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12.魔法のドレスと美しい武器


 城に点在する“安全な部屋”のひとつに、バスルームが含まれていたのは幸運だった。


 ほうほうのていで城へ戻ってきたエステルたちの出で立ちは、既に目も当てられないほど悲惨なものだったからだ。


 砂埃にまみれ、ツリーハウスを転がり落ち、髪をまとめていたリボンはどこかで落としてしまった。ブーツもドレスも泥だらけで、ところどころに血がついている。


 似たような有様のウィリアムに案内されたのは、鏡の通路近くのバスルームだった。


 家格は寝室とバスルームの数で決まると言うが、これほど広い城であれば、バスルームの十や二十はくだらない。すぐそばに水道管の通った洗面台と湯沸かしのできるコンロがあるのも、エステルにとって幸いした。


 キッチンから大鍋を持ってきて湯を沸かしたエステルは、水で温度を調整しながらバスタブに湯を張る。


 こういうところは魔法仕掛けではないのかと落胆したエステルに「血は有限だ。失いすぎれば命に関わる。使い所は考えろよ」とウィリアムは釘を差して出て行った。


 熱い湯に浸かると、この城に囚われて初めて、ささやかな幸福を感じた。


 汚れた体を洗えることも嬉しかったが、ずっと緊張と不安で凝り固まっていた心がほぐされるのが何よりありがたかった。


 バスルームの続きの間は衣装部屋になっていた。ベビーピンクの温かな色合いの壁紙に、ウォールナットの大きなクローゼットが並ぶ部屋は、女性のためのドレスルームのようだ。


 魔法仕掛けの城のクローゼットには、やはり魔法に掛けられたドレスが吊り下がっている。


 腰を大きく飾るリボンがひらひらと舞う蝶の幻影を振り撒く青いドレスに、バッスルの細く長いトレーンが長毛猫の尻尾のように踊る黒い光沢のあるドレス。


 襟ぐりと裾に惜しげもなく散りばめられた宝石が炎の揺らめきを灯すオレンジのドレスに、雨上がりの夕空の紫には星々の煌めきが絶えず瞬くドレス。


 その中でも彼女の目を惹きつけて離さなかったのは、裾が揺れるたびにバラの花びらを舞い散らせる深紅のドレスだった。腰の後ろを飾るバッスルは大輪の薔薇のようなリボンが咲き乱れ、前面のスカートの襞から覗く白いレースが挑発的な色味に清楚さのアクセントを添えている。


 これから舞踏会に向かうならば、エステルはためらいながらもそのドレスを手にしただろう。けれどしばらく考えて、少女はその隣に掛かっていたシャンパン色のドレスを手にした。


 襟の詰まったウォーキングドレスは、全面の裾から持ち上げたドレープを腰の後ろで高くまとめたバッスルスタイルだ。


 腰でまとめたドレープの下に紐で胴に結ぶポケットがついていて、重い鉄板や邪魔な鯨ひげの代わりに腰を膨らませてくれる。城の中を歩き回るにも便利そうだった。


 見頃を肩に当ててくるりと回ると、裾から星屑のような光の粒子がほろほろと散らばって消えた。


「……自分のドレスが乾くあいだお借りするだけよ」


 誰のものかもわからない他人のドレスを着ることに後ろめたさを感じて、誰も聞いていない言い訳を口にする。


 体と一緒に汚れたドレスも洗ってみたものの、染みの落とし方など知らない。乾いたら血の染みも薄くなるかしら、と不安に思いながら、今度は汚さないように気をつけようと新しいドレスへ袖を通した。


 衣装部屋を出て鏡の隠し通路へ戻ると、部屋の前にウィリアムの姿があった。手持ち無沙汰に腕を組んで、壁に背中を預けている。


 彼の髪も湿っているので、別のバスルームで身を清めてきたのだろう。シャツに六分丈のズボン(ブリーチズ)と靴下、ブーツのみという出で立ちで、しどけなさを感じる。


 見てはいけないものを見てしまったときのような後ろめたさが、胸の内で(うごめ)いた。


「ウィリアム、何かあったの?」


 胸のざわめきを振り払うように声を掛ける。彼もその直前に気づいたようで、エステルの姿をみとめると背筋を正した。


「君に渡しておくものがあって、待ってた」


「渡しておくもの?」


「これを」


 ウィリアムはそう言うと、ポケットから細長い細工物を取り出した。エステルの手より小さなそれは、真珠のようなパールホワイトの光沢を持つ棒状のものだった。


「昼間――と言ってもここではほとんどずっと夜だけど、言ってたろ。そこの作業部屋にあったペンナイフだ。折りたたみ式だから安全に持ち歩ける」


 あ、と思い出したようにエステルはウィリアムを見上げた。そういえば、魔法について話を聞かせてもらったときにそんなことを言っていた。


「もしかして、昼食どきに席を外したのはこれを探してくれていたの?」


「そんなところ。見つけるのに手間取って、探索に持っていくには間に合わなかったけど」


「ううん、ありがとう」


 ウィリアムがなめらかな波形の細工部分を引き出す。刃を開いた全長でも、エステルの中指までの手のサイズより少し小さかった。


 羽根ペンの先を削るためのペンナイフは、持ち歩きやすくコンパクトで、優美なデザインのものが多い。


 これはエステルの見た中でも特に美しく、白蝶貝の殻で作られた柄には複雑な唐草模様が、刃身には細かな鋭い葉と六弁花の花の模様が彫られていた。


 ブレードは恐らく純銀製で、一点の曇りもない。本当に使われていたのか疑わしいほど保存状態が良かった。


「きれいなペンナイフね。血で汚してしまうと思うと気が引けるくらい」


「使うたびにきちんと手入れすれば問題ないさ。長く使える。それが君の武器だ、ステラ」


 そう告げて、ウィリアムはエステルの手をとった。その上にペンナイフを握らせる。触れた柄はしっとりとした質感で不思議と手に馴染んだ。


 わたしの武器、とエステルは自分の身に刻むように繰り返す。


 この刃渡り五センチちょっとの、美しく華奢な刃が、エステルを守る武器になるのだ。


 短剣は手に重い。それは他人の命を奪ってしまえるものだから。けれどこのペンナイフならば、自分と、自分の守りたいものを正しく守れる力になるだろう。


 迷宮の部屋、その扉の向こうの荒野での出来事を思い出す。一歩間違えれば命を失う危険性はいくつもあった。


 彼の短剣がなければ、あるいは魔法を使う方法を知らなければ、ふたりの命はなかっただろう。


 もう、傷つくことを恐れてはいられない。


「大事に使うわ」


 エステルが答えると、ウィリアムは満足したように笑って手を話した。かと思えば、その手はエステルの濡れた髪へと伸びる。


「まだ濡れてるじゃないか。風邪をひく」


「だ、って、いま上がってきたばかりだもの」


 こめかみから流れる髪を一房もちあげられて、どきりと心臓が跳ねた。ペンナイフに気を取られていたけれど、よく考えれば今の状況はあまりにも親密すぎる距離感だ。


 男の銀の双眸は、見上げた目と鼻の先にあった。普通ならば下ろし髪など、家族か夫にしか見せない。それも、まだ乾ききっていない、腰に落ちる濡れ髪など。


 急にその距離を実感して、エステルの息が詰まった。また、頬に熱がのぼる。


 これだから男慣れしていない田舎者の小娘は、と自分を客観視して気を落ち着けようと試みた。きっと都会の淑女は、こんな距離さえもささやかな戯れごととしてあしらえるのだろう。


 たまらず視線を床へ落とす。きっと赤みを増しているだろう顔を、彼に見られたくなかった。


 ふいに、視界に入った彼の手が赤いもやをまとった。不思議に思って掬われた髪を見ていると、銀に色を変えた光がエステルの髪を包み込む。


 柔らかなそよ風が髪を撫でたかと思うと、いくらもしない内にさらりと乾いた髪が彼の手からこぼれ落ちた。


「こんなところか」


「魔法で髪を乾かしたの?」


「体調を崩されちゃ敵わないんでね」


「人の命に関わる魔法は難しいって言っていなかった?」


「髪から水分を取り除いただけだからな。怪我を治したり病を取り除いたりするのとはわけが違うさ」


 彼は飄々と返して、すぐに一歩下がる。それは、エステルの動揺に気づいていたがゆえの仕草だったのか。


 手の甲へ口づけたり、髪を結い直したり、触れることに躊躇しないくせに、踏み込みすぎたと見るやすぐに退く。親身に、友好的に、ときに蠱惑的な瞳で接してくるかと思えば、厳しい目をして忠告してくる男。


 けれど確かに、エステルが彼を助けたあの瞬間から、少しだけ彼女を尊重する姿勢を見せるようになった。


 よくわからない人だ、とエステルもまた一歩身を引いた。


「魔法ってこんなことまでできるの? 便利ね。少しの血でできることなら、日常生活にも困らなそうだわ」


 ふたりのあいだに流れた空気を払拭するために、エステルは世間話めいて笑った。ところが、ウィリアムは難しい顔をして再び腕を組む。


「さてな。魔法は時として嘘をつく。信頼しすぎるのはかえって危険だぞ」


「どういうこと?」


「便利だからってホイホイ使ってると痛い目を見るぞ、ってことだ」


 いまひとつ理解できていない様子で眉宇を寄せたエステルに、ウィリアムはまだ湿り気の残る頭を掻いてため息をついた。彼と相対していると、とたんに自分が不出来な生徒になったような気持ちになる。


「気を付けろよ。ここには魔法が溢れてる。飽和してる、と言い換えてもいい。捻れた空間に過剰な魔法が満ちてるんだ。どんな形で干渉してくるかわからないぞ」


 ウィリアムは言った。たとえば夢の中。崖から突き落とされる夢を見て、二度と目覚めなくなるかもしれない。夢の中で起こったことが、魔法の力を借りて現実に影響を及ぼすことも考えられる。


 あるいは、海に満ちた部屋を安全に渡るために、脚を尾鰭に変えてみると、そのまま戻れなくなるかもしれない。


 魔法はありとあらゆる不可能を可能にする力を持っているが、人間に忠実ではないのだ。


 時には思わぬ作用をもたらして、使役した者に考えもしなかった不利益を与えることもある。時間も空間も捻れた場所に満ちるものなら、尚更だろう。


 エステルは今朝、起きる直前に見ていた悪夢を思い出した。もしかしたらあれも、“魔法の干渉”だったのかもしれない。


 自分の中の不安が見せた夢だと思っていたが、起きたら傷口が開いていた。クラリスの身を案じるあまり、無意識に使った魔法が見せた夢だったのではないか。


「そう……、そうね、あまり頼りすぎないようにするわ」


 元より、エステルはこれまで、魔法のない時代で生きてきた。初めから持たなかったものに頼らず生きていくことは、至極自然なことだろう。


 問題は、この自然ではない空間がその「自然」という不自然を許してくれるかどうかにあるが。


「それが良い」


 ウィリアムはひとつ頷くと、表情を緩めて、サッと視線を彼女の頭からつま先まで走らせた。


「……なに?」


 訝しんで尋ねると、「いや」と濁した相づちが返ってくる。


「夜にウォーキングドレスを着るお嬢さんも珍しいなと思って」


「こんなお城じゃ何が起こるかわからないもの。ベッドに入るまではいつでも動けるようにしておくべきだわ。あなたみたいに()()()()を向ける人も居ることだし」


「自衛本能が機能しているのは良いことで。俺としちゃ、その下ろし髪だけでもじゅうぶん官能的だと思うが」


「……っ! そういう冗談は城を出てからあなたに秋波(しゅうは)を送ってくる子に言ってあげた方がいいわよ」


「なんだ、冗談ってわかってるのか。つまらないな」


 肩を竦めた男が、これ以上は気を逆なでしないようにと踵を返す。エステルはまた不意打ちをくらわないように、ウィリアムの背中を見送った。


 彼が隣の部屋のドアノブに手をかけたとき、ふと顔だけで振り返って愛嬌たっぷりにウィンクを投げた。


「そのドレス、なかなか似合ってるぜ。城のクローゼットのドレスなんて、いまとなってはどうせ誰も使わないんだ。肥やしになるより、君に着られる方が喜ばしいだろうよ」


「な、」


「じゃあな、おやすみ。リトル・スター」


 たちの悪い冗談のあとに、冗談めかした褒め言葉を言われては、本気で受け取ってもよいものか迷った。それで、おやすみと返すこともできないまま、隣の部屋の扉が閉まる。


 行き場を失った一日の終わりの挨拶は、揺れた裾から散る光の輝きと共にこぼれて消えた。


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