第40話 上書き
関東県の中枢。
港に面し、高層ビルが立ち並ぶ一角に、そのタワーマンションはあった。
間宮時雨はエントランスの受付で、管理人に警察手帳を提示した。
「警察だ。4404号室の住人、味原しずくに用がある。できれば騒ぎは起こしたくない。協力してもらえるか」
管理人の喉が、目に見えて上下した。
無理もない。
目の前にいるのは、あの間宮時雨だ。
「は、はい……ですが、その、味原様は……」
「不在が多い、とでも?」
時雨が先回りして言うと、管理人はますます顔色を悪くした。
「い、いえ……その……」
「答えなくていい」
時雨は警察手帳をしまい、代わりに封筒から書類を少しだけ見せた。
「必要な法的手続きはすべて済んでいる。こちらとしても、できれば穏便に済ませたい」
味原しずくが、この管理人を脅している可能性は十分にある。
「あなたの立場で、住人の情報を軽々しく話せないのは理解している。だが、国家の治安維持のため、ご協力いただきたい」
時雨は頭を下げた。
管理人は、ほっとしたような、逆に追い込まれたような顔をした。
「し、少々お待ちください」
受付の奥へ消えていく背中を見送りながら、時雨はいつでも能力を使えるよう、静かに意識を切り替えた。
エントランスには冷房が効いていたが、外から引きずってきた熱がまだ皮膚に残っている。
隣で、輪鈴リナが小さく息を吐いた。
「あれはフェイク画像。それなのに令状まで取るなんて……本気なのね」
時雨は少しだけ黙った。
だが、その沈黙は迷いではない。
「画像が本物かどうかは、今の時点では本質ではない。味原しずくは、あの人に一番近い人物だ。口実があるのなら、ありがたく使わせてもらう」
視線は正面のまま。
リナが肩をすくめる。
「司令の所在を確認するまで、私でも分からなかったわ。見事に騙されたってわけ」
「だから気になる。奴はなぜ、我々を挑発した」
時雨は眉間にしわを寄せた。
味原しずくは、時雨が動くことを前提に、あの画像を送ってきた。
呼び出すためではない。
見せつけるためだ。
事実かどうかなど、もはや重要ではない。
嘘でも届く。
届いてしまえば、人は動く。
そういう時代だ。
「……世の中は嘘だらけ、って教えたいのかしらね」
リナが独り言のように言う。
時雨は横目で彼女を見る。
「そう思うか……」
「あの女は、事実より先に印象で盤面をひっくり返す。行動原理すら不明で、めちゃくちゃなのよ」
「どうだろうな。味原しずくのおかげで犯罪が減った。これだけは事実だ」
「そうね。でも、全部が作られてるように見えるのはなぜかしら」
リナはエントランスのガラス越しに外を見た。
「“あんたたちが信じてる秩序なんて、嘘で上書きできる”って見せつけたいのかも……」
時雨はその言葉を否定しなかった。
司令の画像は、そのためにあまりに出来すぎていた。
白い光、無機質な手術台、拘束具、虚ろな視線。見る者が最短で最悪を想像する構図だ。現実である必要すらない。現実らしく見えれば足りる。
だからこそ、あれは悪質だった。
「やりすぎだ。冗談では済まされない」
時雨は静かに言った。
リナは珍しく真面目な顔で頷いた。
「味原しずくは、間宮時雨をご指名みたいね」
その言い方に、時雨は一瞬だけ目を細める。
そう。
あの画像は、特能でも県警本部でもなく、時雨個人に送られてきた。
そこには明確な意図がある。
組織ではなく、間宮時雨を動かすための画像。
つまり、彼女は知っているのだ。
時雨が今、誰を守ろうとしているのかを。
「味原しずくは、こちらの動きを把握している」
時雨が言うと、リナは諦めたように笑った。
「今さらでしょ。あの女、最初からこっちの一歩先にいるつもりで動いてるもの」
「つもり、か……」
「実際そうなってるのが、もっと困るけど……」
短い沈黙。
管理人が戻ってくるまでの、わずかな時間ですら落ち着かなかった。
ここはただの高級マンションのエントランスのはずなのに、すでに別の領域へ足を踏み入れている感覚がある。
表の秩序で作られた建物の中に、裏の頂点が住んでいる。
考えてみれば、それ自体がひどく皮肉だ。
やがて、管理人がカードを手に戻ってきた。
「お待たせいたしました。こちらがカードキーになります。44階へは、こちらをかざしていただければ……」
「助かる」
時雨は受け取り、そのままエレベーターへ向かった。
中に入り、扉を閉めようとした、その時だった。
「味原様から、伝言です」
管理人が言った。
ドアが閉まりきる直前だった。
「穏便に、お願いします」
管理人は、自分の側頭部を指でとんとんと叩いた。
先ほどまでの怯えた表情は、もうどこにもなかった。
代わりに浮かんでいたのは、まるで別の何かが中から覗いているような、妙に明るい笑み。
だが、その目だけはひどく空っぽだった。
扉が閉まる。
鏡のように磨かれた内壁へ、2人の姿が映り込む。
エレベーターが上昇を始めた。
「……見た?」
リナの声が少しだけ掠れていた。
「ああ」
時雨は短く答え、背負った鞄から刀を抜いた。
「ちょっと時雨! 『穏便に』って言われたばかりじゃない!」
「そうも言っていられない。このマンション、全員が敵だと思え」
「そんな……」
言いかけたリナが、そこで口を閉じる。
数字が上がっていく。
12。18。25。31。
ただ昇っているだけのはずなのに、箱の中の空気が少しずつ別のものに塗り替えられていくようだった。
静かな密室。人工的な冷気。無音に近い機械音。
その全部が、妙に神経を逆撫でする。
管理人の笑みが、まだ目に残っていた。
あれはたちが悪い。
エレベーターの壁に映る自分の顔が、ひどく冷えて見える。
「顔、怖いわよ」
横からリナが言った。
「元からだ」
「今日はいつもの3割増し」
時雨は否定しなかった。
36。39。42。
上がるほどに、現実が遠のいていくような感覚がした。
乾いた電子音。
エレベーターが止まる。
扉が開いた。
最上階の廊下は、ホテルのように静かだった。
4404号室は、突き当たり。
時雨とリナは無言のまま歩く。
距離は短い。だが、妙に長く感じた。
絨毯に吸われているはずの足音が、それでも消えきらず、遅れて背中をついてくる気がする。
味原しずくは、この先で何を言うつもりなのか。
嘘の画像を送りつけ、時雨をここまで引っ張り出した理由は何か。
挑発。
牽制。
あるいは警告。
どれでもあり得る。
だが、どれでもない可能性もある。
地位。秩序。常識。善意。
味原しずくとは無縁の言葉たちだ。
ここにあるのは、もっと別のものだ。
──静かで、手際のいい狂気。
黒い扉。磨かれた表札。何の変哲もない高級住宅の入口が目の前にある。
それなのに、その向こうだけが別の世界みたいだった。
時雨は一度だけ息を整える。
右手に逮捕状。左手はいつでも動ける位置に。
リナも、軽口を消して隣に立つ。
「行くぞ」
短く告げて、時雨はチャイムへ指を伸ばした。




