第八話「壁の向こうへ」
あれから、どれくらい走っただろうか。
背後で轟々と燃える炎を振り切るように、俺たちはひたすら遠くへと駆けていた。
「はぁ……はぁっ……!」
肺が焼けるように痛い。
足も、もう限界に近かった。
引きこもって怠け切った身体には酷な運動量だ。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
あの場所に留まっていれば、いつ追手が来るかわからない。
無我夢中で走り続け、いつしか炎の光さえも届かぬ場所まで来ていた。
______だというのに、胸の奥にこびりついた不安はなおも消えない。
何度目かもわからないまま、俺は再び背後へ視線を向けた。
「………」
暗闇の中に、迫ってくる人影はない。
どうやら、ロッゾたちは俺たちを追ってきてはいないらしい。
少なくとも、今のところは。
ひとまず、胸を撫で下ろす。
______それにしても。
ふと、隣を走るメルトナへ目を向ける。
彼女はまるで、己の特徴的な角と蛇目を隠すかのようにフードを深く被り、俯いたまま走っていた。
その姿といい、先ほどの襲撃といい。
俺はここにきて初めて、彼女を取り巻く状況について考え始めていた。
______そもそも、この世界で竜族ってどういう存在なんだ?
あの三人組は皆、物珍しそうな目でメルトナを眺めていた。
そしてメルトナの怒りは、襲撃した奴らだけに向けられたものではなく──まるで、人間そのものに対する憎悪のように感じられた。
______ふと、小屋で目覚めた当時のやり取りを思い出す。
『竜の血』の効力。
耳を疑うような話だった。
けれど、あのとき身体中を這った妙な感覚は、今でも少し意識するだけで蘇ってくる。
まるでその感覚そのものが、彼女の話を真実だと訴えかけているようだ。
瀕死の人間すら全快させる治癒力──それが本当なのだとしたら。
『竜の血』を欲しがる人間が現れたとしても、何ら不思議ではない。
そして、もう一つ。
竜族に古くから伝わるという予言。
そこに登場する『降臨者』という存在。
竜の願いに世界が応えたとき、『降臨者』は訪れるという。
俺は、気が付くと知らない世界にいて、理由もわからないままメルトナと出会った。
一度は僻みをぶつけてしまったが、それでも彼女が俺に好意的に接してくれたのは、俺を何十年も追い求めていた『降臨者』だと信じていたからだ。
『竜の血』の力。
人間そのものに向けられたかのような、メルトナの憎悪。
そして、彼女が語った予言。
それらを一つずつ繋ぎ合わせていく。
もし、この国の上層にいる誰かが『竜の血』を求めたのだとしたら。
そのために竜族が狩られ、彼女はその生き残りなのだとしたら。
______そして、その憎しみが『降臨者』を呼び寄せるほどのものだったとしたら──。
「……あ」
そのとき、不意に視界が開けた。
見ると、それまで周囲を覆っていた木々は途切れ、目の前には夜の闇に沈んだ平原が広がっていた。
「森を……抜けたのか」
息苦しく、窮屈な山道を抜けたことに、俺はほんの僅かに安堵する。
けれど。
「──いや、これマズくない?」
俺は足を緩めた。
今までなら、木々の陰に身を隠すことができた。
だが、この先はそうもいかない。
このまま進めば、月明かりの下に身を晒すことになる。
「左様ですね。戻りますか?」
メルトナもそのことを承知している様子だった。
「そう……だな」
俺は、来た道を振り返る。
幸い、今のところ人影はない。
確かに、このまま平原を進むのはあまりにも危険だ。
メルトナの言う通り、このまま山へ戻るか?
いや、それでは追手と鉢合わせする可能性がある。
かといって、この開けた場所で夜を明かすわけにもいかない。
ならば、どうすれば──。
「──ん?」
そのときだった。
月明りの下に微かに照らされた、地平線の向こう。
平原の彼方に、何かが見えた。
「壁?」
目を凝らす。
それは地面から見上げるほど高く築かれた、巨大な石造りの防壁だった。
左右へ果てしなく伸び、その内側には広大な建造物の群れが身を潜めているように見える。
「……」
俺はしばらく、その壁をじっと見つめていた。
そして──一つの可能性に思い至る。
「……あれ、街なんじゃないか?」
その言葉に、隣のメルトナも壁へと視線を向けた。
深夜のためか、灯りは見えない。
だがあれは、巨大な城壁に囲まれた街──ラノベで何度も目にしてきた、要塞都市そのものだ。
身を隠せる路地裏や、潜伏できる場所も、山の中よりも多いはずだろう。
「あそこなら、体制を整えられるかもしれない」
俺は再び、あの巨大な防壁を見据えた。
「行ってみよう」
「そうですね。ただ……」
彼女の返答に、ほんの一瞬だけ妙な間があった。
「どうした?」
ふと気になって横顔を覗き込むと、フードの影から覗くメルトナの紅い瞳が、じっと暗がりの中の街を見つめている。
______ゾクっとした。
いつも俺に向けられる温かい光なんて、どこにもない。
そこにあったのは──まるで、害虫の巣か何かを遠目から蔑んでいるかのような、底冷えする冷たさ。
「……人間の群れ、ですか」
ぽつりと漏れたその声があまりに低くて冷徹で、俺は思わず息を呑んだ。
「メルトナ……?」
「あ、いえ……すみません。
ただ、人のいる場所に行けば……その」
メルトナは言葉を濁すと、フードの端をきゅっとつまんだ。
指先を僅かに震わせながらも、彼女はその角と瞳を隠すように、深くフードを引き下げる。
______その言葉の意味は、もう十分に分かっていた。
人のいる場所へ行けば、またあの襲撃者のような奴らと遭遇するかもしれない。
「──大丈夫」
俺はそう口にしてから、少しだけ言葉に詰まった。
正直に言えば、何が大丈夫なのか自分でもわからない。
俺に、戦える力なんてない。
あの三人組のような奴らを正面にすれば、まともに立ち向かうことすらできないだろう。
それでも。
あの死闘の最中、俺はただ逃げ惑うだけじゃなかった。
泥臭く足掻いて、大男の隙を作り、メルトナの命を繋ぐことができた。
______なら、何もできないなんてことはない。
「何かあったら──」
言葉を紡ぐ。
今度は一切迷わなかった。
「俺が、助ける」
______我ながら、随分と無責任な発言だと思う。
だが、不思議と撤回する気にもならなかった。
彼女を守りたい。
そんな想いが、いつしか俺の中に芽生えていた。
「……っ」
俺の言葉に、メルトナは僅かに息を呑んだ。
やがて、俯いていた彼女は俺の方に視線を合わせ、
「──はい!」
花が咲くような笑みを浮かべ、力強く頷いた。
その声には、先ほどまでの迷いはもうなかった。
※ ※ ※ ※ ※
平原を横切った俺たちは、やがて巨大な石造りの防壁──その目前まで辿り着いた。
「おぉ……」
間近で見ると、改めてその大きさに圧倒される。
頭上遥かにまで伸びる石壁。
その中央には、街へと続く大きな門が設けられていた。
そして、その門の傍らには──。
「人がいる……」
目を凝らす。
槍を携え、鎧を身に纏った男が二人。
夜間とはいえ、街の出入り口を守る衛兵がいるのは当然か。
街へ入るには、あそこを通るしかない。
______問題は、どうやって奴らの目を搔い潜るか。
俺は周囲を見渡す。
ほかに入り口はないか。
壁を超えることはできるだろうか。
いや、あんな高さをどうやって──。
頭の中でいくつもの手段を考えては、すぐに却下していく。
ふと、メルトナの方を見る。
俺が必死に頭を捻っている隣で、彼女もまた門の方をじっと見つめていた。
やがて、槍を構える二人の衛兵を見る彼女の横顔から、すっと温もりが消えていく。
……感情がない。
まるで、足元の石ころか何かを見ているような、あまりに冷淡な目だった。
「殺しましょうか?」
______なんでもないことのようにそう言われて、俺の思考がピタリと止まった。
「え?」
殺害を案じた彼女の口調は、一切の躊躇を思わせない、あまりにも平然としたものだった。
「衛兵を殺せば、通れるでしょう」
「えっ、いや、ちょっと待って」
思わず声を抑えながら、彼女の方を見る。
「なんで、そうなるんだよ……」
「ですが、ほかに方法が?」
首を傾げる彼女の表情には、冗談や悪意の気配など微塵もない。
……本気だ。
俺以外の人間に対する感情が、あまりにも冷え切っている。
「……ダメだ」
「なぜです?」
「少なくとも、殺すのはダメだ」
「どうして──」
「……これ以上、無駄な血を流したくない」
手のひらに残る、あの不気味で生々しい感覚が脳裏をよぎり、奥歯を噛み締める。
刃が肉を裂き、骨へと届いた時の感触。
柄を通して伝わってきた、生ぬるい手応えと血の匂い。
思い出すだけで、胃の底がひっくり返りそうになる。
人を傷つけることへの拒絶。命を奪うことへの恐怖。
あの死闘を経てなお、俺の中にこびりつく現代人としての倫理観──いや、単なる生々しいトラウマが、『人を殺す』という選択肢を全力で拒んでいた。
……遅れて、もっともらしい言い訳が思い浮かんできた。
「それに、ここで衛兵を殺せば街全体が厳戒態勢になる。
俺たちが安全に身を隠すための場所で、わざわざ首を絞めるような真似はしたくない」
「──なるほど」
メルトナは少し思案するように目を細め、やがて小さく頷いた。
「わかりました。あなたがそう仰るなら」
「──よし」
胸を撫で下ろす。
俺の言うことだけは素直に聞いてくれるらしい。
頼もしいが、少々胃が痛むギャップだ。
「では、いかがいたしましょう?」
「それを今、考えてるんだよ……」
俺は再び門へと目を向けた。
衛兵は二人。
彼らは武器を持っているとはいえ、こちらには多彩な魔術を扱えるメルトナがいる。
だったら──。
「メルトナ、魔術であいつらの気を引けないか?」
「それでしたら、便利なものがありますよ」
「……え?」
食い気味の返答だった。
メルトナはそう言うと、さっきまでのやり取りなど何もなかったかのように衛兵たちへと目線を向けた。
「眠らせる魔術です」
「──そんな便利なもん、あるならさっさと言え!」
思わず、デカい声でツッコんでしまった。
「えっ? す、すみません……」
メルトナは目をパチクリとさせて、心底申し訳なさそうに縮こまる。
物騒な選択肢しか頭に浮かばないあたり、やっぱりこの人、どこか浮世離れしているというか。
……ポンコツなところがあるな。
______と、次の瞬間。
「──誰だッ!」
門の方から、衛兵の怒号が飛んできた。
大声をあげたせいで、衛兵に見つかってしまったらしい。
長槍を構えた二人が、こちらへ駆け寄ってくる。
「……あ」
俺とメルトナは、同時に顔を見合わせた。
「ご、ごめん、メルトナ」
「ふふ──いえ、お構いなく」
メルトナはクスリと可憐に微笑むと、駆け寄ってくる衛兵たちへ向けて静かに手を掲げた。
その顔つきは、一瞬で頼りがいのある手練れのそれへと変わる。
「‘’レムーニャ‘’」
淡く幻想的な、青白い光が夜闇を走る。
やがてそれは、衛兵を取り囲んだ。
「な、なん──」
衛兵二人は、糸の切れた人形のように、力なくその場に崩れ落ちた。
______あまりにも鮮やかな無力化。
今までの苦悩は何だったのか……。
「では、行きましょうか」
「ああ……」
頼もしすぎる相棒の後ろ姿を追いかけながら。
俺たちは防壁の門をくぐり、未知なる街の闇へと足を踏み入れた。




