第三話「無力感」
______魔獣。
その言葉に関心を示す余裕もなかった。
それほどまでに、俺の身体は本能的な恐怖に支配されていた。
……いや、待て。
俺は異世界に来た。
竜の血だって取り込んだという。
死にかけだった身体も、数日で回復した。
だったら、俺にも何かあるんじゃないか。
異世界転移。
竜の血。
降臨者。
これだけ揃っているんだ。
何か特別な力があっても、おかしくないのでは?
「……」
縋りつくような思いで、右手を掲げてみた。
何も起こらない。
足掻くように、左手を掲げてみた。
……当然、風の一筋すら起きはしなかった。
魔法が使える気配もない。
身体が急に軽くなったわけでもない。
強いて言えば、視力が少し良くなった気がする。
だから、何だというのだ。
この世界に来る前と、何も変わっていない。
剣も武器も持っていなければ、そもそも戦った経験すらない。
______この世界でも、俺は何もできない。
その容赦のない現実に気づいた瞬間、全身から血の気が引いていく。
異世界に来たからって、無条件に強くなるわけじゃない。
竜の血を取り込んだからって、無敵になるわけでもない。
俺はただの、引きこもり大学生だ。
そんな俺の目の前には今、涎を垂らした巨大な魔獣がいる。
______殺される。
そう思った瞬間、魔獣は猛然と駆け出した。
数十メートルあった間合いが、みるみるうちに縮まっていく。
逃げなければ。
そう思うのに、身体が言うことを聞かない。
……今更、死そのものが怖いわけではない。
けれど、目の前から迫ってくる殺意は別だった。
死を望んでいたからといって、殺されることまで平気なわけではない。
早くも訪れた二度目の終わりを悟り、俺は運命にその身を委ねた。
そんなときだった。
「──‘’ラドルク‘’」
静かで落ち着いた、メルトナの声。
直後、左耳のあたりを弾丸のような何かが掠め、凄まじい熱風が走った。
______次の瞬間、魔獣の巨躯が半ばから抉り飛ばされていた。
噴水のように鮮血が吹き出し、返り血が俺の頬を軽く掠める。
魔獣は断末魔を上げることすらなく、その場に崩れ落ちた。
「チハルくん、お怪我はございませんか」
反射的に左耳へ手を当てる。
血はついていない。どうやら怪我はないらしい。
「あ、あぁ。おかげさまで」
「──良かった」
安堵を漏らす彼女の横で、俺の左耳にはまだ熱が残っていた。
短く唱えられた言葉。
直後に起こった異変。
______あれが、魔術なのだろうか。
「今のは?」
「はい。土属性の中位魔術──ラドルクです」
やはり、魔術か。
言葉としては聞いていた。
けれど、実際に見るのは初めてだった。
土属性というからには、岩弾か何かだったのだろう。
あれだけの巨体を一撃で屠る威力。
それをメルトナは、いとも簡単にやってのけた。
……いや、簡単ではないのかもしれないが。
対して、俺は何もできなかった。
ただ、恐怖に立ちすくみ、彼女に助けられるのを待つだけだった。
……ふと。
______別に俺なんかいなくても、この人は大丈夫なんじゃないか。
そんな残酷な思考が、頭をよぎった。
メルトナは一人で魔獣を倒せる。
自分一人で生きていける、圧倒的な強さを持っている。
だったら、俺がここにいる意味は何なのだろうか。
……あぁ、この感覚。
また、だ。
前の世界でもそうだった。
周りには何でもできる優秀な人間がいて、でも俺は彼らの足元にも及ばなくて──誰の期待にも応えられなかった。
悔しい、なんて感情すら長くは続かなかった。
また、繰り返すのか?
いざとなれば何もできず、ただ守られているだけ。
そんなのは、あまりにも格好悪い。
……いや。
それ以上に、怖かった。
俺に、あれほど意味を見出してくれた彼女に。
______失望され、見放されてしまうのでは。
彼女にとって、必要な存在であり続けたい。
彼女のためになるのなら、もう少し生きてもいいと。
そう、思えるかもしれないから。
なら、最低限、この世界で生き抜くための力くらいは身に着けるべきだろう。
格好なんてつけていられない。
魔術というものを、教わってみよう。
※ ※ ※ ※ ※
一方、そんな俺の葛藤など知る由もないメルトナはというと。
彼女は魔獣の死骸のほうへ歩み寄り、懐から小さな刃物を取り出していた。
そして──。
躊躇なく、その巨体へと突き立てた。
「……ええと、メルトナ? なにをしていらっしゃるの?」
「解体をしております」
慣れた手つきで、ザクザクと肉を切り分けていくメルトナ。
返り血を避けるような洗練された身のこなしで、彼女はふと、こちらへ視線を向けた。
「魔獣の骨格は、人間とよく似ているんですよ」
「……え?」
「関節の隙間にこうして刃を入れれば、力を入れずとも簡単に切断できます。
血の抜き方も、肉の削ぎ方も……人間と、何も変わりませんから」
「っ……」
淡々と語る彼女の紅い瞳には、ひどく冷ややかな光が宿っていた。
その静かな声の底に、どこか人間という生き物に対する底知れない憎悪の欠片を感じて、俺は背筋が粟立つ感覚を覚える。
……俺、まさかそのうち解体されて食われたりしないよな?
冗談抜きで、そんな命の危機が頭をよぎる。
俺の肉なんて不健康極まりなくて、絶対に美味しくないはずだが。
「それに、魔獣の肉は味こそ微妙ですが、栄養は確かですよ」
「そ、そっすか……」
すっといつもの微笑みに戻った彼女に、俺は引き攣った愛想笑いを返すことしかできなかった。
温室育ちの俺には、なかなか刺激の強い光景だ。
鼻を刺す血と獣の匂いに、思わず胃がえずく。
丁寧な言葉遣い。
穏やかな微笑み。
つい数分前まで、慈悲深い女神をも思わせた、気品溢れる佇まい。
……その奥底にチラリと覗いた、冷たく昏い闇。
俺の中の(勝手な)メルトナ像が、音を立てて崩れていくのを感じた。
彼女は、ただ長閑に森で一人暮らしをしてきたわけじゃない。
何十年という果てしない孤独の中、暗闇で息を潜めて生きてきたのだ。
人間の急所を、命の奪い方を熟知するような何かがあったとしてもおかしくはない。
______とは頭で理解しようとするものの、恐ろしいギャップを感じずにはいられないが。
なんて失礼なことを考えていると、
「──‘’シエラ‘’」
メルトナはまた呪文を唱えた。
すると、手元の肉塊をゆっくりと、薄い氷の層が覆い始めた。
「……冷凍保存まで、魔術でできるんだ」
「はい、便利ですよ」
まるで冷蔵庫でも扱うかのように、魔術を生活の一部としても使っている。
あまりにも手慣れた一連の動作に、俺はただ感心するしかなかった。
「さて、食料も十分集まったことですし、戻りましょうか」
「お、おう……」
何事もなかったかのように歩き出すメルトナ。
俺も慌てて、その後を追った。
……思っていたより、ずっと刺激が強い気分転換だった。
※ ※ ※ ※ ※
小屋へ戻ると、メルトナは布に包んだ冷凍肉を抱えたまま、部屋の中央にある古びた囲炉裏へ向かった。
浅めの鉄鍋へ、摘みたてのミルエカの実がどさりと移される。
木製のすりこぎ棒を手にした彼女は、慣れた手つきで実をぐりぐりと潰し始めた。
甘酸っぱい、マスカットのような香りが部屋中に立ち込める。
「なにを作ってるんだ?」
「下味ですよ。
ミルエカの香りが、お肉の臭みを綺麗に消してくれるんです」
「へえ……」
「それに、果実の成分がお肉の繊維を解いて、柔らかくしてくれる効果もあるんだとか」
そうか、そんな知恵もあるのか。
意外と、異世界でも化学は発展してるのだろうか。
やがて、深い赤紫色の果汁が溜まった鍋の中へ、氷漬けの魔獣肉が沈められていく。
果汁の湖に肉がしっかりと浸かったのを確認すると、メルトナは袖を少し捲り上げ、薪を組み合わせて囲炉裏へとくべ始めた。
……その洗練された動作を眺めていると、ふと疑問が浮かんできた。
「──火起こしは、やっぱり魔術でやってるのか?」
「ええ、その通りですよ」
火打石や道具を取り出す様子もなく、ごく自然に薪を並べる彼女の姿に、俺は改めて納得した。
魔術は、戦うためだけのものじゃない。
火をつけ、肉を冷凍する──この世界で生きていくための『生活の術』でもあるんだと、ようやく実感として腑に落ちていく。
だったら──さっき決めたばかりじゃないか。
この世界で生き抜くための力を身に着けようと。
「それ、よかったら俺にやらせてくれないか?」
言葉にするのに、少しだけ時間がかかった。
メルトナがきょとんとした顔で俺を見る。
「構いませんが──チハルくんは魔術を扱えるのですか?」
「……いや」
俺は眉をひそめ、耐えるように深く俯いた。
彼女が向けてくる純粋な眼差しが、今の俺には眩しすぎて、直視することができない。
「扱えるどころか、その……知識もないんだ」
予言の存在として、彼女がどれほど俺に大きな期待を寄せてくれているか。
それを理解しているからこそ、何一つ持っていない己の無力さを突きつけることが、恐ろしい。
今にも「なんだ、そんなものか」と失望されるのではないか。
「あのとき、俺は何もできなかった。
ただ茫然と、メルトナの助けを待つだけだった」
向けられた温かな期待を自ら踏みにじってしまう恐怖に、心臓が痛いほど嫌な拍動を打つ。
それでも──情けなく震える喉から、どうにか言葉を繋ぎ止めた。
「……それが、嫌なんだ」
「……」
「俺も、君のために、何かできるようになりたい。
だから──魔術を教えて欲しい」
本当に伝えたかった想いを、迷いを振り切って口にした。
すると──メルトナの手が、ぴたりと止まる。
「……私の、ために」
ぽつりと、俺の言葉を慈しむように反芻した。
彼女はゆっくりと手から力を抜くと、信徒が祈りを捧げるように、胸の前でそっと両手を重ね合わせる。
その紅い瞳は大きく揺れ、切れ長の目尻には小さな雫が浮かんでいた。
「……ああ、チハルくん。私……私は」
どこか呆然と、かみ締めるように紡がれる声。
まるで溢れ出す喜びに耐えかねるように、メルトナはそっと、俺の両手をその掌で包み込む。
「この日を迎えるために……あなたとお会いするために、あんなにも長い孤独を生き抜いたのですね」
その瞳に宿るのは、慈悲深い女神のような、あるいは我が子を慈しむ母親のような、どこまでも深い慈愛だった。
……あれ?
俺、そんな大層なこと言ったかな?
ただ、足を引っ張りたくないとか、少しは役に立ちたいとか、その程度のつもりだったのだが。
まさか涙ぐむほど感動されるとは思わず、俺はメルトナの猛烈な熱量に気圧されて言葉を失ってしまう。
「喜んで、私の持てる全てをお教えいたします」
愛おしくてたまらないというように、柔らかな微笑みが俺に向けられる。
俺の存在ごと包み込んでくれるような、圧倒的な包容力と安心感。
……しかし同時に、この人の腕の中に一度収まってしまったら、二度と外へ出られないのではないかという重圧もあった。
それでも──俺にとって、それは息苦しくも暖かな、炬燵の中のように感じられた。
「……ありがとう」
「いいえ。……こちらこそ、ありがとうございます。チハルくん」
胸の奥で凝り固まっていた虚無感の名残りが、彼女の温もりによって、優しく溶かされていく。
______少しでも、強くなりたい。
いつか、俺を必要としてくれた、彼女の隣に立てるように。




