第28話 地雷
「知らないな」
俺が答えると、女は気を悪くした様子もなく、首をわずかに傾けた。
「そう。なら、自己紹介からにするわ」
女は丁寧に一礼した。
「鷺森伽耶。今はそう名乗っているわ」
今は、か。
名前そのものより、その言い方が引っかかった。
「姿が変わっているが、昨夜、ノアの隣にいたな」
「ええ。いたわ」
「何の用だ」
「挨拶よ」
「そうか。朝からご苦労なことだ」
俺が言うと、鷺森はふっと笑った。
俺はイズに聞く。
「どうして入れた?」
「鷺森様は、レイジ様の知人だとおっしゃっておりました。わたくしの勘違いでしたら、今すぐにでも――」
「いや、問題ない」
俺は言葉を遮る。
イズが『危険なし』と判断した。その事実だけで十分だ。
俺は鷺森に向き直る。
「ノアの差し金か」
「違うわ」
返答が早い。
迷いもない。
「じゃあ、何だ」
鷺森は俺をまっすぐ見た。
昨夜と同じだ。顔じゃない。骨格や呼吸の癖まで見ている目。
「確認に来たのよ」
「何を」
「あなたが、本当にあなただったのか」
意味が分からない。
俺の沈黙をどう受け取ったのか、鷺森は少しだけ目を細めた。
「やっぱり、知らないのね」
「何をだ」
「あなたが何をしたのか。あなたが、誰として見られているのか」
背中が冷える。
言い回しが、過去を知っている人間のそれだった。
俺は上体を起こす。
傷が引きつったが、無視する。
「回りくどいな。用件を言え」
「そうね」
鷺森は一歩だけ近づいた。
イズがわずかに視線を動かす。止めはしない。
「私は、あなたを殺しに来たわけじゃない」
先にそこを切るのか。
やはり、そういう関係の人間だ。
俺は無意識に、布団の下で手を握っていた。
「……あの組織か」
鷺森の目が、ほんの少しだけ揺れた。
驚きというより、嬉しそうな揺れ方だった。
「ええ」
声が静かに落ちる。
「元・黒曜連よ。七年前、あなたに潰された側」
部屋の空気が変わった。
シオンはまだ寝ている。
イズは沈黙したまま。だが、いつでも動ける姿勢だ。
俺は鷺森から目を逸らさない。
「わざわざ挨拶に来たのか」
「復讐だと思った?」
「違うのか」
鷺森は、今度ははっきり笑った。
冷たい笑みじゃない。
どこか、熱のある笑いだった。
「まさか……」
俺の記憶の断片が、ゆっくり繋がり始める。
鷺森は、迷いなく言う。
「私は、あなたに救われたのよ」
言葉が止まる。
黒曜連の生き残り。
七年前。
救われた。
頭の中で繋がりそうで、繋がらない。
俺は低く言った。
「……あの時の生き残りか」
鷺森は静かに頷いた。
「そう。思い出して、あなたの罪を」
*
七年前。
俺は雨の中、とある街の路上を歩いていた。
背後には高層ビル。
黒曜連の拠点だった場所だ。
もう制圧は終わっている。
ビルの中は静かだった。
上から下まで、動けるやつは残っていない。
なのに、帰り道の方が面倒だった。
応援で呼ばれた能力者たちが、ビルの前に集まっていたからだ。
数は多かった。
能力の種類もばらばらだった。
火を撒くやつ。
床を泥みたいに変えるやつ。
金属片を飛ばすやつ。
触れた場所を痺れさせるやつ。
連携もしていたと思う。
ただ、相手が悪かった。
その日の俺は、不死だった。
胸を撃ち抜かれても、死んで戻る。
首を飛ばされても、死んで戻る。
潰されても、焼かれても、毒を入れられても、死んで戻る。
死にきれないときは、自分で死んだ。
今思えば、頭がおかしい。
雨の中、何度も立ち上がる俺を見て、連中の顔色が順番に変わっていった。
威勢。
困惑。
恐怖。
最後には、誰も前に出なくなった。
逃げたやつもいる。
気を失ったやつもいる。
味方を巻き込んで潰れたやつもいた。
俺は追わなかった。
攻撃の意思がない者など、どうでもよかった。
だから、その場を離れた。
雨は強くなっていた。
服はひどい有様だった。
上着は裂け、袖はちぎれ、シャツは重い。
付いているのが人の血か、自分の血か、もう分からない。
確かなのは、無傷だということ。
さっきまで開いていたはずの穴も、折れていたはずの骨も、もう戻っている。
自分のことなのに、たまに気味が悪くなる。
大通りを外れ、細い路地に入る。
雨に紛れて遠ざかるためだ。
そこで、気配がした。
足を止める。
雨音に混じって、浅い呼吸が聞こえる。
一定じゃない。震えている呼吸だ。
路地裏の奥。
不法投棄された粗大ごみの陰に、人影がうずくまっていた。
若い女だった。
黒曜連の構成員だろう。
着ているスーツで分かる。
能力者かどうかは、この際関係ない。
この状況で隠れている時点で、少なくとも今は無害だ。
女は俺を見た。
目が合った瞬間、肩が跳ねる。
視線が、俺の顔から服へ落ちる。
ボロボロの上着。裂けたシャツ。血。
それから、もう一度、顔に戻る。
たぶんそこで理解したんだろう。
「……化け物?」
女が掠れた声を出した。
質問の形をしていたが、たぶん答えを求めていない。
理解できないものを前にしたときの音だ。
俺は少しだけ考えた。
ここで殺す意味はない。
捕まえる意味もない。
脅す意味もない。
目的は終わっている。
俺は女から目を外した。
「風邪ひくぞ」
自分でもよく分からないことを言った。
女は固まったまま動かない。
まあいい。
俺はそのまま歩き出す。
背中に視線が刺さる。
恐怖だけじゃない。もっと別の、嫌な熱のある目だった。
振り返る気にはならなかった。
*
あのとき路地裏で震えていた若手の能力者が、鷺森伽耶だったというわけだ。
……正直、顔までは覚えていなかった。
「思い出したようね。あなたはあの日、私の心を壊した」
「そうか……すまなかったな」
俺の手は血で汚れている。
今さら、弁解する気はない。
「違うわ。私は救われたの。あなた、今はレイジと名乗っているようね」
「いや、今も昔もレイ――」
俺の言葉は遮られた。
鷺森が俺に顔を近づける。
声音が変わる。口調が変わる。
純粋な乙女みたいな熱を帯びたそれは、不気味なほどに聞き覚えがあった。
「あなたは化け物。もっと私を、壊して」
俺は自然に目を逸らした。
――関わっちゃいけないタイプの人だ。
笑ってごまかしつつ、内心でだけ距離を取る。
過去の俺は、とんでもない地雷を残していた。




