15.微かな糸を手繰り寄せるように
その日、クローゼットから裾が波打つ海のドレスを選んだのは、もしかするとこの扉を開くことを予感していたせいかもしれない。
エステルは、迷宮の部屋に立つ桃色のロマンティックな扉を開けた瞬間、感嘆の息を吐いた。
視界を埋め尽くす砂浜と透明度の高い美しい波打ち際。それだけでも、海を見たことのないエステルにはじゅうぶんに心躍る光景だったが、この砂浜は話に聞く白砂とは違っていた。
一面が淡いピンクで染まっていたのだ。
打ち寄せる波は砂の色を透かして桃色にゆらめき、遠ざかるにつれて鮮やかなアクアマリンの輝きへと色を変える。その繰り返し。
扉を開けたまま言葉もなく立ち尽くすエステルに、彼女の肩越しに海を眺めたウィリアムは「へぇ」と感心の声を漏らした。
「桃色の珊瑚や貝殻が砕けて砂に混じってるのか。踏み入る人間がほとんど居ないせいで汚れることもないんだな」
「海ってどこもこんなにきれいな場所なの?」
「いいや。ここは多分、世界でもいっとうきれいな波打ち際だ。……そもそもこの海が城の外の世界と繋がってるのかもわからないけどな」
「きっと現実には存在しない場所だから、こんなに美しいのね」
エステルはまだ半分夢心地のまま、桃色の砂浜に足を踏み入れた。
そろそろ次の扉を探索しようと話がまとまったとき、ふたりのあいだでいくつかの議論があった。
妹の安否を憂うエステルと、できるだけリスクの少なそうな場所から手堅く調べるべきだというウィリアムの意見のすり合わせだ。
『いくらあの子でも身ひとつで吹雪の中に飛び込もうだなんて思わないだろうし、目新しいものが何もなさそうな場所も敬遠しそうだから……』
『それなら、ひたすら砂地が続いてる砂漠も除外して良さそうだな』
『砂漠まであるの?』
『ああ。扉を開けた瞬間、砂嵐で目が塞がれたよ。あれには参った』
視界の不明瞭な場所ほど、どこから危険が飛び出してくるかわからない。いずれは行かなければならないのだとしても、旅歩きに慣れない内は避けるべきだ。
まだ開けたことのない扉をいくつか選別している内に、絞り込んだ扉のひとつがこの海の部屋だった。
森のそばで育った姉妹には目新しく、危険はあれども急な天候の変化が少ない。――それも、魔法の異空間であるからどれほど信用できるかはわからなかったが。
裾からはねた水飛沫が愛らしい色で染められた砂浜を濡らす。
眩しい日差しに似合う、二世代ほど古い型のドレスは、胸のすぐ下で絞られた身軽なエンパイア型のドレスだ。白と淡青のスカートが、動くたびに色目を変えてきらきらと陽に輝く。
水を纏っているような質感なのに、不思議と脚が透けて見えないのはどういう魔法だろうか。何度も見下ろした自分のドレスをもういちど見回して、それからエステルはぐるりと周囲を観察した。
扉の消えた背後には青い芝生と生い茂る木々が乱立している。その更に向こうがどうなっているのかは、見通しが悪くわからない。対して眼前には、どこまでも続いていそうな青々とした海があった。
水平線は平らかで、ときおり波立ち、不規則な曲線を見せる。鼻腔に絡みつく独特の香りがして、これが潮風と磯の香りというものかと肺いっぱいに吸い込んだ。
人影はやはりない。けれど、どこからか鳥の鳴き声のようなものが聞こえて、エステルは反射的に身を固くした。
「大丈夫、たぶん、ただのウミネコの鳴き声だ」
「うみ……ネコ? 鳥の鳴き声に聞こえたけれど」
「ネコみたいな声で鳴くからウミネコって呼ばれてるんだ。ちゃんと鳥だよ」
ウィリアムの話を聞いて、世界にはまだまだ知らないことばかりだと思い知らされる。自分がいかに小さな世界で生きていたのかということも。
「鳥の鳴き声がするということは、生態系は息づいているのね。その辺りも含めて調べてみたいところだけど、まずはここにもあるはずの“封印”をなんとかしないと」
木々の林を一瞥し、次いで海を見渡してから、少女は隣に佇む男を横目に見上げた。彼も片眉を上げてしたり顔で応じる。
「その辺の雑木林に紛れてくれれば、見つけるのも封印の石を外すのも楽なんだが」
「まぁ、ここは海の部屋だもの。そう簡単にはいかないわよね。海の中を探索するのに、魔法は有効だと思う?」
「一時的にもぐるのに呼吸を確保するくらいはできるだろうが、長時間の探索には向かないだろう。拠点になる船が必要だな」
一瞬、魔法で船を作ろうかと言いかけて、エステルは口を噤んだ。魔法に頼りすぎるなと忠告を受けたばかりだ。
もし海上で魔法が切れるようなことがあれば、ふたりとも一瞬にして海へ飲み込まれてしまう。
(これが便利なものに慣れすぎる、ということなのかしら。……怖いものね)
魔法を使いはじめてほんの数日だというのに、当たり前のようにそれを使おうと考えてしまう。これは危険なものだ。少し油断すれば、あっという間に依存してしまうだろう。
ひやりと胸に流れた危機感を飲み込み、
「じゃあまずは船を……あるいは筏でもいいわ。少し沖まで出られそうな足を探しましょう」
あなたはあっち、わたしはこっちと指さして、浜辺の両端を示した。
三日月型にカーブする両端の遠目には、片方に林が地続きに、もう片方には岩場の岬が見える。エステルが選んだのは岬の方だった。
入江には様々なものが滞留しやすい。もし船や、舟や、筏のようなものが見つからなくとも、漂流物を使って筏代わりになるものが作れるかもしれないと考えたのだ。
人の気配がしない以上、船そのものを見つけるのは難しいだろうとも考えていた。それは人が生み出した、人のための、海を渡る手段なのだから。
「一通り探索したらここへ戻ってくる、でいいか? 何かあれば渡した笛で知らせること。魔法でもいい。音や光が弾ける様をイメージして打ち上げろ」
エステルは頷いて、胸下丈の上着の裏ポケットに潜ませた小さな笛を思い浮かべた。迷宮の部屋に入る前に、ウィリアムから渡された中指ほどのサイズの銀の笛だ。力いっぱい吹くと一本調子の高音が鳴り響く。
危機に瀕したとき、まだ咄嗟に魔法を使えないエステルのための救難信号だった。
コンタクトをとる手段を確認してから、ふたりは背を向けてそれぞれ歩き出す。
ザクザクと踏みしめていた砂と貝殻の破片が途切れて、足もとがゴツゴツとしたぬめる岩場になっても、やはり沖合いに出られそうなものは見つからなかった。
変わりに、地面に空いた小さな穴からカニが這い出てきたり、岩場のくぼみにたまった水たまりでゆらゆらとたゆたうウミウシを見ては、「あれはなんだろう」、「これはなんて生き物かしら」と興味深げにひととき目を奪われた。
エステルの生きてきた場所とは、環境が違えば生態系も違う。ふさふさの毛の生えた可愛らしい動物は居ないし、遠目に跳ねた色鮮やかな魚は奇妙な形をしていた。
そのすべてが、エステルには新鮮だった。
(クラリーがここに居たら、きっと力いっぱい駆けて行って海に飛び込んだでしょうね)
妹も、この光景を扉の外から見ただろうか。それとも、まだこの部屋の存在さえ知らないだろうか。それならあの子にも見せたかった、と少しの口惜しさを感じて、上着の裏ポケットからペンナイフを取り出した。
左手の包帯をほどいて、かさぶたになっている傷をナイフの刃で切りつける。日を置かずに魔法を使っているせいで、城を脱出する頃には傷跡が残ってしまうだろうと考えずにはいられない。
濡れた岩場に落ちる血の滴を見つめながら、エステルはぎゅっと手のひらを握った。
(この空間にクラリス・リリー・エヴァンスの痕跡があるなら、どうかわたしに示して)
ぴたん、ぴたん、と潮溜まりに血が滲む。じわりと薄れた赤が思ったよりも早く反応を示したのは、エステルにとって僥倖だった。
揺れた赤いもやが潮溜まりから立ち昇る。日差しに輝く金の粒子で水が染まって、岩場のくぼみにたまった水が渦を巻いた。
黄金の水が弾けて飛沫を上げる。まばたきのあいだに、宙を舞う金の水滴が岩場の先へ放物線を描いた。
それは初めて魔法が示した、クラリスへ至る痕跡だった。
「!! クラリー、ここに居るの!?」
包帯を巻きなおすことも忘れて、エステルはたまらず駆け出す。やっと掴めた糸口を離すまいとするように。
すべる岩場を超えて、小さな鍾乳洞じみた洞窟を抜ける。靴の隙間にピンクのかけらが入り込むこともためらわず向かった入江には、桃色から赤へのグラデーションが美しいサンゴ礁の浅瀬が広がっていた。
“C”の字型の開けた海側には天然の岩のアーチが聳えていて、取り囲む崖からは細い葉の連なる背の高い木が突き出している。
桃色からアクアマリンへと色を変える海辺のアーチの陰で、金色のしるべは途切れていた。目を凝らすが、その周辺に疑わしいものは見当たらない。
また魔法の不発だろうか。誤発動か、それともクラリスのことを考える頭の端に、舟になりそうなものでも見つかればと考えていた思考の名残が混じってしまったかと落胆しかけたときだった。
パシャン、とひときわ大きな水面を打つ音が聞こえて、エステルはそちらへ目を向けた。また奇妙な形の魚が跳ねたのだろうかと思ったが、違った。
岩のアーチと入江の崖が重なったように見える辺りの水面に、シアンの鮮やかな尾鰭がたなびいた。
まるで貴婦人が裾引くドレスのトレーンのようだった。
遠目に見ても人の顔より大きなそれが、砲丸を落としたかのような大きな飛沫を上げて水面に沈んだのだ。
未知の巨大魚か、“邪悪なる者たち”だろうかと穿つ気持ちももちろんあった。けれど、エステルは立ち止まれなかった。
そこに探し続けた妹へ繋がる痕跡があると思えば、岩陰に潜むものの正体を確かめずにはいられなかった。
「クラリス!」
回り込んだ岩場とアーチの陰に飛び込む。鋭い叫びは、しかし、すぐに息とともに飲み込まれた。
そこにクラリスは居なかった。けれど、見知らぬ美しい娘が居た。
アクアマリンの水面から顔を覗かせた娘は、海と同じ色の瞳をまるまると見開いて、エステルを見返した。
ハート型の小さな顔を取り囲む金の巻き毛は豊かで、剥き出しの体には唯一、胸を覆う薄衣だけが纏われている。
その腰から下は、細いドレスのような何層にも揺れるウロコ状のものと、さきほど海面を叩いた鰭が覆っていた。
「人魚……?」
見たこともない娘だった。否、見たこともない生き物だ。遥か昔の伝説や、物語の中でのみ語られる、それは人の上半身と魚の下半身を併せ持つ空想上の生き物だった。
けれど彼女の髪をひとつに縛っているリボンだけは、不思議と既視感があった。
それが、クラリスがあの日、自分の髪をまとめていたリボンだと気づくまで、数瞬の時間がかかった。
人魚がエステルを憎々しげに睨みつけて海の中に消えるのに、それだけの隙があればじゅうぶんだった。
「待って! そのリボンをどこで……」
弾かれたように問いかけようとした言葉は、人魚の鰭が起こした波に押し返されて途切れた。
頭から海水を被り、そのしょっぱさと目の痛みに顔をおさえる。咳き込んだ呼吸が整って、飲み込んだ海水を吐き出しきった頃には、既に人魚の姿は海の底へと消えていた。




