第29話 懲り懲り
鷺森は俺の反応をどう受け取ったのか、うっとりした目でこちらを見ている。
「その顔。いいわね」
「どの顔だ」
「その顔よ」
最悪だ。
俺は思わず額を押さえた。
「一応確認するが、お前、本当に復讐に来たわけじゃないんだな」
「ええ、違うわ」
鷺森は即答した。
「むしろ逆。お礼を言いに来たの」
「礼を言われる覚えはない」
「あるわ。あなたは私の世界を壊してくれたもの」
「意味が分からなすぎて、恐怖すら覚えるな」
俺が言うと、鷺森は小さく笑った。
「嘘ね。あなたに恐怖という感情はないわ」
「いや、俺でもさすがに――」
俺の口に人差し指が当てられた。
「大丈夫。全部分かっているわ」
ウインクをする鷺森。
普通に怖い。
イズはいつもの丁寧な顔のまま、黙って様子を見ている。
止めないということは、本当に敵意はないのだろう。
それが余計に困る。
鷺森は俺の肩の包帯に視線を落とした。
「痛そうね」
「見れば分かる」
「嘘ね。あなたは痛みを感じないわ」
「いや、俺でも――」
再び、人差し指が当てられた。
「大丈夫。私はあなたの理解者よ」
ウインク。
それは、理解の正反対だ。
話が前に進まない。
いや、進んでいるのかもしれないが、進んでほしくない方向に進んでいる。
「……それで、確認は終わったのか」
俺は考えるのをやめ、心を殺して応対する。
鷺森は俺の目を見て、なぜか嬉しそうにした。
「そう、その目よ。もっと、そのゴミを見るような目で私を見て……」
急に両腕で自分の身体を抱きしめ、悶え始めた。
会話の着地点が見えない。
部屋の中を気まずい空気が流れる。
しばらくして、鷺森は恍惚とした顔のまま答えた。
「あなたが本物かどうか。概ね確認できたわ」
「本物も何も、俺は俺だ」
「ええ。そういうところも含めて、本物」
駄目だ。
言葉の意味が一致していない。
俺が疲れた顔をしていたのか、鷺森は少しだけ表情を和らげた。
「安心して。私はあなたの味方よ。協力できるわ」
俺は眉をひそめる。
「何の話だ」
「あなたが困ることを、少し減らせるかもしれないって話」
言い回しが曖昧すぎる。
だが、昨夜ノアの隣にいた女だ。
持っている情報は軽くないはずだった。
「条件は?」
「ないわ」
「あるだろ」
「強いて言うなら」
鷺森が再度顔を近づけてくる。
額と額が当たりそうな距離。
「あなたが、最後まであなたでいること」
「……意味が分からん」
「分からなくていいわ。今はまだ」
鷺森はそう言って、俺ではなくイズへ視線を向けた。
「いい護衛ね。羨ましいわ」
「恐れ入ります」
イズは一切崩れない。
鷺森は次に、寝ているシオンを見た。
少しだけ目を細める。
「その子も、あなたに救われたのね」
シオンは寝返りを打っただけで、起きない。
みつめがこの場にいなくて本当に良かった。
いたら話がもっとややこしくなっていた。
俺は咳払いをひとつして、会話を切ることにした。
「用件が済んだなら、今日は帰ってくれ」
「帰ってくれ、ね」
「朝から傷病人の部屋でやる会話じゃない」
鷺森はくすりと笑って、素直に身を引いた。
そのままドアへ向かう――かと思ったら、途中で振り返る。
「また来てもいいかしら」
「駄目だ」
できればもう会いたくない。
「即答ね。……最後にもう一つ。確認、いえ、お願いをするわ」
ドアを開ける鷺森の声は、妙に落ち着いていた。
嫌な確信が走る。
お願い、という言葉の置き方。
立ち位置。ドアにかけた手。半身の角度。
予備動作だ。
俺の脳裏に、この後の展開が一気に流れた。
自然と体が動く。
いや、正確には――動かした。
鷺森は満足そうに笑う。
「死んでくれる?」
その瞬間、時間がゆっくり流れる。
鷺森の手には、小さな銃。
袖の内側。手首の返し。隠していたものを滑らせた。
銃口が俺へ向く。
殺意はない。
それでも、引き金を引く指の形は本物だった。
イズが一拍遅れて動く。
護衛としては十分すぎる速度だ。普通なら間に合う。
だが、俺はもう終わらせていた。
――裏の人間を、最初から信用するわけがない。
俺は午前零時過ぎ、トイレに起きるふりをして、一つだけ仕込みをしていた。
ドア脇の床。
木目の割れに紛れるように置いた、細い針。
針先には麻酔。
量は少ないが、刺されば十分だ。
俺の今日の能力は念動力。
笑えるくらい弱い。数グラムしか動かせない。
だが、針一本なら足りる。
視線も、腕も向けない。
必要なのは位置の把握と、きっかけだけ。
鷺森が半身になった瞬間。
扉側の足に体重が乗った瞬間。
その予備動作に合わせて、針を動かす。
引き金より先に、刺す。
鷺森の足首に、針が立った。
「っ……」
小さく息が漏れる。
発砲音は鳴らない。
銃口がぶれた。
指に入るはずだった力が、そこで途切れる。
鷺森は一歩踏み出そうとして、膝を折った。
扉に手をつく。銃が床に落ちる。
乾いた音。
俺は冷めた目でその様子を見ていた。
イズが一瞬で間合いを詰める。
銃を蹴って遠ざけ、鷺森の手首を押さえる。
「失礼いたします」
丁寧すぎる声で、完璧に制圧した。
鷺森は床に片膝をついたまま、肩で息をしている。
それでも、なぜか笑っていた。
「……すてき」
「何がだ」
俺はベッドから動かないまま言う。
「あなたはそういう人」
「くだらんな」
鷺森はうっとりした顔のまま、麻酔で少しずつ力が抜けていく。
「今のあなたの顔、すごく好きよ」
最後に一言言い残し、意識を手放した。
「イズ、もう一部屋借りて、こいつを寝かせてやれ」
「承知いたしました」
イズが鷺森を抱え、部屋を出る。
俺は静かに、針を回収した。
部屋が静かになる。
俺は頭を抱えたくなった。
シオンがベッドの端で、うっすら目を開ける。
「……ばん」
手を銃の形にして、俺へ向けた。
「まあ、起きてるよな」
俺は大きく息を吐く。
冗談じゃない。
こんな朝を何度もやっていられるか。
早く水無のところへ行き、情報を聞かないとまずい。
それが済んだら、今度こそ静かに過ごしたい。
この島は、もう懲り懲りだ。
いや、島というより――裏と関わる日々そのものが、もうたくさんだ。




