第七話「遠い日の記憶」
炎が、森を喰らっていた。
木々は燃え、黒煙が夜空を覆い尽くしている。
先ほどまで鬱蒼と茂っていた緑は、今やどこを見渡しても赤一色に染まっていた。
まさに地獄と呼ぶに相応しい光景。
______俺はこんな景色を、どこかで見たことがあるような......。
「──はぁ、っ......はぁ......」
開けた焦土、その中心に一人______メルトナの姿があった。
彼女は息を荒くしながら、焼けた地面に手をついた。
『ヴォルドゥーラ』。
俺と彼女以外の、あらゆるものを灼熱に呑み込んだあの太陽は、
今まで見てきた魔術とは、桁違いに大規模な代物だった。
相応の反動があるのだろう。
加えて、先の戦いでも彼女は大怪我を負っていた。
あらゆる疲労が、一気に押し寄せたのだ。
______奴らは、全滅したのだろうか。
いや、これで生き残っていたら、それはそれでドン引きなのだが......。
ちょうどそんなことを考えていた、そのときだった。
「──詰めが......ハァッ......甘ェんじゃあ、トカゲ女ァ!」
「なっ......」
灰燼を掻き分けながら、焼け落ちた地面を引きずるようにして、それはゆっくりと姿を現した。
______ロッゾだった。
「──マジかよ」
思わず、そんな言葉が漏れ出た。
全身は煤と血に塗れ、整然としていた制服は今や見るも無残に焼け焦げている。
露出した皮膚もあちこちが赤く焼け爛れ、その姿はもはや人間というより、地獄の底から這い戻ってきた亡者のようだ。
______だというのに、その瞳には依然として剥き出しの殺意が宿っている。
瀕死の身体を動かしているのは、凄まじい生への執着というよりは、自らを追い詰めた者への怨念のためなのだろう。
ロッゾは地に這いつくばったまま、身体を屈めたメルトナに迫り、赤黒く変色した腕で彼女の胸ぐらを掴んだ。
「ぐっ.........」
満身創痍の男が振るう、力の抜けた腕。
だがそれすらも振り払えないほど、今のメルトナは消耗していた。
「てめぇは、......ハァ......てめぇだけは許さねェ......。
グッチャグチャにブチ犯してから、メッタ刺しにしてブッ殺してやんよォ......!」
______それを聞いたとき、俺の中にもう迷いはなかった。
気づけば俺は、力なく垂れていたメルトナの手首を強く握っていた。
苦悶に歪んでいた彼女の表情は僅かに和らぎ、やがてその瞳がゆっくりと俺を捉える。
それに応えるように、俺はすぐさま口を開く。
「逃げよう」
「っ......」
彼女は一瞬だけ息を呑み、すぐさま頷いた。
「はい......!」
俺はそのままメルトナの身体を強く引き寄せる。
すると、ロッゾの手はまるで糸が切れたかのように、あっさりと彼女の胸ぐらから離れた。
「──待て......やァ......!!」
燃え盛る森の奥へと駆け出すなか、背後からロッゾの必死の叫びが聞こえてきた。
だが、もはや奴に、俺たちを追うだけの力など残されていないだろう。
結局、ロッゾが俺たちの後を辿ることは叶わなかった。
※ ※ ※ ※ ※
焼け落ちた森の一角。
そこには、三人の男女が取り残されていた。
アイヴィスは、目の前に横たわる巨躯をただ呆然と見つめていた。
「──ブルモッド......」
返事はない。
煤と血に塗れたその身体は、もう微動だにしなかった。
あれほど大きかった身体も、今となってはただの肉塊と化している。
「──嘘、よ......」
震える手を伸ばし、彼の胸元に触れる。
______けれど、何も感じなかった。
鼓動も。
呼吸も。
「嫌......」
堪えていた感情が決壊し、アイヴィスの瞳からポロポロと涙が零れ落ちた。
それは乾いた土を濡らしたかと思えば、熱気に晒されすぐさま蒸発し霧散する。
「どうして......」
返ってくるものなど、何もない。
ただ炎が木々を喰らう音だけが、二人の間を埋めていた。
「......おい」
そんな様子を気にも留めず、悲しみに暮れるアイヴィスをロッゾの声が遮った。
「いつまでそうしてやがる。──さっさと俺を治せ 」
「──え?」
アイヴィスはゆっくりと顔を上げる。
そこにあったのは、かつて愛した男の顔。
けれど──その瞳に、仲間を失った悲しみなどという感情は欠片も浮かんでいなかった。
「お前の木魔術で、さっさと俺を治せって言ってんだよ。聞こえねえのか」
「......あなた」
ロッゾの一言に、アイヴィスは声を大きく震わせる。
「ブルモッドが......死んだのよ」
「──だから、何だ」
それは、あまりにも平然とした返答だった。
「目も見えてねえのか?俺だってこのザマなんだ。
死人を気にしてる暇があるなら、先に俺を治せ」
「──ッ」
アイヴィスの胸の奥で、何かがプツンと切れた。
涙で滲んだ視界の向こうで、ロッゾを睨みつける。
「──あなたって、本っ当に......」
その言葉に、ロッゾは一切の動揺を見せなかった。
彼はただ、自身の傷口を押さえながら、苛立たしげにアイヴィスを見つめていた。
「.........」
怒り。悲しみ。悔しさ。
あらゆる感情が頭の中で沸騰するあまり、彼女がもうそれ以上の言葉を口にすることはなかった。
ただ歯を食いしばり、俯くことしかできなかった。
やがて──
「──おい」
アイヴィスはゆっくりと右手を持ち上げる。
そして、人差し指と中指を揃え、その指先を自らのこめかみに突き立てた。
「──何、考えてやがる」
ロッゾの声が低く、響く。
だがアイヴィスは、何も答えない。
______指先に、微かな魔力が集まり始める。
「やめろ」
ロッゾが一歩、踏み出した。
それでも、アイヴィスは止まらない。
「やめろォォ!!」
______次の瞬間。
ロッゾの叫びに応えるように──アイヴィスの指先はその軌道を逸らし天を向いた。
何が起きた──
ロッゾがそう考える間もなく、その理由は明らかになった。
突如として現れた何者かが、彼女の手首を固く掴んでいたのだ。
「──娘、早まるな」
その正体は、一人の──老人。
だがその外観は、老人と呼ぶには一切の衰えを感じさせないものだった。
背丈はあのブルモッドよりも一回り大きく、その眼光は濁りなく異様なほど鋭い。
幾重にも刻まれた皺は、寧ろ彼の威厳を強調させている。
白銀の長髪さえも、老いによるものではなく積み重ねた歳月そのものを思わせた。
「あんた──いや、あなたは」
ロッゾの声は、僅かに震えていた。
その姿には見覚えがあった。
剣士として、数多の戦場を渡り歩き。
幾度となく国の危機を救い。
今なお、この国でその名を知らぬ者はいない。
彼は、ツェルニア最強の英雄・ヴェノッサその人だった。
「オズ神官、彼を治療してやれ」
「──はっ」
ヴェノッサの言葉に、即座に返事が返る。
「──?」
ロッゾは僅かに眉を顰めた。
今の声は、どこから──。
そう思い、ふと背後を振り返ると、そこには数人の兵士と神官が立っていた。
「──なっ」
いつから、そこにいた?
つい先ほどまで、周囲には自分たち以外誰もいなかったはずだ。
否──自分が気付いていなかっただけなのか。
ロッゾがその疑問を口にするよりも早く、若い男の神官が彼の前へ歩み出る。
「失礼します」
神官が両手を翳す。
「‘’レメディオン‘’」
その呪文が唱えられた直後、淡い光が神官の掌から溢れ出し、ロッゾの全身を包み込んだ。
焼け爛れた皮膚が、ゆっくりと修復されていく。
裂けた肉が繋がり、身体を支配していた苦痛が和らいでいく。
______ふと、ロッゾはアイヴィスの方を見た。
彼女は、気を失っていた。
張り詰めていた糸が切れたかのように、その身体からは力が抜けている。
「──チッ」
苛立ちとも悔恨ともつかぬ、胸中に渦巻く複雑な感情を、ロッゾは舌打ちとともに吐き捨てた。
「.........」
その様子を見かねたのか、ヴェノッサはアイヴィスを優しく抱き上げた。
彼女の細い身体は、彼の大きな腕の中へすっぽりと収まる。
______そして、そのまま視線を落とした。
アイヴィスのすぐ傍ら。
そこには、煤と血に塗れた巨躯が横たわっていたのだ。
その傷の有様を見れば、彼が何をしたのかは明白だった。
彼は最後、この子を庇って死んだのだろう、と。
「──皆、彼を弔ってやってくれ」
「──はっ」
兵士も神官も、全員が一斉に返事をする。
それを合図に、彼らはブルモッドの亡骸へと歩み寄っていた。
______焼け落ちた森の中。
ブルモッドを弔うための準備が、静かに始まる。
その様子を横目に、ヴェノッサはふと、森の奥へと視線を向けた。
「.........」
焼け焦げた地面。
そこには、いくつもの足跡が残されていた。
炎の向こうへ。
焼け落ちた木々の隙間を抜け、それははるか遠くまで続いている。
誰かが、ここから逃げたのだ。
恐らくは、この惨状を作り出した元凶が。
______ふと、ヴェノッサの表情が僅かに変わった。
顔の左側を走る、古い傷。
かつて王の一撃によって刻まれたその傷が、疼いたのだ。
ヴェノッサは無意識に、その傷跡へと手を添えた。
脳裏を過ったのは、遠い日の記憶。
焼け落ちた村。
血に染まった大地。
対峙した脅威。
______そして一人、逃がした竜の小娘。
「──まだ、生きていたか」
ヴェノッサは再び足跡を見据える。
やがてその眼差しには、僅かな殺意が宿った。
「ならば──」
アイヴィスを抱えたまま、ゆっくりと、一歩。
足跡を追うように、ヴェノッサもまた歩き始める。
「滅さねばならぬ」
白銀の髪を夜風に靡かせながら、彼は静かにそう呟いた。




