タイトル未定2026/08/22 12:39
「はぁ……はぁ……っ!」
俺はなんとかアレクシア王女を振り切り、街の中を走っていた。
後ろを振り返り、アレクシア王女がいないのを確認した。
今のうちだ!
人通りの少ない路地へ飛び込み、さらに奥へ進む。
ちょうど物陰になっている場所を見つけ、そこへ身を潜めた。
「はぁ……はぁ……」
まずい。息の音すら聞かれそうだ。
俺は口元を押さえ、必死に呼吸を整える。
頼む。このまま、どこかへ行ってくれ……!
そう願った直後だった。コツ、コツ、と足音が聞こえてきた。
「…………!」
路地の入り口から、アレクシア様が姿を現す。
「おかしいわね……」
アレクシア様は辺りを見回したあと、鼻を小さく動かした。
「クンクン……」
え?
「この辺りから、リオンの匂いが途切れたわ」
匂い!?俺、匂いで追跡されてたの!?
「ってことは……この辺りに隠れているのかしら?」
「…………っ」
まずい。物陰を一つずつ覗きながら、こっちへ近づいてくる。
逃げ道はない。このままだと見つかる。あと数歩で、この路地の奥まで――
「クリーン」
小さな声が聞こえた。
「……え?」
ふっと周囲の空気が澄んだ。
汗でべたついていた身体まで、少しだけさっぱりしたような感覚がする。
続けて、
「カモフラージュ」
目の前の景色が揺らいだ。
「なっ……」
何もなかったはずの場所に、突然壁が現れる。
幻か?俺の隠れている場所ごと、行き止まりに見えるようになっている。
アレクシア様が路地の奥までやってきた。
「あら?」
目の前の壁を見て首を傾げる。
「行き止まり……」
また鼻を動かした。
「クンクン……」
「…………」
「匂いも消えたわね」
しばらく不思議そうな顔をしていたけれど、やがて肩をすくめた。
「気のせいだったのかしら」
よ、よし! 助かった!
「あ!リオン成分が切れたわ」
……何?リオンなんて言った?
「一服しないと」
そう言うと、腰に下げていた小さな袋へ手を入れる。
中から取り出したのは――一枚のハンカチだった。
「クンスカクンスカ……」
何をしているのだろう?
「はぁぁ〜……生き返るわぁ……」
うっとりと目を細めている。仮にも一国の王女様が、絶対に人前で見せちゃいけない顔をしていた。
「あれ……?」
あのハンカチ。見覚えがあるな。
「……この前、俺がなくしたと思ってたやつじゃないか?」
なんでアレクシア様が持ってるんだ?
「リオン、寮に戻ったのかしら?」
アレクシア様がハンカチを大事そうに袋へ戻す。
「この前使った合鍵が役に立ちそうね」
「…………」
合鍵?なんで持ってるの?
「ふふふ……待ってなさい、リオン」
そう言い残し、アレクシア様は機嫌良さそうに去っていった。
足音が完全に聞こえなくなる。
「…………」
しばらくして、俺は大きく息を吐いた。
「た、助かった……」
「あなたも大変ね」
「うわっ!?」
突然後ろから声が聞こえ、飛び上がる。振り返ると、一人の少女が立っていた。
「ジャスミン!」
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
くすくすと笑っている。
彼女の名前はジャスミン。アレクシア様と同じAクラスに所属している生徒だ。
ちなみに俺はDクラス。
ジャスミンは回復魔法を得意としていて、教会の手伝いもよくしている。俺も怪我をした時、何度か治してもらったことがあった。
「さっきの魔法、ジャスミンだったの?」
「ええ。クリーンであなたの匂いを消して、カモフラージュでここを行き止まりに見せただけ」
「ジャスミ〜ン!ありがとう! 本当に助かった!」
「別にいいわよ。気にしないで」
「いや、本当に危なかったんだって!」
「見ていれば分かるわ」
命の恩人だ。
「何かお礼できることある?」
「そうね……」
少し考えてから、ジャスミンが笑った。
「じゃあ、夕飯を奢ってちょうだい」
「それくらいなら全然いいよ」
「決まりね。いいお店を知ってるの。ついてきて」
「うん」
◇ ◇ ◇
ジャスミンに連れられてやってきたのは、大通りから少し離れた場所にある店だった。
「ここ?」
「ええ。私がよく来る大衆食堂よ」
店の中から、肉を焼くいい匂いが漂ってくる。
「安いし、美味しいの」
「それは楽しみだ」
中へ入り、適当な席に座る。しばらくすると料理が運ばれてきた。
「いただきます!」
「いただきます」
腹も減っていたので、一気に料理へ手をつける。
「うまっ!」
「でしょう?」
「本当に美味しいな」
さっきまで街中を逃げ回っていたのが嘘みたいだ。ようやく落ち着けた。
しばらく食事を楽しんでいると、ジャスミンが口を開いた。
「ねえ、リオン」
「ん?」
「アレクシア王女、大変そうね」
「本当に困ってるんだよ……」
俺は思わずため息をつく。
「昔はもうちょっと普通だったんだけどなぁ」
「今は?」
「男子トイレまで追ってくる」
「それは重症ね」
「しかも匂いで追跡してくるし、俺のハンカチ持ってるし、寮の合鍵まで持ってるらしい」
「かなり危険ね」
「ジャスミン、何かいい方法ない?」
「あるわよ」
「本当!?」
思わず身を乗り出す。
「何?」
ジャスミンは少しだけ考えるような仕草をしてから言った。
「私が、あなたの彼女のふりをするの」
「…………え?」
「恋人がいるって分かれば、アレクシア王女も諦めてくれるんじゃない?」
「なるほど……」
確かに。俺に好きな人がいると分かれば、さすがのアレクシア様も――
いや。
「でも危険じゃない?」
「何が?」
「アレクシア様、絶対怒ると思う」
「そうかしら?」
「さっきの様子見てたでしょ?」
「見てたわ」
「あまり刺激しない方がいいと思うんだけど……」
ジャスミンは少し黙った。そして、俺の目を真っ直ぐ見る。
「友達が困ってるのに、放っておくことなんてできないわ」
「ジャスミン……」
「私があなたの彼女として、はっきり言ってあげる」
「本当にいいの?」
「もちろん」
「でもさ」
「何?」
「ジャスミンが好きな人に誤解されるかもしれないよ?」
「…………」
一瞬だけ、ジャスミンの動きが止まった。でもすぐ、にっこりと笑う。
「大丈夫。そんな心配いらないわ」
「そう?」
「ええ」
ジャスミンが手を差し出してくる。
「じゃあ、恋人決定ね」
「偽物だけどね」
「…………」
「ジャスミン?」
「ええ。そうね」
なぜか一瞬だけ間があった。
「アレクシア王女の件は、私がしっかり責任を持つわ」
「ジャスミ〜ン!ありがとう!」
「ふふ。どういたしまして」
◇ ◇ ◇
食事を終え、俺たちは店を出た。
「いやー、美味しかった」
「気に入ったならよかったわ」
「また来ようかな」
「その時は私も誘って」
「もちろん」
そんな話をしながら歩いていると、ジャスミンが突然足を止めた。
「あれ?」
「どうした?」
「リオン、肘」
「肘?」
言われて見てみる。
「あ、本当だ」
少し擦りむいている。
たぶん、さっきアレクシア様から逃げている時にどこかでぶつけたんだろう。
「これくらい大丈夫だよ」
「ダメよ」
「え?」
「私が治療してあげる」
ジャスミンは俺の腕を取った。
「ありが――」
ぺろっ。
「…………え?」
ジャスミンが俺の肘の傷を舐めた。
「ん……」
「…………」
何してるの?
そう聞くより先に、今度は俺の身体へ抱きついてきた。
「ジャ、ジャスミン?」
「動かないで」
「う、うん」
ジャスミンが俺に密着したまま、そっと呟く。
「ヒール」
淡い光が身体を包んだ。すぐに傷が塞がっていく。
「おお……」
痛みも消えた。
「はい。終わり」
ジャスミンが俺から離れる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「でもさ」
「何?」
「毎回思うんだけど……この治療方法、ちょっと変じゃない?」
「…………」
「他の人が傷を舐めてから抱きついてヒールしてるところ、見たことないよ?」
「これが一番後遺症が残らないの」
「そうなの?」
「ええ」
そういうものなのか。
回復魔法のことは詳しくないし、専門のジャスミンが言うなら間違いないんだろう。
「じゃあ、これからもよろしく」
「もちろん」
「それと明日から、恋人役もよろしくね」
「うん」
ジャスミンが嬉しそうに笑った。
「任せて」
「それじゃ、おやすみ」
俺が歩き出そうとした時だった。
「……やっぱり、リオンを尾行してよかったわ」
「ん?」
ボソッと何か聞こえた。
「ジャスミン、今何か言った?」
「気のせいよ」
「そう?」
「ええ」
ジャスミンはいつもの笑顔を浮かべる。
「おやすみ、リオン」
「ああ。おやすみ」
俺はジャスミンに手を振り、そのまま寮へ向かった。
明日からはジャスミンが協力してくれる。
これでアレクシア様も少しは諦めてくれるはずだ。
……たぶん。




