第五話「悪夢」
______暑い。
最初に感じたのは、肌を焼くような熱。
その感覚に始まって、俺の意識がはっきりと産声を上げる。
気がつけば、足元に見知らぬ土が広がっていた。
頬を撫でる風は熱く、喉の奥には煙の苦味が残っている。
______どこだ、ここは。
置かれた状況の異様さに、猛烈な焦燥が胸を突く。
決して穏やかな場所ではないことだけは確実だ。
だが、視界を自由に動かすことは叶わない。
そこに映る光景を、ただ無防備に受け入れることしかできなかった。
身体は確かにここにある。
感覚もある。
それなのに、指先一つとして動かせない。
まるで自分の身体の中に、自分以外の意識が同居しているような。
______否、逆だ。この身体は俺のものじゃない。
その輪郭をよくなぞるように、意識を巡らせる。
……恐らくは、彼女のもの。
なぜかは、わからないが。
俺はいま、彼女の身体を通してその五感を共有させられている。
そうして彼女が見上げた先にあったのは、赤一色に染まった炎の世界。
そこは、かつては村だったのだろう。
焼け爛れた家々、燃え尽き灰となった木々、それらが微かにその面影を残している。
周囲には、人──正確には、彼女と同じく『頭部の二本の角』『長い耳』『細長い瞳孔』の特徴を持つ亜人たちが、何十人も倒れていた。
胸に剣を突き立てられた女。
腰から下を失った老人。
焼け落ちた瓦礫の下敷きになった子供。
世界を赤く染め上げる要素はなにも炎に限らない。
道端に広がる彼らの血の沼もまた、惨劇の赤を濃くしていた。
______まさに地獄と呼ぶに相応しい光景。
「……ぁ」
喉から漏れ出た嗚咽。
その声の主は、俺ではなく彼女だ。
何かと思えば、燃え盛る火焔の奥から、こちらへ迫りくる影があった。
足取りこそ緩やかなものの。
あちこちに転がる死体を目にも留めず、
ただ一人残った彼女を、確実に追い詰めようとしている。
やがて凄絶な赤に照らされ、影の正体が顕わになった。
迫りくるそれは、人間の集団だった。
重厚な鎧をその身に纏い、腰に剣を携えている兵士たち。
______勝てるわけが、ない。
圧倒的な絶望に叩きのめされ、彼女は震えたまま、その場から動くことはなかった。
兵団が眼前に迫って歩みを止めると、先頭にいた一人の男が剣を抜く。
兵士たちの無機質な鉄鎧とは異なり、彼が纏っていたのは特段煌びやかな白銀のそれだ。
胸当てには複雑な紋章が刻まれている。
無抵抗の彼女を前にしてもなお、その双眸には慈悲を一切感じさせない、冷酷な光が宿っていた。
一目でわかる。この集団の指揮官であり、手練れだ。
「主の命だ。──赦せ」
揺らぎのない、冷徹な声だった。
それを合図に、掲げていた剣が容赦なく振り下ろされる。
死を悟り、彼女が瞼を閉じた──そのときだった。
______ギィィン!
耳をつんざく金属音が、した。
何事かと、恐る恐る彼女が目を開ける。
そこには圧倒的な威圧感を放つ巨躯が割って入っていた。
ただ背を向けて立っているだけだというのに。
その佇まいには、何事にも揺るがされることのない王者の風格が漂っていた。
それが誰なのか、俺にはわからなかった。
「──‘’竜王‘’か……」
冷徹だったその声に、初めて焦りの色が混じる。
背後に控える兵士たちの間にも、一瞬にして動揺が広まった。
「逃げろ」
その動揺を無視し、‘’竜王‘’と呼ばれた巨躯の男は、ただ一言、短く彼女へと投げかけた。
低く響くその声には、抗うことを許さぬ厳かさがあった。
「──お父様……ですが」
「逃げろと言っている!!」
腹の底から響く怒号。
だが、彼女は理解した。
それが怒りなどではなく、父としての決死の願いなのだと。
もはや言葉を返すことなどできなかった。
生まれたての小鹿のように足をもつれさせながらも、背後の轟音から必死に遠ざかる。
生きるために。
逃げることしかできない己の弱さに、血を吐くような憤りと悔しさを噛み締めながら。
______そこで、彼女との接続は断ち切られた。
※ ※ ※ ※ ※
「──くん」
遥か遠くで、誰かが、呼んでいる。
……そんな気がする。
「──ハルくん」
深い水底に沈んでいた意識が、ゆっくりと浮かび上がっていく。
遠くにあったはずの声が、少しずつこちら側へ近づいてくる。
「チハルくん……!」
やがてそれが、初めからすぐそこにあったのだと自覚したとき、
俺の意識はようやく現実へと引き戻された。
「──っ」
荒い息を吐き出しながら身体を起こす。
視界に入ってきたのは、心配そうにこちらを覗き込むメルトナだった。
「……メルトナ?」
「はい、おはようございます。
……悪い夢でも、見ておられましたか?」
「……そう、なのかもしれない」
冷や汗を拭いながら、俺は短く答えた。
胸の動悸が治まらない。
強烈な熱と焦惨な光景の残像が脳裏に張り付いている。
……思い出したくもない悪夢だ。
「でも──もう、大丈夫だよ」
そう強がってみせると、メルトナはしばらく俺の顔を見つめていたが、
やがて、張り詰めていた表情を和らげた。
「……そうですか」
安堵の微笑を浮かべた──その直後だった。
「チハルくん」
彼女の声から、温度が消えた。
「……お伝えしなければならないことがございます」
さっきまでの柔らかな表情は、もうどこにもなかった。
「……ど、どうした?」
「お疲れのところ申し訳ありませんが──」
メルトナは静かに立ち上がる。
「今すぐ、ここを離れなければなりません」
「──は?」
間抜けな声が漏れる。
いや、だって……。
なんだその、ホラゲの最終盤にありそうなセリフは。
「敵襲です」
その二文字が、俺の頭の中で意味を結ぶまで。
しばしの時間を要した。
______やがて。
「……」
部屋を見渡す。
異変を告げるものは、どこにも見当たらない。
耳を澄ませる。
囲炉裏の焚火が、パチパチと静かに音を立てているだけだ。
至って平穏。
……いや。
もしかするとこの静寂は、嵐を前にした束の間の凪、なのかもしれない。
それでも、だ。
「敵って言っても、一体どこに──」
「すでに扉の前に奴らはいます。
裏口から逃げましょう」
彼女の確信に満ちた言葉。
それを機に、何の変哲もなかった静寂は、にわかに異質なものへと姿を変えた。
胸の奥に沸いた不安に背を押され、立ち上がろうとした、次の瞬間。
嵐は、訪れた。
______ゴンッ!!
轟音。
それが何であるのか、理解する猶予すら与えられず。
視界が、白く染まった。




