間話「後悔」
アイヴィス・フォーリン。
彼女はツェルニア王国でも名の知れたフォーリン伯爵家の令嬢である。
代々、王国の魔術師や官僚を輩出してきた名門。
その家に生まれた彼女には、幼い頃から当然のように、ある未来が用意されていた。
ツェルニア王立魔術大学への進学。
そして、魔術師としてツェルニアに仕えること。
______その期待は、彼女にとって決して重荷ではなかった。
言葉を覚えるのが異様に早く、幼い頃から学術本を読み始めた。
とりわけ数学や魔術理論に対する理解力は突出しており、それは大人を唸らせるほどであった。
いつしか周囲は、彼女をこう呼ぶようになっていた。
『天才』──と。
七歳のころ、彼女はルシャンド王都学院に入学した。
そこは貴族だけが集う場所ではない。
名の通った豪商の子弟や、学問・技術に秀でた者など、一定以上の身分や財力を持つ者、あるいは特異な才能を認められた者だけが門をくぐることを許された、王国屈指の教育機関である。
公爵家の令息もいれば、裕福な商人の娘もいる。
そんな中、ひときわ異彩を放つ少年がいた。
______名を、ロッゾ。
彼には、家名がなかった。
ツェルニアでは、商人や職人、農民に至るまで、多くの者が代々受け継いだ家名を持っている。
それすら持たないということは、彼の家がそれほどまでに身分の低い家柄であることを意味していた。
当然、周囲の人間は彼を歓迎しなかった。
名家ばかりが集う学院にあって、ロッゾはことあるごとに蔑まれ、時には露骨な嫌がらせを受けることさえあった。
それだけでなく、魔術の才も彼にはなかった。
術式の理論も、魔力の扱い方も、ほとんど理解できない。
魔術を学ぶ者たちが当然のように身につけていくことすら、彼にはできなかった。
では、そんな彼が、なぜこの学院にいるのか。
何も持たぬ少年が、どうしてルシャンド王都学院への入学を許されたのか。
______それは、圧倒的な剣才があったから。
実際、名家の子息たちが師をつけ、幼い頃から鍛錬を積んでいる中。
ほとんど独学に近い環境でありながら、ロッゾの剣は彼らを凌ぐほどに鋭かった。
身分が低いことも、魔術を扱えないことも、些細なことだと言わんばかりに。
嘲笑されても、蔑まれても。
彼は決して俯かなかった。
ただ己の剣だけを信じるように、真っ直ぐ前を見据えていた。
______そんな彼の姿に、アイヴィスは惹かれていった。
家柄と才能。
何もかもに恵まれていた彼女にとって、
何も持たないように見えながら、それでも己の身一つで立ち続ける少年の姿は、
ひどく眩しく見えたのだ。
それは、いつしか憧れへ。
そして──恋へと変わっていった。
______時は巡り、ルシャンド王都学院を卒業した日のこと。
魔術の才能を認められたアイヴィスには、王立魔術大学より推薦状が届いていた。
フォーリン家にとって、それは願ってもやまないことだった。
その才をさらに磨けば、いずれは王国を代表する魔術師となるだろう。
それこそまさしく、彼女が期待し、期待された未来だった。
けれど、そんなアイヴィスにロッゾはこう告げた。
「俺、冒険者になるよ。──だからさ、お前も一緒に来ないか?」
冒険者。それは、ロッゾが幼い頃から抱き続けた夢だった。
彼の父は名の知れた冒険者であり、いつか自分もその背中を追うのだと、彼は何度も語っていたのだ。
その言葉を聞いた時、アイヴィスの脳裏にはあらゆることが浮かんでいた。
両親の望み。自分に与えられた才能。そして、これまで歩んできた道。
それら全てを捨ててまで、彼についていくというのか。
______その答えは、驚くほど早く決まった。
「──行く」
それが、アイヴィス・フォーリンが、人生で初めて自らの意思を優先した瞬間だった。
※ ※ ※ ※ ※
こうして二人は冒険者になった。
貴族の令嬢として生まれたアイヴィスにとって、それは決して平坦な道ではなかった。
両親の反対を押し切り、用意されていた輝かしい未来を捨ててまで選んだ道だ。
それでも、後悔はなかった。
ロッゾと肩を並べ、見知らぬ土地を歩く。
魔物を討ち、報酬を得て、時にはくだらないことで笑い合う。
それは、学院にいた頃には決して見ることのできなかった世界。
そんな二人が冒険者として活動する中で、一人の男と出会った。
名を、ブルモッド。
豪快な外見に似合わず面倒見がよく、戦いでは誰よりも頼りになる壁役だった。
やがて三人はパーティーを組み、行動を共にするようになった。
剣を振るうロッゾ。
魔術を操るアイヴィス。
そして、その二人を守り、支えるブルモッド。
三人でいれば、どんな依頼だってこなせる。
少なくとも、あの頃のアイヴィスはそう思っていた。
______けれど。
いつからだろうか。
ロッゾが、少しずつ変わり始めたのは。
かつて彼を突き動かしていたのは、ただ純粋な憧れだった。
父のような冒険者になること。
己の剣一本で、自分の存在を証明すること。
だが、冒険者として名を上げ、金を手にし、周囲から認められるようになるにつれて──その瞳に映るものも、少しずつ変わっていった。
金。
名誉。
女。
それまで見向きもしなかったものに、彼は次第に執着するようになった。
態度も荒々しくなり、剣を握る理由さえ、いつしか変わっていた。
そして、かつては決して他人に屈しなかった男が──今度は、自分より弱い者を見下すようになった。
アイヴィスにとって、それはなによりも受け入れ難い事実だった。
かつて自分が愛したのは、そんな男ではなかったからだ。
何度も彼を止めようとした。
何度も昔の彼に戻ってほしいと願った。
______それでも、届かなかった。
やがてアイヴィスは、ロッゾと距離を置くようになった。
両親との関係も、とうに壊れていた。
帰る場所はない。
それでも、ただ一人だけ。
ブルモッドだけは変わらなかった。
彼だけが、かつての三人を繋ぎ止める最後の存在だった。
だからこそ、アイヴィスにとって、ブルモッドは誰よりも大切な仲間であり続けた。
※ ※ ※ ※ ※
たとえその内実が落ちぶれようと、積み重ねてきた功績が消えるわけではない。
彼らのパーティの名だけは、未だにその権威を確かなものとしていた。
そんなある日のことだった。
アイヴィスたちのもとへ、とある公爵から一件の依頼が入った。
それは、他言無用とされた秘密裏の依頼。
その内容を聞いたとき、アイヴィスは自分の耳を疑った。
『エルド山脈に潜む、竜族の生き残りを捜索せよ。
生死は問わないが見つけ次第、連れて帰れ』
______竜族といえば、かつてツェルニアの人々を恐怖に陥れた存在。
人の手には到底及ばぬ力を持ち、幾度となく国土を脅かしたという、昔話に登場する種族。
60年も前の話。
今なお王国を代表する英雄・ヴェノッサによって、竜王を除くすべての竜族が討ち果たされた。
その竜王も彼により撃退され、今は遥か北方・魔族の蔓延る『魔界』に身を隠している。
そう、伝えられているのだ。
だからこそ、最初は冗談かと思った。
しかし、その依頼主は一介の貴族ではない。
王国でも確かな地位を持つ、公爵その人からの依頼。
依頼書の末尾に押された紋章が、それを証明していた。
ならば、ただの戯言と切り捨てるわけにもいかない。
半信半疑のまま、アイヴィスたちはその依頼を引き受けた。
______そして、エルド山脈へと向かった。
※ ※ ※ ※ ※
月と対をなし浮かぶ、その小さな太陽を見上げながら、
アイヴィスの心中は後悔で満たされていた。
______あのとき、ロッゾなんかに着いていかなければ。
王立魔術大学へ進んでいれば。
自分もいつかはあれほどの魔術を使えるようになっていたのだろうか。
こんな所で野垂れ死ぬこともなく、今頃は偉大な魔術師として王国に仕えていたのだろうか。
目の前に浮かぶ灼熱の光球は、かつて自分が追い求めていたものだった。
冒険者となってから、ぴたりと成長を止めた魔術の道。
それ以降、どれほど努力しても届かなかった、上位魔術の領域。
それを今、こうして目の前に突き付けられている。
______もし、あのとき別の道を選んでいたら。
そんな叶うはずのない想像が、今更になって胸の奥を締め付けていた。
視界が滲み、目の前の景色が輪郭を失っていく。
「お父さま、お母さま──ごめんなさい」
その呟きは、灼熱がうねる音の前に搔き消された。
______やがて、紅蓮の星が、堕ちた。
凄まじい熱波が森を駆け抜け、炎が視界を埋め尽くす。
「っ.........‘’オルトォォ‘’!!」
炎の波に呑まれる直前。
血反吐を吐きながらの、決死の叫び。声の主はロッゾだ。
その言葉に応え、彼の前方には盾状の結界が展開された。
それは、かつて王都学院で彼が唯一会得した、金属性の基礎魔術『オルト』だった。
魔術の才能がなかった彼が、必死に食らいついて覚えたもの。
剣を折られたとき。あるいは、武器を失い、何もできなくなったとき。
それでも‘’彼女‘’の身だけは守れるようにと──。
その一方、アイヴィスは呆然と立ち尽くしたまま、
眼前に迫る地獄の襲来を、ただ待つことしかできなかった。
______死を覚悟した、そのとき。
彼女の視界に、大きな影が割り込んだ。──ブルモッドだった。
彼は、何も言わなかった。
ただ、無防備を晒すアイヴィスの前へと身を滑り込ませ、その巨躯で彼女を覆い隠した。
「──ーぁ」
それ以上の言葉は、喉の奥から出てこなかった。
その背中は、最後まで彼女の盾であり続けた。




