃に近かった。
「自由意志に対する宣戦布告だ。ここで斬られても文句は言えない」
「もちろん」
味原は頷いた。
「ですが、私が死んだら、この世界は少し、止まってしまうかもしれません」
時雨の動きが止まる。
味原はそこで初めて、少しだけ目を細めた。
「比喩ではありません」
机の上に置かれたスマホを、味原は指先で軽く叩く。
「物流。医療。行政。警察。裏から整えているものが、思っているより多いんです」
「脅しか」
「事実です」
リナが唇を噛む。
「……本当よ」
震えた声だった。
「この人、自分がいなくなった後の混乱まで、ちゃんと計算に入れてる」
時雨は刀を握ったまま、動かない。
味原はその沈黙を肯定と受け取ったのか、柔らかく笑った。
「短慮な方ではなくて安心しました」
「世界のために……お前だけは、お前だけは斬らなければ……」
時雨の腕が震えている。
味原は笑みを崩さない。
「いつか選択できますよ。あなたは、レイジ君に近い」
その言葉に、時雨の目つきが鋭くなる。
「彼を口にするな」
「では、“あの人”と言い換えましょうか」
味原は素直に従った。
「あなたも、私も、結局は同じなんです」
「同じだと?」
「ええ」
味原は窓の外へ一度だけ視線を向ける。
遠く、港に光が反射している。
「仮初の平和でもいいから、あの人に普通の毎日を生きてほしい。そう願ってしまった」
その声音だけが、ほんの少しだけ人間らしかった。
「違うのは、手段だけです」
時雨は刀を戻さないまま問う。
「目的を話せ」
「簡単です」
味原は答える。
「ミレイを殺します」
あまりにも静かな宣言だった。
リナが目を見開く。
「……あなた、裏の人間よね?」
「そうですね」
「できるの?」
「しますよ」
味原は笑ったまま言う。
「私は、あの人に裏へ戻ってほしくないんです」
「まるで知っているかのような口ぶりだな」
時雨が低く返す。
「知っていますよ」
味原は小さく首を傾げた。
「世界の側は、何度でも彼を“そういうもの”にしたがります。零番。特別。怪物。最強。なんでもいいですけど」
そして、机に肘をつく。
「だから、壊すのです。彼をそう呼ぶ口も、そう仕向ける手も、そう信じる流れも」
「そのために我々だけでなく、あの人自身も騙し続けたのか」
「あの人は私を信用してくれています」
恋する乙女のように、うっとりとした顔を見せる味原。
時雨は刀を少しだけ戻した。
だが、手は離さない。
「なぜ、私にそれを話す」
「あなたが一番、彼に近いからです」
「お前ではないのか」
「残念ですけど、違います」
味原は笑う。
「全ては遡れなかった。でも、あなたがあの人……レイジ君の核になっていることは間違いないです」
寂しそうな笑いだった。
時雨を、勝てない、それでも羨ましい存在だというように見ている。
嘘がない。
「あなたは、レイジ君に普通に生きていてほしい。違いますか?」
時雨は答えない。
味原があの人を名前で呼んでいることすら、気にならなかった。
「出会って数か月のレイジ君を、あなたは守りたいと思った。違いますか?」
薄々気づいていた。
初めてレイジさんと出会ったあの日。
いや、初めてあの人の事件を担当したあの日。
心が不自然に逆流した、あの日。
「羨ましい」
悔しそうな声だった。
静かな沈黙が落ちる。
港の光。冷えた部屋。抜かれかけた刀。
その中央で、味原は笑っていた。
「なぜそこまでする!?」
ついに時雨が声を荒げた。
それは捜査官としての問いではなかった。
味原しずくに対する問いでもなかった。
人間としての問いだ。
間宮時雨に対する問いだ。
――なぜ、そこまで執着するのか。
味原は、そこで初めて本当に嬉しそうに笑った。
ギザギザの歯が見える。
目だけが、ひどく静かだ。
「一人のため」
その答えは、あまりにも単純で、あまりにも狂っていた。
*
午後の相談者が帰り、俺は事務所のソファに寝転んでいた。
間宮時雨のいない、平和な午後だ。
「レイジは夢を見る?」
シオンが急に声をかけてきた。
「見ないな。毎日ぐっすりだ」
俺は天井を見ながら答えた。
「そう……」
シオンの声は、蝉の鳴き声にかき消された。
──夢を見るか?
その答えは、『見る』だ。
慣れてしまった夢の内容。
俺が死ぬ夢。
不死ではない俺が、最後を迎える夢。
その時の俺がどんな顔をしていたのか。
それだけは、覚えていない。
「俺、死ぬかもな……」
ぼそっと漏れた言葉。
さっきの相談者が見た予知夢。
そして、間宮時雨の反応。
「いでっ」
シオンが、俺の腹の上に座った。
「大丈夫。レイジは死なない」
元気づけているのかどうかも分からない、平坦な声。
俺は少し恥ずかしくなって、頭を掻いた。
「夜、何がいい?」
話を逸らすように、夕食のことを聞く。
「牛丼」
即答だった。
「そうだな。牛丼にしよう」
先週食べたばかりなのに、妙に久しぶりな気がした。
「おろしポン酢でもトッピングするかね」
暑い日は、さっぱりいきたい。
シオンが眉間にしわを寄せて、俺を見る。
「それはダメ。牛丼は醤油。甘辛系。ポン酢は酸っぱい。これは冒涜。許さない」
「急にどうした?」
俺はシオンを腹の上からどける。
そのまま立ち上がり、ひとつ伸びをした。
「まあ、食ってみろって。うまいから」
軽く笑って、渋い顔をするシオンの頭を撫でる。
「経験……」
真剣な声でそう言われると、余計に可笑しくなる。
「経験だ。意外と、その先に当たりがあるかもしれないぞ」
シオンが隣にいる毎日は、もう十分に非日常だったはずなのに、それすら日常の顔をしていた。
だからこの時の俺は、この先のことなど何ひとつ想像していなかった──
次話より第四章に入ります。




