第35話 一本の映画
能力者たちが一目散に逃げ出す。
動けない者は、その場で気絶した。
そんな中、ひとりだけ。
俺に向かって歩いてくる男がいた。
「天使に続いて、神に出会えるとは。私も幸運だな」
──ノア・ブラッドウッド。
神社で会った時とは違う。
写真通りの姿だった。
言い回しが台詞臭く、動きまで演技みたいだ。
俺は冷静にノアを見て、静かに問う。
「神殺しでも試してみるか?」
……恥ずかしい。
冷静に考えたら、神だの天使だの、現実離れしすぎている。
今さら引っ込められないのが、一番恥ずかしい。
ノアは笑い、右手を天に掲げた。
「それが私の役だとしたら、全力で演じて見せよう」
俺は身構えたが、すでに遅かった。
体中の感覚が、一瞬で消える。
気づいたときには肉体が、細切れに裁断されていた。
痛みが来る前に、視界がほどける。
血の温度すら分からない。
重力だけが残った。
だが――すぐに結合する。
赤黒いものがうごめき、肉を寄せ、骨を押し戻す。
血管が繋がり、皮膚が張る。
呼吸が戻る。
ノアが納得したように頷いた。
「どこかに核があるわけではないようだ」
俺は息を吐く。
「これが限界か?」
ノアの目尻から、血が流れていた。
ひとつの斬撃を、ひとつの物理現象として再現する。
この数を維持するのは、相当な負荷のはずだ。
「参ったな。勝てる映像が、まるで浮かばない」
ノアは楽しそうに笑った。
「だったら諦めろ」
俺はノアに近づく。
一歩。
一歩。
距離が縮まるたび、空気が硬くなる。
ノアは逃げない。
視線の先は、俺の左腕。
透明な刃。
斬撃の再現。
反応はできても、回避はしない。
俺の左腕が落ちた。
遅れて痛みが来る。
断面が熱い。
だが、俺は腕を拾わない。
拾う時間が無駄だ。
俺は踏み込む。
ノアの視線が、わずかに細くなる。
もう数歩歩いたところで、視界が落ちた。
世界が黒くなる。
次の瞬間、戻る。
失血死。
だから治った。
俺は何事もなかったように、前へ進む。
ノアの笑みが、ほんの少しだけ歪む。
「死なないと再生できないのか。不死とは実に不便で、そして興味深い」
「だったら勝てそうか?」
俺は距離を詰める。
攻撃はない。
ノアは見透かした目で言う。
「方法は、用意してあるのだろう?」
俺は答えない。
致死量の麻酔を、いつでも使えるよう準備している。だが、それは最終手段だ。
不死とはいえ、俺は死にたくない。
距離が、ついにゼロになる。
俺は立ち止まる。
「構図だ。違うか?」
再現は距離で安定する。
近すぎると構図が崩れる。撮影と同じだ。
ノアは能力を使わなかったのではない。
使えなかったのだ。
だが、そうだとしたら。
ノアが俺に近づいてきた理由が分からない。
「美しさのためだ。こればかりは仕方がない」
ノアは右足を後ろへ引き、拳を俺に向けて構えた。
俺は意図に気づきながらも、一応聞く。
「なんのつもりだ」
「戦闘シーンのラストは格闘戦だと相場が決まっているのだよ」
「いいだろう」
俺も右足を後ろへ引き、拳をノアのそれに合わせる。
拳と拳の間に、月光が落ちた。
次の瞬間。
ノアが先に踏み込んだ。
速い。
だが、綺麗すぎる。
映画のアクションだ。
当てる角度も、重心の置き方も、見せるために整っている。
俺は拳を上げる。受ける。
骨が鳴った。
痛い。
だが、痛みはいつも通りだ。
俺は一歩、前に出る。
腹へ拳を入れる。
当たったはずなのに、ノアの身体が僅かに逃げる。
衝撃が半分だけ抜ける。
さっきまでの能力じゃない。
ただの受け身。撮影用の受け身。
完璧すぎる動きは、達人の域に達している。
俺はもう一度、今度は容赦なく踏み込む。
ノアの頬をかすめた拳が、皮膚を裂いた。
血が飛ぶ。
ノアが笑った。
「対象年齢を上げよう」
「いまさらだろ」
俺は言って、膝で蹴る。
ノアの脇腹に膝が入る。
鈍い音。
空気が吐き出される。
ノアは倒れない。
倒れないように耐える。耐えて、立っている絵を作る。
俺は胸倉を掴んだ。
引き寄せ、頭突きを叩き込む。
額と額がぶつかる。
ノアがよろける。
俺は追う。
逃がさない。
殴る。
殴られる。
肋が軋む。
歯が鳴る。
泥臭い。
綺麗じゃない。
それでもノアは笑う。
「いい……その顔だ」
俺の拳が、ノアの口元を割った。
ノアの拳が、俺の顎を捉えた。
視界が揺れる。
俺は倒れかけ、膝をつく。
死ぬ気などない。
不死も能力も関係ない。
ノアが息を切らしながら、俺を見る。
「……そうだ。それだ。最後に残るのは、それでいいのだ」
俺は答えない。
拳を振るう。
違う。
何も考えずに、拳は振るわれていた。
ノアが膝をついた。
それでも笑っている。
最後の一発。
俺の拳が、ノアのこめかみを打った。
ノアは嬉しそうに倒れた──
俺はノアの傍らに座る。
月光の下、二人の男が照らされた。
「良い構図だ」
ノアが満足そうに呟く。
「目的はなんだ」
俺は静かに聞いた。
「この瞬間のため、かもしれないな……」
歯切れの悪い言葉だった。
「感謝してる。零番なら、私に触れただけで終わらせられたはずだ」
それは違う。
だが、今さら否定することでもない。
「……聞かせてくれ」
俺は立ち上がり、距離を作る。
ノアの呼吸を見て、追い込みすぎない位置に立つ。
「なぜ、俺の視覚と聴覚を生かした」
あのミイラの現象は、俺の前では再現されていなかった。
ノアは肩をすくめる。
そして、いつもの笑みで言った。
「それだと、綺麗に撮れないだろ?」
その瞬間。
ノアが倒れていた地面が割れた。
ひびではない。
舞台の終わりみたいに、下へ抜ける裂け目。
ノアの身体が沈み、影が薄れていく。
ノアは最後まで監督だった。
俺は長く息を吐き、空を見上げる。
耳鳴りだけが、遅れて静かになった。
その時、背後に誰かが立った。
圧で分かる。
間宮時雨だ。
「あなたは……私の王子さま、なのか?」
意味が分からない問いかけ。
「俺は死神さ」
それだけを言い残し、俺は振り返らず歩き始める。
追われることはない。
ただ、背中に刺さる視線が──どの攻撃よりも痛かった。
*
古びた神社の境内で、ノア・ブラッドウッドは倒れていた。
「天使の顔を拝めないのは、残念だ」
ノアは、隣に立つ少女へ向けて言った。
目は開いているのに、焦点が合っていない。
限界を超えた能力の使用が、視力を削っていた。
「当たりだった?」
少女が静かに聞く。
「どうだったかな」
ノアは笑っていた。
「……そう。でも残念。これで終わり」
少女の声は、淡々としている。
「十分だ。ありがとう」
ノアの意識が、遠のき始める。
「最後に聞かせてくれないか?」
歩き出しかけた少女へ、ノアは言った。
「今回は……面白かったかな?」
足音が止まる。
少しの間の後。
「牛丼の玉ねぎぐらい」
返答は、意味が分からないものだった。
それでもノアは満足する。
口元が、僅かに上がった。
「……それは、甘い評価だ……」
言い終える前に、息が落ちた。
そして、記憶と一緒に、能力は消えていった。
ノア・ブラッドウッドの人生は、誰かに見せるための一本の映画だった。
どこかで鈴が一度だけ鳴る。
風がページをめくるように木々を鳴らし、その音だけがエンドロールみたいに続いていた。




