第42話 鈴の音
真夏の朝は、少しだけ世界を雑にする。
窓から差し込む光は強すぎて、カーテンの隙間にすら遠慮がない。
目を開けた瞬間に、今日が暑いのだと分かる。
俺はソファの上で小さく息を吐いてから、壁に掛けられた時計を見る。
7時12分。
少し遅い。
だが、平凡な朝だった。
今日は当たりでも大当たりでもない。
少なくとも、起きた瞬間はそう思った。
今日の能力は、妙なものだった。
感覚拡張系と言っていいのかすら分からない。
とりあえず、聴覚に関する能力だ。
音の残響。
正確に言うなら、一度聞いた音を、ごく短い間だけ頭の中で鮮明に反復できる能力らしい。
録音でも再生でもない。耳で拾った音の“余韻”を、少しだけ長く掴めるだけ。
音の専門家なら使い道もあったのだろうが、俺は素人だ。
音が聞こえるだけで、その分析までできるわけじゃない。
「……いや、俺の勘違いか」
独り言をこぼしながら起き上がる。
俺は経験から、能力の系統くらいは把握できる。
だが、毎日得る能力は実質すべてが新作だ。
だから、さっき脳裏に響いた“あの音”も、勘違いだろう。
昨日の俺は、珍しく午前零時前に寝てしまった。
身体が自然に、その選択肢を取った。たまにあることだ。
そして、そういう時に限って夢を見る。
──午前零時、俺が死に、鈴の音が鳴る夢を。
それが怖くて、いつからか寝る時間をずらしていたのかもしれない。
相談所の2階。見慣れた天井。見慣れたリビング。
ここは現実だ。
キッチンへ向かい、簡単に朝の支度をする。
冷蔵庫を開け、卵と食パンを取り出し、フライパンを火にかける。
じゅう、と油の音が鳴る。
その音が、今日の能力のせいで妙に耳に残った。
じゅう。
じゅう。
じゅう。
ちりん。
脳内で反響する音に、俺は頭を押さえた。
「……くだらないな」
自分で言って、少し笑う。
能力というものは、そもそも不確定だ。俺は理解している気になっているだけなのかもしれない。
いつもの1日が始まる。
事件も面倒も、何も起きないまま終われば、それでいい。
「それにしても、シオン、遅いな……」
いつもなら、朝食ができる頃には起きてくるシオンだったが、今日は物音すらしない。
トーストに目玉焼きを乗せ、テーブルに置く。
テレビでは朝の情報番組が流れていたが、内容は頭に入らなかった。
その代わり、不意に別の音が耳の奥で鳴った。
鈴の音。
ちりん、と小さく澄んだ音だった。
「……は?」
今、この部屋でそんな音はしていない。
脳内で反響したわけでもない。
俺は急いでスマホを確認する。
カメラに映っていたのは、半開きになった事務所のドアだった。
防犯機構の作動による警告は鳴っていない。
胸の奥がざわつく。
家を出て、階段を駆け下りる。
照り返しの強い道路。
向かいの建物の壁。
電柱。
蝉の声。
どこにでもある夏の朝の景色。
──現実だ。
俺は事務所の中へ入る。
応接用のソファに、1人の少女が座っていた。
「誰だ」
警戒を解かずに問う。
白いワンピース。年齢は十代半ばくらいか。
長い赤髪が、陽に照らされて燃えている。
知らない顔だった。
「やっと思い出したよ」
少女は笑いながら言った。
「誰だと聞いている」
「私は昔、彼女に出会っていた」
話が噛み合わない。
少女は正面を向いたまま、勝手に話し続ける。
「目的が変わった。……いや、本質的には変わってないのかもね」
少女は立ち上がり、左手をゆっくりと上げた。
時間が止まっているようだった。
「死んでくれる?」
手のひらが俺に向く。
その瞬間だった。
少女の背後に、ふたりの人影が現れた。
空間が裂けた残滓が、亀裂のようにその場へ残っている。
「……時雨さん? それに味原!?」
スーツ姿の間宮時雨。
ジャージ姿の味原しずく。
俺は動けずにいた。
少女の首元には、刀が突きつけられている。
「ミレイ。お前を逮捕する。現行犯だ」
時雨が冷たい声で宣言する。
少女――ミレイは、少しも慌てなかった。
刃を喉元へ突きつけられたまま、肩をすくめて笑う。
「怖いね。急に2人がかり?」
「抵抗するな」
「あの間宮時雨にそう言われると、従うしかないね」
ミレイは時雨ではなく、俺を見た。
視線が合った瞬間、背筋が粟立つ。
知らないはずの相手なのに、その目だけは妙にこちらを知っているように見えた。
「不死の零番。いえ、レイジさん。おはようございます」
状況に似つかわしくないほど、丁寧な挨拶だった。
味原が一歩前へ出る。
手には注射器。
「ミレイさん、ここで消えてください」
「消えてください、か」
ミレイはくすりと笑う。
「あなたは“一人”のために、何人を消しましたか?」
味原の目が細くなる。
だが、表情は崩れない。
「零番が実在すると世に知られたことで、裏の能力者は彼を狙った。ですが全員、綺麗さっぱり消えてしまった。最大の敵は間宮時雨ではなく、あなただったのですね。味原しずくさん」
味原は答えない。
そのまま、ミレイの首元に注射器の針を当てた。
何も起きない。
味原が目を見開く。
ミレイは人差し指を立てる。
それから、天井を指した。
上。
住居部分の2階。
俺はなりふり構わず、駆け出した。
「また会いましょう、レイジさん」
その声さえ、最後は遠かった。
階段へ向かって駆ける。
嫌な想像が、いくつも頭をよぎる。
間に合わなかったらどうする。
何をされた。
夢の中の鈴の音。
倒れている誰か。
あの少女。
嫌な断片ばかりが繋がっていく。
2階へ飛び込む。
「シオン!」
リビングに入った瞬間、声が止まった。
テーブルに、シオンがいた。
いつも通りの無表情で椅子に座り、目玉焼きの乗ったトーストを食べている。
二人分の朝食。
つけっぱなしのテレビ。
何ひとつ変わっていない。
ただ、シオンだけが、そこにいた。
肩で息をしながら、俺は一歩近づく。
「誰かいたか?」
シオンは小さく首を横に振る。
嘘をついているようには見えない。
そもそも感情の見えない子だ。俺では判断できない。
「本当に、何もなかったのか?」
もう一度聞く。
シオンはまた、首を横に振る。
それから、手元のトーストへ視線を戻した。
テーブルの上には、いつの間にかポン酢が置かれている。
シオンはトーストに乗った目玉焼きの黄身を少し崩し、ポン酢をかけた。
真剣な顔でひとくち食べて、少しだけ目を見開く。
「……これは当たり」
俺は乾いた笑いを浮かべた。
早朝から疲れた。
それでも、シオンの言う“当たり”だけが、なぜか脳裏で反響していた。




