第36話 表から裏へ
温羅島が復興に励み始めた頃。
あるニュースが、全世界を駆け巡った。
──ノア・ブラッドウッドが日本で逮捕された。
報道によれば、ノアは無人島で茫然と立っているところを発見された。
取り調べの後、身柄は米国へ引き渡された。そういうことになっている。
だが、実際は違う。
関東県警察本部。
時雨は机の上に置かれた写真に視線を落とした。
写っているのは、瓦礫の上に散らばる細い針。
「殺さず、眠らせていた」
時雨の呟きに、リナが眉をひそめる。
「ノアの件もあるし……。この手口……あの人?」
「間違いない。今のところ、刑事の勘でしかないがな」
時雨は眉間にしわを寄せた。
リナが息を呑む。
「つまりあの人と、その……不死の零番? は、同一人物ってこと?」
「おそらくだ」
時雨は答えながら、思い出していた。
戦闘が終わり、零番と呼ばれる存在が姿を消した直後。
第一特別能力捜査隊は、すぐに動いた。
時雨とリナはノアの行方を追い、苅田と才谷は現場で証拠を集めた。
ノアは意外な場所で見つかった。
温羅島の港。
情報を流してきたのは、水無遊。温羅島の管理者だ。
水無は笑いながら言った。
『ノアと一緒に、出て行ってくれないか?』
口調は軽い。
だが、目は笑っていなかった。
時雨はノアの事情聴取をしながら、港で苅田と才谷の合流を待った。
しかし、不思議なことにノアは何も覚えていなかった。
視力を失い、ただ満足そうに微笑む彼は、ほとんど一般人だった。
そのすぐ後だ。
港に二隻の船が近づいてきた。
どちらも軍用。
違うのは、掲げている国旗だった。
米国国旗を掲げた船から降りてきた軍人が、一枚の紙を時雨へ差し出す。
そこには、”司令”と呼ばれる男からの通達。
──ノア・ブラッドウッドを米国に引き渡せ。
時雨はすぐに察した。
上で何か、取引があった。
煮え切らないまま、時雨たちはもう一隻の船に乗り、本土へ戻った。
それから数日。
時雨は今、現場の証拠を整理している。
この情報は、隊以外には共有していない。
今は、外に漏らすべきではない。
「苅田と才谷は休暇中だったな。リナも休め」
「はあ……」
リナが大きく溜め息をつく。
「時雨こそ、ちゃんと休まないと。一番疲れているはずよ」
「問題ない」
時雨は忠告を聞かず、情報を脳内に入れ続ける。
「……レイジさん」
リナがぼそっと言った名前。
時雨の肩が、ぴくっと動く。
「ちょっと調べさせてもらったけど、彼、志町七丁目で能力相談所を営んでいるみたいね」
リナは図星だと言わんばかりに、時雨へ詰め寄った。
「会いに行かなくていいの?」
耳元で囁かれる言葉。
時雨は目を泳がせる。
「私は……」
何かを言いかけて、止めた。
「なになに? 聞こえませんよ、時雨さん?」
リナはいたずらな笑みを浮かべながら、耳に手を当てる。
「私は、浮気者なのだ……」
時雨は唇を噛み、悔しそうに自白した。
殺風景な資料保管庫。
沈黙が落ちる。
「時雨……」
リナの顔が引きつった。
「もう休みなさい……」
本気で心配している声だった。
*
深夜。
平凡な民家の、薄暗いリビング。
二人の女が向かい合って座っていた。
赤い髪の女がテレビに映像を再生している。
画面の中では、赤黒い何かを纏った男が、何度も死に、何度も戻っていた。
「カヤちゃん、ご苦労さま。疲れたでしょ」
赤い髪の女は、視線をテレビから逸らさずに言った。
「気安く呼ばないでちょうだい。私はあなたの部下じゃないわ」
もう一人の女は、表情を変えない。
赤い髪の女は、映像を少し巻き戻しながら続けた。
「これで、伝説が現実に変わったね。レイジと名乗る彼は、もう裏に戻らざるを得ない」
一拍置く。
「……本当に、美しい」
赤い髪の女が、画面に対して素直に呟いた。
もう一人の女が立ち上がる。
「あら、見ていかないの?」
赤い髪の女が残念そうに言う。
「興味ないわ」
もう一人の女は、そのままリビングを出ようとした。
その背に、声がかけられた。
「カヤちゃんは、どうして私に協力してくれるの?」
不思議そうなのに、答えをもう知っているかのような口調だった。
もう一人の女は足を止める。
「質問の意図が分からないわ」
「うーん。単純な好奇心かな」
少しの沈黙。
「……いいわ。教えてあげる」
もう一人の女は、ゆっくり振り返った。
笑っているのに、温度がない。
「ミレイ。あなたが最後にどんな顔をするのか、それを見たいだけよ」
言い残し、もう一人の女は去った。
リビングには、赤い髪の女だけが残る。
映像は流れたまま。
赤黒い再生の瞬間が、繰り返し映し出される。
「零番が実在することは、これで知れ渡った」
独り言みたいに言って、笑う。
「私の夢も、現実になるはずだよ」
画面の男は、また死んで、また戻る。
赤い髪の女は楽しそうに首を傾けた。
「不死は死ぬとき――どんな顔をするのかな」
子供のように無邪気な声。
裏の舞台は、これから本番だった。
*
温羅島から帰って、土日を挟み、今日から平凡な毎日が戻る。
俺は欠伸をしながら、朝食の準備をする。
今日の能力は大当たり。
俺は上機嫌で、トーストのチーズに手のひらを向けた。
市販のバーナー程度の炎。
チーズがとろけ、表面にほんのり焦げ目がつく。
いつでも直火焼き能力。
これで今日の料理は、一段階上を目指せる。
「おはよう」
トーストの匂いに釣られて、シオンが奥の部屋から出てきた。
「ああ。おはよう」
俺は朝食をテーブルに並べ、テレビをつける。
どのニュースもノアについてだった。
どうせ数日もすれば、世間は別の話題に移る。
ノアとの戦いの後、俺は宿へ戻った。
最初、シオンがいなくて滅茶苦茶焦ったが、みつめが安全を考えて避難所へ送っていた。
鷺森はいつの間にか消えていたらしいが、彼女については考えないようにした。
関わってはいけない。
あとのことは島側で処理するとのことだった。
俺はシオンを迎えに行き、同じ避難所で混乱を制御していたイズを連れ、即座に帰ることにした。
そして水無が用意した船に乗り、なんやかんやで我が家へ戻ってきた。
……というわけだ。
判断は正しかった。
経験上、不要な滞在は更なる面倒事を呼ぶだけだ。
俺はそう自分を認めながら、スマホを取り出す。
数百件の通知。
現実が、そこに表示されていた。
「みつめ……もう勘弁してくれ……」
チャットアプリの未読数が、とんでもない。
しかも、ほぼ一人が作った数字だ。
「重い」
シオンがトーストを食べながら、ぼそりと呟く。
俺はみつめに口止めをした。
俺が零番だと、彼女には知られているからだ。
そしてその代償が、俺の連絡先。
毎日のように『おはよう』から始まり、返信が遅れると『捨てないでくれ』が飛んでくる。
朝昼晩かまわず、チャットが降ってくる。
「まあ、付いてくると言い出した時は、ちょっと焦ったけどな」
水無が土下座してまで止めていたのには、素直に同情した。
みつめがいなくなったら温羅島の維持は難しいのだろう。
結局、今度遊びに来ていいからと伝え、俺は逃げるように船へ乗った。
「返信はしておくか……」
俺は『おはよう』とだけ送る。
一瞬で返ってくる。
『おはようレイジ! よかった~! 捨てられたかと思ったよ~!』
怖い。
俺は適当なスタンプを送り、スマホを閉じた。
「シオン。俺はどうすればいい」
「私に聞く?」
「そうだな……」
今日から仕事が始まるというのに、頭が戻り切れていない。
スマホが鳴った。
みつめからの通知音は消してある。別の相手だ。
「今度は誰だ……って、能派か」
能力者派遣会社のアプリ通知だった。
俺がイズを雇うのに使ったところ。
「って、まじか」
返金のお知らせ。
理由欄には『十分なサービスを提供できなかったため』と書かれている。
「また雇うか……」
イズは船内でも頭を下げていた。
俺は満足だと答えたが、彼は最後まで納得しなかった。
「とりあえず、仕事だな」
俺は立ち上がり、身体を伸ばす。
午前は予約がなかったはずだ。掃除でもしておこう。
その時、またスマホが鳴った。
別のスマホ。業務用のほうだ。
嫌な予感がする。
俺は出た。
「はい。能力相談所です」
一言目が来た瞬間、血の気が引いた。
二言目で、俺の声が震える。
三言目……
俺はスマホをテーブルに置き、窓の外の空を見上げた。
晴れている。
平凡な朝だ。
「レイジ、どうしたの?」
シオンが不思議そうに近づいてくる。
「最初のお客さんは……間宮さん、だ……」
俺は遠くを見ながら答えた。
シオンは一拍置いて、短く言った。
「……当たり」
俺は引きつった笑みを浮かべる。
平凡は、戻りそうになかった──
次話より第三章に入ります。




