第一話「異郷での目覚め」
______目が、覚めた。
最初に視界に入ってきたのは、見慣れない木造の天井。
俺はしばらく、その天井をぼんやりと眺めていた。
「ここは──?」
身体を、起こそうとする。
「……っ」
僅かに身体が軋んだ。
だが──。
「?」
痛くない。
ゆっくりと、自分の身体を見下ろす。
俺は、使い古されたベッドの上に横たわっていた。
手。
腕。
足。
何不自由なく動かせる。
どこにも、あの凄まじい衝撃で破裂したはずの感覚は残っていなかった。
「どういう、ことだ?」
______俺は、死んだはずだ。
あの鬱屈とした世界から逃げて、すべてを終わらせたはずだった。
なのに、なぜ俺は無傷で生きている?
「なんで……」
死にきれなかった混乱と、消えてくれない虚無感が、じわじわと胸の奥を満たしていく。
黒い感情が頭の中で煮詰まっていた、そのときだった。
「──ああ、良かった。お目覚めになりましたか」
______すぐ傍から、聞き覚えのない女性の声が、した。
柔らかく、上品で、心地の良い声。
俺は吸い寄せられるように、声のした方へ目を向けた。
そこにいたのは、一人の女性。
光を透かすような、綺麗な金髪。
鮮烈な熱を宿した、紅の三白眼。
すらりと伸びた長身と、どこか古代の彫刻を思わせる、洗練された立ち姿。
思わず呼吸を忘れるほど、美しい人だった。
だが──彼女を凝視するうちに、俺はその異彩に気づく。
頭部からしなやかに伸びる、二本の角。
人間のものとは明らかに異なる、細く尖った耳。
そして──縦に細く裂けた、爬虫類のような異形の瞳孔。
それらは、彼女が人間ではないことを決定的に示していた。
……だというのに。
怖さや忌避感なんて、微塵も湧いてこなかった。
その人間離れした姿が、鬱屈な現実をすべて忘れさせてくれるくらい、神聖な女神のように見えたのだ。
俺はただ、吸い寄せられるように彼女から目を離せずにいた。
「……怖く、ないのですか?」
「え?」
そんなとき、彼女が、少し硬い表情で尋ねてくる。
どこか緊張した様子で、俺の反応を覗き込むように。
「いや……全然」
もう一度、彼女の姿をまじまじと見つめる。
「むしろ──綺麗だと、思いますよ?」
頭で考えるより先に、素直な言葉が口から突いて出た。
「──ッ」
その瞬間、彼女の紅い瞳が大きく見開かれた。
金色のまつ毛がかすかに震え、胸元に置かれた白い手がぎゅっと握りしめられる。
まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのか、しばらく呆然と固まっていた。
やがて、伏せられた頬がほんの少しだけ赤くなると、彼女は微かに唇を震わせた。
「……そうですか」
絞り出すようなその声に、俺は少しドキリとする。
何か、変なことを言っただろうか。
でも、その顔は嫌がっているようには見えなかった。
やがて彼女は、肩へ垂れていた金色の髪をそっと指先でたくし上げ、ゆっくりと口を開いた。
「……ありがとう、ございます」
次に放たれたのは、小さく──しかし揺らぎのない声。
気分を害したわけではないと分かり、俺は少しだけ肩の力を抜く。
彼女はそれ以上何も言わず、金髪の毛先を静かに指先に絡めながら、ただ目線を逸らしていた。
俺の方も、彼女の芸術的とも言える美しさに呆気にとられ、余計な口を挟むことはできなかった。
しばしの間、気まずくも静かな沈黙が世界を支配する。
「……あの」
やがてぎこちなく口を開いたのは、彼女の方だった。
「先ほどは、その、失礼しました……。
私、メルトナと申します」
「……ああ、ご丁寧にどうも」
そういえば、まだ名前も聞いていなかった。
メルトナと、彼女はそう名乗った。
「俺は、鈴宮──チハル・スズミヤっていいます」
「チハル様、というのですね。
では、改めて──ご気分の方はいかがですか?」
「気分?」
「ええ。お身体に痛みなどは?」
「いや、特には──不思議なことに」
そう答えてから、俺はもう一度、自分の身体を見下ろした。
やっぱり、おかしい。
俺は確かに、あのホームで電車に轢かれたはずだ。
死んだと思った。
それなのに、今こうして何不自由なく生きている。
「それは良かった。
では──成功したようですね」
「……成功?」
その言葉に、俺は眉を寄せた。
「はい。チハル様のお命を、無事に救うことができたようです」
「……救った?」
生きている。
助かってしまった。
その事実を理解した瞬間、腹の底からドロリとした暗い熱が芽吹く。
一瞬でも目の前の美しさに毒気を抜かれ、浮かれていた己の身勝手さが途端に気味悪く思えてくる。
助かることなんて、望んでいなかった。
あの絶望に満ちた生から、ようやく逃げ出せたはずなのに。
俺はまた、この生きる苦痛へ引き戻されたというのか。
「……どうして」
絞り出すような声は、自分でも驚くほど低く、冷たく掠れていた。
「どうして……俺を助けたんですか」
怒鳴る気力すら湧かなかった。
ただ、逃げ場を失った暗い虚無感と、消えてくれない憤りが言葉になって漏れる。
「俺は、頼んだ覚えなんて……」
だが──メルトナは、俺の言葉に含まれた拒絶には気づかなかったのか。
困ったように微笑みながら説明を続けた。
「お怪我が、あまりにも酷かったのです。
私の木魔術では、治療が追いつきそうにありませんでしたので──」
「……魔術?」
「ええ。ですから、とある秘術を施させていただきました」
「……秘術?」
「我々竜族の血には、凄まじい治癒力があるのです。
私の血をチハル様へ分け与えたことで、なんとかお命を繋ぎ止めることができました」
「……竜族? それに……」
彼女の説明を、やっと理解した瞬間。
全身の血管を、強烈な熱が駆け巡った。
「──ッ」
自分のものではないナニカが体内で沸き立ち、内側から細胞を蠢かせているような、ぞっとするほどの異物感。
頭の中で猛烈な違和感が膨らんでいく。
素朴な木造の部屋に、美しくも人間離れした彼女の容姿。
体内の不気味な脈動と、浮世離れした単語の数々。
……バカバカしい、とは思いつつも。
______その全てが、とある一つの考えに帰結した。
「……あの、じゃあ──ここって」
息を整えながら、目の前の彼女を真っ直ぐに見据える。
「まさか、異世界だったりするんですか?」
メルトナは一瞬だけ首を傾げ、きょとんとした。
しかし、すぐにその言葉の意味を察したのか。
「──はい。この地は、チハル様がいた世界とは異なる世界です」
彼女は僅かに口角を上げ、静かに頷いた。
「……ハハ、冗談だろ……」
乾き切った笑いが、滑り落ちるように漏れた。
異世界。
そんなもの、物語の中にしか存在しないと思っていた。
「じゃあ、ここは日本じゃなくて……」
「ニホン、というのは存じ上げませんが……
ここは、ツェルニア王国です」
「ツェルニア……」
聞いたことのない国名だった。
「より正確には、ツェルニア王国の辺境にある、エルド山脈です」
本当に、俺の知る世界ではないというのか。
「理の外より現れた者。
──我々竜族は、そうした方々を降臨者と呼んでおります」
「降臨者……」
聞き慣れない言葉を、俺は力なく繰り返した。
次の瞬間。
「お待ちしておりました。降臨者様」
______突如、メルトナが俺の前に膝を折った。
胸に手を当て、深く頭を垂れるその姿には、揺るぎない覚悟と──どこか途方もない切実さが宿っていた。
「どうか──私をお導きください」




