第二話「氷解」
「は……?」
唐突に目の前で膝を突き、頭を垂れたメルトナの姿に、俺は呆然と息を呑んだ。
何かを切実に乞うようなその佇まいが、重苦しいプレッシャーとなって俺の全身にのしかかってくる。
______なんだよ、その無責任すぎる投げかけは。
ひしひしと、重い怒りが腹の底から競り上がってくる。
それは体力を削り取るような苦しい焦燥となって、俺の胸中を激しくかき乱した。
「勝手に助けた挙句、今度は何かを背負わせるっていうのか?」
「──え?」
俺は怒りに突き動かされるまま、ベッドの端へ身を乗り出す。
目の前で膝をつくメルトナの肩へ、なりふり構わず両手を伸ばした。
「うっ……」
押し殺したような、小さな呻き声。
不意を突かれたショックか、ほんの僅かに肩を跳ねさせたメルトナの様子に、俺の心臓がどっと跳ねる。
……だが、一度溢れ出したドロドロとした感情は、もう自分でも止められなかった。
激しい動悸をごまかすように、俺は荒い息のまま言葉を叩きつける。
「冗談じゃねえッ……!
俺は……俺は、死にたかったんだ……っ」
上から見下ろす俺の眼差しは、惨めに揺れているのだろうと自分でもわかった。
メルトナを押し倒す力すら湧かない。
肩を掴んでいるのか、それとも縋りついているのかすら自分でも分からない。
ただ、惨めに震える喉から、掠れた拒絶を吐き散らすことしかできなかった。
「──っ」
しかし彼女は、俺の手の震えを感じ取っているはずなのに。
振り払おうとも、怯えて身を引こうともしない。
だが──先ほどまでの、神聖で泰然とした雰囲気は消え去っていた。
眩む視界の中で、わずかに開かれた彼女の薄い唇が、微かに震えているのだけが異様に鮮明に映り込む。
あからさまに焦っているのが、俺にもわかった。
「……申し訳、ございません」
その声は痛々しいほど低く、どこまでも真摯だった。
俺が掴む力を緩めかけたその時、彼女はゆっくりと顔を上げた。
紅い瞳の奥には、押し殺したような寂寥が潜んでいる。
「古くからの予言に伝わる存在が、ようやく現れたのだと……つい躍起になってしまったんです」
「……古い、予言?」
「『竜の願いが天に認められしとき、理の外より降臨者現る。
やがて彼の者は、その願いを叶えんとそなたらを導くだろう』
……我々竜族の伝承には、そのような予言があるのです」
気丈に紡がれていたその声に、微かな震えが混じり始める。
それでも彼女は、潤んだ紅い瞳で真っ直ぐに俺を見つめ返していた。
「何十年も孤独に生き続け、ようやく願いが叶ったのだと──喜びのあまり、勝手な真似をいたしました」
「……っ」
______その言葉を聞いた瞬間。
背筋にひやりと冷たいものが走り、あれほど怒りに荒んでいたはずの頭の中が、一瞬にして凪いだ。
……俺は、なんて残酷な言葉をこの人に叩きつけてしまったんだ。
何十年。
それほど長く果てしない孤独の末に見つけた希望を、俺は己の不幸を盾にして、頭ごなしに否定してしまったのか。
「……今のあなたのお気持ちは、私にも分かります」
メルトナは自嘲するように、微かに唇を歪めた。
「全てを忘れ、解き放たれたいという想い。
暗闇の中で、息を潜めて生きてきた私自身、そう願ったこともありましたから」
その静かな告白が、鋭い刃となって俺の心を深く抉り取る。
もし俺が彼女の立場なら、耐えきれずに壊れていただろう。
暗闇の苦しさは、誰よりも知っていたはずなのに。
俺は己の惨めさに酔い痴れ、救い出してくれた彼女に泥を投げつけたのだ。
「だというのに……。
私の願いを押し付けてしまって──本当に、ごめんなさい」
「……」
痛々しく頭を下げ、なおも己を責める彼女の姿に、激しい自己嫌悪が濁流のように込み上げてきた。
彼女の肩を掴んでいた両腕から、するりと力が抜け落ちる。
行き場を失った俺の指先は、無意識のうちに自身の左手首へと伸びていた。
服の上から強く爪を立て、見えない古傷の感覚を確かめるように──どうしようもない己を苛んだ。
「……悪かった」
掠れた声が、乾いた唇から零れ落ちた。
爪を立てていた腕からゆっくりと手を離し、俺は深くうなだれる。
「ただの、八つ当たりだ。
助けてもらったのに……あんな酷いこと言って。
本当に、悪かった……」
「……いえ、お気になさらないで」
メルトナは静かに首を振り、伏し目がちに俺の手の甲へ、その温かな掌を重ねた。
すっぽりと俺の手を覆うその体温は柔らかく心地良い。
……けれど同時に、二度と腕を振り払わせないような、強固で逃げ場のない重さを秘めていた。
______それから、しばらくの間。
部屋の中には、重く静かな時間が降り積もっていった。
荒れ狂っていた感情が引き散らかされた後、頭の中には冷めた後悔だけが残っている。
胸の奥にこびりついていた冷たい虚無感が、完全に消えたわけではない。
だが、今は手の甲から伝わる彼女の体温が、俺の意識を確かにこの世界へ繋ぎ止めてくれていた。
……と、そんな静寂を切り裂くように。
______ぐうぅぅ。
部屋の中に、情けない腹の虫の音が響き渡った。
「「……」」
そういえば、最後にまともに物を食べたのがいつだったか、もう思い出せもしない。
顔が熱くなっていく俺を見て、メルトナはわずかに緊張を解き、くすりと上品に微笑んだ。
「数日も寝込まれておられたのですから、無理もありません。
何か食べられるものを探しに、外へ出てみませんか?」
「……いや」
俺は視線を逸らし、力なく首を振った。
「いいよ。なんか……食べる気になれなくて」
胃の奥が、鉛のように重い。
空腹を知らせる音とは裏腹に、何かを口に入れたいという欲求は少しも湧いてこない。
あの薄暗い部屋で心をすり減らしていた時と同じ、心と身体がちぐはぐに切り離されてしまったような感覚だ。
そんな俺の様子を見て、メルトナは無理強いすることなく、柔らかい声で提案した。
「そう仰らず、少しだけ外の空気を吸いに行きましょう?
ずっとこの狭い部屋にいては、気も滅入ってしまいますから」
その控えめな気遣いが、ひどく胸に沁みた。
食べるためじゃなく、ただ気分転換するだけなら。
「……わかった。そこまで言うなら」
俺はベッドに手をつき、重い身体をどうにか持ち上げた。
※ ※ ※ ※ ※
外へ出ると、そこには鬱蒼とした深い森林が広がっていた。
俺たちがいた部屋の外観は、古びた一軒の小屋だった。
ひんやりとした木漏れ日が、火照った肌を優しく撫でていく。
______ふと、俺は空を見上げた。
初めて見る異世界の空は、目が痛くなるほどに澄み渡る青だった。
二月の北国で見慣れていた、あの色のない空とはまるで別世界だ。
……いや。
ここは本当に、別の世界なんだ。
もう、あの世界へは戻れない。
家族も、大学も、住み慣れた街も。
あの色褪せた空の下で過ごした、二十二年間の人生も。
______何もかも、遥か彼方に置いてきてしまった。
どうしようもない虚無が胸を満たす。
だが、不思議とそこに後悔の色はなかった。
「チハル様? いかがなさいましたか?」
「……ああ、ごめん。少し考え事を」
「そうでしたか。失礼いたしました」
メルトナは申し訳なさそうに頭を下げる。
……いや、そんな本気で謝らなくても。
「メルトナさん、あのさ」
「はい?」
「その……様っていうの、やめてもらえない?」
「ですが、降臨者様ということで──」
「もう少し、普通に話して欲しいんだ」
「……それは、確かに」
メルトナは少しだけ立ち止まって考え込み。
やがて、柔らかに目を細めた。
「では……チハルくん、と」
「なっ──」
様から君へ。
不意を突かれた距離の縮まり方に、思わず胸が跳ね、言葉を詰まらせてしまう。
こちらの拒絶をさらりと受け流し、当たり前のように懐へ足を踏み入れてくる容赦のなさ。
こんな綺麗なお姉さんに甘い声で呼ばれるのは──照れくささと同時に、逃げ道を徐々に塞がれていくような息苦しさがあった。
とはいえ、居心地が悪いわけではない。
「……嫌、でしたか?」
「いや、全然……。
むしろ、そっちのほうがありがたいかも」
「では、そう呼ばせていただきますね。チハルくん」
「……おす」
どこか愛おしそうにその名を口にする彼女に、耳の裏が熱くなるのを感じた。
「私の方からも、ひとつお願いしてもよろしいでしょうか?」
「どうしたんだ?」
「私のことなど、どうぞ呼び捨てで構いませんよ」
「え? あ、ああ……。
わかったよ、メルトナさ──メルトナ」
「はい。ありがとうございます、チハルくん」
まだ、少しぎこちないけど。
呼び名が変わっただけで、互いを遮っていた見えない壁が、すっと消えたような気がした。
「──と、着きました」
メルトナが足を止めた。
小屋から、大体一キロくらい歩いただろうか。
「これがツェルニアの特産品、野生のミルエカです」
目の前には、周囲の木々よりも一回り小さな植物が群生していた。
枝は地面近くまで垂れ下がり、そこには赤紫色の果実が房状に実っている。
その姿は、まるで──。
「……ブドウ?」
「あら。チハルくんの世界では、そう呼ぶのですか?」
メルトナは一房をもぎ取ると、その中から一粒を千切って俺に差し出した。
「どうぞ。一粒だけでも、お口にしてみてください」
「……これ、ほんとに食べられるの?」
「はい。甘さは控えめなので、食べやすいですよ」
見た目はブドウにそっくりだが、粒は一回り大きく、表面にはイチゴの種のような黄色い粒まで付いている。
食欲は相変わらずなかったが、彼女の厚意を無下にするのも忍びないだろう。
俺は手渡された未知の食べ物を、恐る恐る口に放り込んだ。
「……いただきます」
______果皮が、軽く弾ける。
口の中に、爽やかな酸味と、ほのかな甘みが広がった。
「味がする……」
ポツリと、そんな当たり前の感想が口を突いて出た。
俺にとって食事なんて、ただの面倒な作業に過ぎなかった。
何を食べても砂を噛むようで、美味しいと感じたことなんて、いつからなかっただろう。
けれど、今は違う。
久々に感じた確かな味が、俺の乾いた喉と身体に、じんわりと染み渡っていくのを感じた。
俺は、生きているんだ。
そんな、静かな実感を噛み締めていた。
「お気に召されましたか?」
俺の表情にわずかな生気が戻ったのを察したのか。
メルトナが嬉しそうに小首を傾げて覗き込んでくる。
「まあ、悪くはないよ」
少しだけ気恥ずかしくなって、俺はわざとぶっきらぼうに返して視線を逸らした。
「ふふ。それなら良かった」
メルトナの安堵したような柔らかな笑い声が、木漏れ日の落ちる森に溶けていく。
その姿が、慈悲深い女神のように見えて、俺は憂鬱を少しだけ忘れられた。
______なんて、呑気になっていた、そのときだった。
「……」
隣にいたメルトナの表情が、突然氷のように冷たく張り詰めた。
「メルトナ……?」
「チハルくん。お静かに」
彼女は俺の口元をそっと手で覆い、茂みへ視線を向ける。
何かいる。
そう直感した直後──。
______ガサッ、ガサッ。
茂みを掻き分ける音が、こちらへ近づいてくる。
そして、その隙間から巨大な影が姿を現した。
「……っ」
熊。
……に見えた。
だが、俺の知っている熊とは明らかに違う。
体長は四メートルを優に超え、全身を漆黒の毛皮が覆っている。
その背には鋭い棘が並び、丸太のように太い前脚には、鎧のような甲殻と鋭い爪が備わっていた。
何より異様なのは、その眼。
深紅に染まった瞳が、獲物を見つけた獣のように俺たちを捉えている。
「──魔獣です」
すぐ隣で、メルトナが静かに呟いた。




